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知るを足りて分に安んず

 バイトを初めて行ったのは高校2年の時だった。地元のバーガーショップで働き始めたはいいが、その時の僕はお金が欲しいわけでもその他不可視の付随的価値が欲しいわけでもなく、ただ単に高校生ともなればバイトを経験するべきだろうと言う発生源不明かつ不毛な義務感に駆られて面接にこぎつけたのだ。

 結果から言うと採用され、数週間の研修期間の後本格的な賃金で働き始めるはずだったのだが、あろうことか僕は研修期間の最中に早くもバイトからドロップアウト、リタイアーを決め込んだわけだ。理由は複雑なようでいて簡単で、深く考えずに電話をかけた駅前のバーガーショップは学校の顔見知りが多くやってきて、更には教師に遭遇する可能性だって考えられた。有名無実と化していたうちの高校の校則のとある項には、バイトをすべからずと言う文句があったとか無かったとか。仕事内容に明確な感想を抱く前に、そのことが僕の繊細微妙な心の負担となり早期辞職へと繋がったのだ。倦厭すべき三十路に突入したという若い女店長は、そんな僕を温かく迎え入れてくれ、また生暖かく追放してくれたのだった。

 時を経て大学1年生、今度は慎重に慎重を重ねて選び抜いた書店員と言う天職は文月先輩との遭遇も含め成功に収まった。しかしいくら都会の賃金が高いからと言って、書店員の仕事は月の生活費を賄うに足るものではなかった。学費は親が投資してくれるものの、高熱費やアパートの賃貸料金などは僕が賄わなければならない。かと言ってあまり仕事をし過ぎても学業に障る。だから、もう少し自給の良いバイトを探さなければならないのは自明の理であった。そうして家庭教師のアルバイトを始めたのは、書店員のバイトに数か月遅れた1年前の9月の頭の頃であった。

 何故僕が唐突に自分のバイト遍歴を語り始めたのかと言うと、今僕は自分の短いバイト遍歴以来の難問にぶつかっているからだ。僕のバイト観はどうあるべきかその原初を辿ると、蘇る初心と共にファインドアウトできるという見立てであったが、僕の見通しは少なからず甘かったらしい。取り立てて特別な感情も浮かんでこない。それはまあ、僕にしてみれば当然のことであった。考えてみれば、考えるまでもなく。


 後輩との約束日が一日ずれていたら、僕が四ノ原駅に馳せ参じることは叶わなかっただろう。明日の金曜日には家庭教師のアルバイトが入っている。そのお宅に向かう為に、僕は午後4時頃に笹ノ宮に降り立った。僕のバイトの地である。駅前通りを南に下るとバイト先の本屋は5分の道のりだ。線路に沿って西に歩を進め、そこから迷路のような宅地を南西に縫うと目的の家に辿り着く。

 今年の3月から受け持った高校1年生で、僕の使命は彼女が高校の勉強に遅れない程度の知能を付けることだ。教科は英語と古典。ここら辺が文系人間の限界である。残念ながら最も需要のある数学に関して、僕は高校入学数か月でその教科との永遠の絶交の契りを交わしたのだ。極めて一方的かつ個人的に。サインコサインと言う新種の概念に遭遇した僕はあたかも割れる海の真ん中でモーセを失った民衆のように、その膨大な思考の公式の波に溺れていってついには浮き上がることをやめた。諦めたのであった。

 彼女には是非とも僕の二の舞になって欲しくはないものの、僕にその権限と能力はなく、英語と古典のその厭いようからただただ彼女が数学大好き人間であることを願うばかりであった。


 彼女の家に辿り着くと、教え子自身が僕を迎え入れてくれた。これはこの家では当然の出来事であるが、家庭教師を雇う家においてあまり一般的な対応とは言えない。僕の偏狭な経験則に基づけばの話であるが。そして無論、僕は商業相手とのコミュニケーションに特化した人間ではないので不満があるわけでも当然ない。

「やあ、宿題はやっておいたかい?」

 開口一番のセリフに、教え子は制服姿のままにっこりと笑った。邪気の一欠片も見せずに。

「勿論、やってないよ」

 深くため息をついて、僕は彼女の部屋へあがった。

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