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幸福に至る病

 2階の彼女の部屋は全体的に可愛らしいアレンジがされている洋間で、ベッドや勉強机にテレビまで一通り完備という隙のなさだ。リビングにしても差し障りのなさそうな一部屋を彼女は縫いぐるみや漫画の棚でスペースを埋めている。

 彼女を机に対面させ、僕は座布団を貰って床に腰を下ろした。回転可能な椅子で、くるっとこちらに向き合った。

「先生、今日はどんなお話をしてくれるの?」

 学生と言うのは、むやみやたらと教師の無駄話が好きだ。横道に逸れて、出口の見えない迷路のような話を子供達は好む。もっとも、その迷路とて耳目を楽しむるに能わずと判断するとさっさと内職に移られてしまうわけであるが、時間を殺すという点を鑑みると誰も好き好んで止めるということはしない。

 一人の生徒を抜き出しても同じことだ。僕が2か月間受け持っている少女、西園寺さいおんじ清華せいかもその例外には当たらない。むしろ最も典型的なサンプルとして取り出すことができるだろう。清華に僕の、学校に行ってみたら学祭をやっていて愕然とした話・家から出たらいつの間にか季節が変わっていたという夏休みのヤドカリっぷりを話すと、彼女は笑い話として嬉々として傾聴する。何なら、これらが創作と思っている節があるくらいだ。その度に僕は複雑な気持ちになり、この自分の心を削るような話が笑われることはいいとしても創作と思われることに更なるダメージを負うのであった。

 また、清華はいつもセーラー服に膝上のスカートという制服姿に、長い黒髪を背中に流した姿で迎えてくれる。校則が厳しいと愚痴られたこともあり、「その割には自由なんだね」などとうっかりこぼそうものなら、「これは家だからこうしてる」「学校では一つにくくってる」などと言って嬉々としてポニーテールにした姿を僕に見せつけ、見事に30分稼がれてしまったこともある。彼らは学業に全力を注ぐことはなくとも、それを合法的に潰すことには全力をあげるのだ。

 そんなことをするよりされるよりも、僕としては清華にさっさと勉学をやらせて彼女の成績の確実アップを狙う方が一石三鳥で精神衛生上もよろしいのだが。

 今日、成績について言及すると、清華はにんまりとして学習机に乗っていた鞄の中から一枚の紙片を取り出して僕の鼻先に突きつけた。焦点の合わない白が僕の視界を覆う。

「清華、見えない」

 そんな僕の抗議も介さないまま、清華は一人で興奮した調子で続けた。

「凄くない? 先生、70点だよ、私!」

 視界を塞いでいる一枚の紙を清華からぶんどると、なるほど。だいたい70点相当の丸の数と実際には名前の横の欄に69点と書かれていた。

「69点じゃないか」

「一点くらい変わらないよ」

 清華はご機嫌な様子である。椅子の上で制服のまま胡坐を欠いた大変はしたない姿勢のまま、満面の笑みを浮かべる。因みに、4月の中旬に行われた入学時の学力調査では清華は英語43点と言う脅威の数字を叩きだして僕の立場を危うからしめた。

「しかもそれ、最高点」

 清華の名誉の為に付け加えておくと、彼女の通う笹ノ宮高等学校はそこそこの学力を有する進学校だ。だが僕の見た限りそこで行われるテストの難易度はそこそこに反してかなりのレベルであり、結果このようなことが起こると思われる。

「平均点は?」

「53点」

 渋い顔の僕と満面の笑みの清華。なるほど。

「どれくらい勉強した?」

「先生と授業中にやったことだけ」

 つまりは、ほとんど最低限ということである。宿題もやったりやらなかったりの清華だから、英語に関しては本当に最低レベルの勉強しかしていないのだ。

 僕はため息をついた。

「僕、いなくても大丈夫だね」

 すると、清華は目を丸くした。

「そんなことないよ!」

 因みに、渋る清華から強引に他の科目のテストを奪い取ると、平均かそれ以上と思われる数字が並んでいた。

「勉強してないのに、これ?」

「先生が来るようになって他の教科も今までより勉強し始めたから、ね」

 清華はもうワンランク上の高校を受けるべきだったと思う。4月の時点では文字通り全くの無勉だったのだろう。地頭は良いがまるで勉強しないタイプだ。

「それよりさー」

 とお得意の話題転換である。そんな手には乗らないぞと僕は無視する。

「学校より先に古文の助動詞を済ませて……」

「先生って彼女いないわけー?」

 その言葉に僕の体の中核を為していたとても大事で脆い部分が音を立てて瓦解し始めた。

「さ、さあどうだきゃな……」

「噛んでる……」

 呆れたような視線が飛んでくる。今までにも数回振られた話題だが、僕はこの手の話題に弱い。そう、物理的と言っていい類の弱さだ。まあ、思春期の学生となれば振らずにはいられない話題だろうが、僕としては極力避けたものだった。

「恋愛とは一種の精神病だ。病むことは良くない」

「なんだかモテない人みたいだけど、先生」

 みたい、ではない。事実そうなのだ。けれど、僕は大事なものの為に敢えてそれを口にしなかった。そう、大事なものの為に。

「面白いのにな」

 それは僕が身を削って作り上げた話だからだ。無味乾燥なものも極めればその乾燥具合が常人の刺激になるものらしい。一周回って。田舎に憧れる都会人みたいなものだ。

 それはさて置いて、僕は給与泥棒になるわけにはいかない。

「バカなこと言ってないで、古文をやろう。恋愛が見たいなら源氏物語でもいいよ。確か君の使ってる教科書に……」

「バカなことじゃない!」

 突然かつ思わぬ反撃に、僕の口が止まる。どうやら僕は彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。何が触れたのかまるで分らないが、とにかく僕は触れてしまったのだ。清華はすぐにはっとしてやや頬を染めたが、それでも毅然として

「バカなことじゃ、ないもん」

 と言って増々赤くなった。僕は何も言えなくなる。何と言えば良いのだろうか。少し考える。

「ごめん、そうだね。君の価値観を否定するのは言い過ぎだったよ。ただ、僕としても君の親御さんの信頼に報いたいんだ。だから僕は、君に最低限の知識を有して欲しいんだ。うん」

 我ながら立派な謝罪と要求だった。僕にしては。と思っていたところ、椅子の上の清華から盛大なため息がついてきた。

 ぼそりと。

「先生、本当に国語教えてるの?」

 え? ちょっと泣きそうになる。だが清華はそれ以上何を言うこともなく、いつも通りの屈託のない笑みに戻った。

「うん。私、やるよ」

 何が何だか分からないが、その言葉にほっとして僕も立ち上がった。椅子の上で行儀悪く座ったままの清華の隣に立つ。

「ほら、姿勢ちゃんとして。やればできるんだから、君は」

 すると、清華の笑みの質がちょっと変わったような気がした。何と言うか、無垢な子供のそれから、照れたようなはにかんだような笑みに。

 傍らに立つ僕を仰いで

「先生、本当に彼女いないの?」

 馬鹿なこと言ってないで、とはもう言わない。僕は学んだのだ。詰まらないプライドも捨てて。

「その通りだよ。ほら、光源氏が君を待っている」

「えー、わたし枕草子の方がいい」

 妙に弾んだ声をその黒髪の後ろ頭から聞いて、僕も安心する。彼女はやればできるのだ。



 難問なんかどこにも存在しなかったと、この時の僕は思っていた。無事1時間半の授業を終えて帰宅の途に着いた僕だったが、しかし思い返してみると原因はここにあったのではないかと考える。無論、当時「今度は宿題をやって来いよ」などと笑顔で釘を刺していた僕には思いも寄らぬことではあったが、それは決して青天の霹靂などではなかったのだ。





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