プロローグ
階段を上って教室の見える廊下まで来たら、チャイムが鳴りだした。本当に遅刻になってはかなわない、慌てて教室に駆け込んだ。教室はざわついたままで、まだ先生は来てないようだった。
ふぅひと安心、それにタイミングもばっちりだねと心の中でガッツポーズをする。ざわめいた教室は、まだ席についてない生徒もチラホラいるようだった。自分の席に行こうとして気づく、奈々と沙織が私の席で待ち伏せしていた。
いかにも慌てて走ってきたように、息を弾ませて二人に近づく。机からいっきに椅子を引き出して、さも疲れたようにドカッと座る。
「二人とも、おはよう。あー疲れたー、危うく遅刻するとこだったよ。一限目なんだったっけ? 早く用意しないと先生来ちゃう」
まるで投げ出すかのように机の上に鞄を置いて、いそいそと中からノートや教科書を出す。おはよーと返してきたきり、二人は黙ったままで突っ立っている。二人がなかなか自分の席に戻っていかないので、ますます焦ってきた。仕方なく一度片づけたノートや教科書を、机に広げたりしながら顔を上げずに様子をうかがう。
本来ならばとっくに授業の時間になっている。奈々なら不思議でもないが、真面目な沙織には珍しいことだ。いつまでたっても落ち着かないままの騒がしい教室、じっと黙ったままの二人、そんな違和感にふっと気づいて顔を上げた。
「美香、黒板見てみなよ」
奈々はそう言った途端に堪えきれなくなったのか、おなかを抱えて笑い出した。沙織もつられて笑い出す。それでも授業中だからか小さな声でアハハハハッと笑っているのが沙織らしい。
黒板には大きな文字で『先生は三十分ほど遅れます。静かに自習すること』と書いてあった。
ガーン! 軽くショックだった。
昨日の夜。眠れないまま目を閉じていると、またもメールの着信音が鳴る。どうせ奈々だろうと思いながらも、一応は相手を確認してみる。やっぱり! 内容は見なくてもわかっているので、メールを開きもせずにまた目を閉じる。今日はいろいろありすぎて、身も心もくたくたになってしまった。
いつも決まったサービスエリアでトイレ休憩とお母さんに帰るコール、晩ご飯は家に帰ってからがうちの定番。
だけど今日のスキーは沙織と奈々も一緒だったから、途中で晩ご飯を食べて二人をそれぞれ家に送っていったので、ずいぶんと遅い時間の帰宅になった。早く寝ようとすぐにお風呂に入って、さっさとベッドにもぐりこんだ。
すごく疲れているのに……すごく眠いはずなのに……。目を閉じていると、今日の場面が花火のように浮かんでは消える。頭の中でぐるぐる回っているだけで、考えなんてちっともまとまらない。
明日、学校でなんて話せばいい?
今日のことをなんて思われた?
どんな顔して会えばいい?
学校行くのが憂鬱だ……
そんなことを考えていたら、さらにメールが来た。奈々のしぶとさに呆れつつもチェックしてみたら、沙織だったので『疲れたから寝る明日にして』そんな内容でメールを送り、ついでに奈々にも送る。そうしないと奈々のメール攻撃が止まないのはいつものことだから。
結局、何も思い付かないままに寝てしまっていた。おまけに少し寝坊してしまい、あわただしく家を出てきた。学校までに何とか言い訳を思いつこうと必死に考えてはみたものの、まるで思いつけない。何とか絞り出したのが、遅刻ギリギリで一限目に滑り込んで奈々の追及をかわすことだった。
こっちを見る奈々と沙織の目が嬉しそうに輝いている。想定外のことにとぼけるのを忘れて、活路を見出すべくキョロキョロしてしまう。
「美香にしてはいい作戦だったよ。タイミングもバッチリだったしね。いやー惜しかったねー」
奈々は目を輝かしながら、私の机に手をついてグイッと身を乗り出てくる。まさに意気揚々といった感じだ。私は逆に萎れてしまう。
すっかり萎れてしまった私を見た沙織が慌てていう。
「さっきは笑っちゃってごめんね。奈々ちゃんの言ったとおりだったから。そう思って見てたら美香ちゃんがコントをやってるみたいで可笑しくて。笑ってごめーん。ねっ機嫌なおして」
軽く手を合わせるようにして、ごめんねと謝っている沙織の無邪気な笑顔を見て思う。こういった女の子らしい雰囲気や仕草にすごく憧れる。綺麗で柔らかなショートカットの黒髪がふわりと揺れるのを見るたびに、なんで私の髪はこんな風にならないんだと不満に思う。同じようなショートなのに、私だと男の子みたいとかボーイッシュだとか言われるのが、とっても残念だ。
沙織とは高校になってからの友達、同じクラスになって知り合ってすぐに好きになってしまった。可愛らしく整った顔立ち、透けるような色白の肌、時折見せる大人びた表情。沙織のそんな雰囲気と容姿は男子にも人気らしい、一年女子で一番人気だと奈々から聞いた。どこか無防備さを感じさせる無邪気な笑顔に、どうしようもなく惹かれてしまう。そして、そんな彼女の笑顔は癒し効果バツグンなのです。
せっかく私が沙織の言葉に癒されていたのに、もう待ちきれないとばかりに、奈々がさらに身を乗り出してくる。
「さてさて、そろそろ本題にまいりますかー?」
ほんと嬉しそうに私の顔を覗き込んで、奈々が満面の笑みでにんまりと笑う。
「なになに……なんで……なにが……どうなって……それから……どうした……」
一気にまくしたてる奈々。びっくりして唖然とする私。
ハッと我に返って、席から伸び上るようにして慌てて奈々の口を手でふさぐ。まるで揉み合うようにして奈々を黙らせる。お願いするように言った。
「ちょ、ちょっとやめてよ、奈々の声大きすぎるよ。わかった、わかったから。ちゃんと話すから、声落としてよ」
してやったりと満足そうな顔の奈々をみて、やれやれ奈々には勝てないやと諦めつつも、周りに聞こえたんじゃないかと心配で、そっと後ろを確認してみた。教室のみんなは、すっかりリラックスムードになっているからか、特にこちらを気にしている様子はなかった。
「ほんと恥ずかしいからやめて、ちゃんと話すから」
言っているうちに、カーッと顔が赤くなるのが自分でもわかって、さらに恥ずかしくなってしまう。手でパタパタと顔をあおぎながら、落ち着け落ち着けと心の中で唱える。
「そんなに、からかったらダメだよ。よけいに言いにくくなっちゃうよ」
暴走気味の奈々を、やんわりと沙織が止めに入る。少しは反省したみたいでテンションをグッと落として、静かに私が話し出すのを待っている。
二人に興味津々で見つめられてしまうと、逃げ場もなくて仕方なく口を開く。
「えーと、ねぇ……」
ゆっくりと時間を稼ぎつつ考える。ダ、ダメだ。まるで思い浮かばない。私は机に座ったままで、上目づかいでチラッと奈々の顔を盗み見る。奈々のテンションがじわりと上がってくるのを感じたので、また仕方なく口を開く。
「えーと、ねぇ……。秘密じゃダメ?」
奈々のテンションが一気にマックスまで跳ね上がる。まくしたてようとする奈々を、沙織が抱きかかえるようにして止めてくれる。その体勢のままで、顔だけをこちらに向けて言う。
「ねえ、少ーしだけ教えて。奈々ちゃんだって少しだけど関わってるから、心配だって気持ちがあるんだよ。ねっ、少しだけ」
奈々のためって言っているけど、沙織だって興味津々なのは間違いなくて、瞳をキラキラさせている。
何か言わなきゃ収まらないのは、昨日から解かっていたことだったし覚悟を決める。素早く周りをチェックして、誰もこちらを見てないことを確認してから、小さな声で一気に話す。
「あの時と同じ場所でまた会って、雄太から声をかけてきたの。また教えてもらって、少し休もうってお茶してる時に二人に見られたの。で時間が来たからバイバイって」
一気に話してしまうと急に恥ずかしくなった。真っ赤になってしまった顔を、見られたくなくて俯いてしまう。小さな声だったんだし、周りに聞こえてるはずないってわかってるのに、後ろが気になって仕方ない。もう耳まで真っ赤になっていた。
奈々が優しく囁くように言う。
「ごめん、からかいすぎた。でもこれだけは教えて。あの時のメールのこと」
真剣な問いかけだってことは、俯いたままの私にもわかった。
「そうだったよ。うん訊いた」
小さいけどはっきりと答える。
「そっか、よかった。もっと聞きたいけど我慢しとくよ。美香が話してもいいって思えたら、聞かせてね」
そう言って、俯いたままの私の頭に手を置いて、ポンポンとあやすようにする。
「じゃあ、席に戻るわ」
そう言って自分の席に戻っていった。
「話してくれてありがと。わたしも戻るね」
沙織もそう言って、同じように頭をポンポンとして、戻っていった。