一寸の光陰軽んずべからず
僕は友達が少ない。かと言って女の子に囲まれているわけでは勿論ない。字面通りの意味だ。接触する人間が少なければ相対的に対話をする数少ない知人の影響力は強くなる。従って僕の思考形態はおおよそ文月先輩の影響が色濃く反映されていた。まだ初々しい一回生だった頃に、バイトの際色々と彼には教えてもらった。実際的なことも、そうでないことも。例のキルケゴールの言葉も実は先輩から教わったものだ。
先輩の素性は謎めいていてどこの大学に所属しているか、正確に何歳なのかも知らないし、というかそもそも学生なのかも定かではない。夜の電車は帰宅するサラリーマンと学生で溢れかえっている。混雑した電車で吊り革に捕まりながら、僕は考えた。思考内容は、また翻って一週間前のことだ。
あれから調べてみたものの、あそこの番地にカフェができていたという事実は頑として得られなかった。僕の思い違いの線もあろうか、昼間に何度か足を運んでみてもやっぱり僕が立ち寄ったのはあの位置で、そしてそこにカフェは存在しなかった。あの一連の出来事が白夢中であった可能性の方が高く見えるくらいだ。
夜の車窓は車内を反映して混雑した電車を映している。黒い鏡が映す人ごみの中に、僕は立ち尽くしたように棒立ちする自分自身を見出した。しかし、鏡は見づらいし映す人は多いしそもそもそこに映っているのが本当に僕なのかあやふやになってくる。見れば見るほど、僕は自分ではない誰かの姿を自分自身だと思い込んでいるような気持ちになってくる。僕はなるだけ意識を映る車内ではなく、外の暗闇に集中させようとした。けれど、やはり上手くいかない。そこに映る人の顔々が僕を引きつける。窓に映る多くの顔の中で、僕は僕に良く似た顔が一瞬微笑んだような気がしたが、無論僕は微笑んでいない。
神五町で僕は降車した。神五町の駅から歩いて約5分の住宅街に僕の下宿はある。駅の北側は学校や幼稚園が散見する閑静な宅地で、南側は商店街とその向こうには街道が東西に伸びている。駅の北口で降りた僕は、夜の神五町を歩行した。舗装されたアスファルトは車が2台すれ違うには神経を要する程度の広さで、特に朝夕は歩道のない道の真ん中を歩行者が闊歩する。その時、道路の静寂を破るささやかな電子音が小さく鳴り響いた。僕の鞄の中からだ。かれこれ年単位で耳にしていない電話の着信音に一瞬びっくりしたものの、努めて平静を装って鞄の中から電話を取り出す。
電話は例の人違いの後輩君だった。いや、ちゃんと言うべきかな。
「明後日、先輩は大丈夫ですか」
もしもしもなければ、今大丈夫? もない。いきなり明後日だ。極めて単刀直入に飛んできた用件に、僕は何故だかイジワルをしてやりたくなった。足を止める。
「健康的な意味であれば、恐らく病院に運ばれるようなことはないと思うよ、これまで通りね」
ふと先輩の別れ際の言葉が蘇る。
「貴方の健康を私が心配する必要を認めてるんですか、先輩は」
「必ずしもそうではないね」
「そうでしょう。私が尋ねたいのは当然、日程的な意味合いにおいての状態です」
電話口の向こう側で、淡々とした口調が放たれ続ける。
「もっとも、2日後は土曜日ですので先輩の予定が空いていることは分かっています。ですからこれは、当然のことながら社交辞令です」
「それがどうして社交辞令なんだい?」
「どうせ空いているんだから必ず来いよ、などと言ったら失礼でしょう。その為に一旦疑問の形式をとったのですよ」
「どうして僕の予定が空いていると断言できるんだい?」
「え……」
彼女は言葉に詰まったようだった。予想もつかない質問をされたかのような絶句の気配に、既に相当失礼なことを言っている自覚はないらしい。「だって……」と彼女は続けた。
「先輩には友達がいないんでしょう?」
当然の如く放たれた彼女の一言は、僕の胸の深くに潜む脆弱な急所を一突きにした。それが当然の如く言われたのが尚更辛く、更に言えば僕はこんな自分の現状を彼女に話していない。言うまでもなく悟られてしまったのだ。
霞む目と震え声を抑えながら、僕は努めて冷静に言った。
「まあ、君がそう思うならそういうことにしてあげてもいいよ。で、用件は何なんだい?」
すると彼女は電話口の向こうではっと息を呑んだ。
「そうでした、こんな無駄話をしている場合ではありませんでした。私には私の用事があるんです。電車内での通話は避けたいですからね」
「つまり電車を待っている片手間で思い出したように電話したんだね」
「……! とにかくです。明後日、四ノ原駅南口構内にあるベーカリーに来てください。時間は午前9時厳守でお願いします。一限と同じ時刻ですので来れないこともないでしょう、よろしくお願いします。それでは!」
素早くまくし立て、後半はほとんど早口言葉のような調子で切られてしまった。注目すべきは、結局僕は一言も2日後の予定について言及していないということだ。オーケーどころか可能か不可なのかも答えていない……まあ、大丈夫なんだけどさ。
はあ、と深くため息を吐く。僕は一体どこへ行ってしまうのか。




