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彼思う故に彼あり

 英語では河の流れのことをcurrentという。ついでに現在という意味をも併せ持つその単語に、僕は「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という有名な冒頭文を主起こさずにはいられない。そのことをバイトの先輩に言うと、彼は表情を変えずにこういうのだ。

「けれど、英語版方丈記ではゆく川の流れは『the following river』で、currentと言う単語は使われてないね」

 彼の名前は文月翔ふみつきかけると言って、正確なことは分からないけど僕より2、3歳年上のはずである。書店のバイトを始めるに当たって知り合った謎めいた人物で、何を考えているか分からないある種の不気味ささえ感じさせる人間だ。だけれども、その知識の量と思考力は本物で。僕は頻繁に文月先輩に話しかける。大学では絶対的な孤独に置かれている僕だから、バイト先くらいでしか話し相手がいない為とも、まあ言えなくもない。

 午後から夜までのシフトが終わり、駅までの道すがら僕らは一緒に歩いた。バイトをしている場所は、笹ノささのみやという地域で、僕の下宿と大学の最寄り駅である四ノ原駅の丁度真ん中に位置する地域名だ。だから僕は、大学の帰りにそこでバイトをしていく。

 一緒にシフトが上がる時でも先輩とは必ず共に行くわけではない。先輩はきまぐれで、時折駅までの道程さえ断られることがあった。

 書店から駅までの駅前通りでは、夕飯の買い出しや帰路に急ぐ比較的年齢層が高めの人が目立つ。四ノ原は都会でも、笹ノ宮は都民のベッドタウンである。

 例のカフェの消失事件からは一週間が経っていた。あの後一応彼女とはメールアドレスを交換したのだが、全く音沙汰はない。カフェの忽然とした消滅を思い返し、僕はふと隣にいる先輩に尋ねてみたくなった。

「先輩は、神を信じますか?」

 飄々とした先輩は、僕の方を顧みないままに即答した。

「信じないね」

 辺りにある露店を始めて通行する人のように、さも興味深げに眺めていて、僕の質問には上の空なんじゃないかと思う。

「何故ですか?」

「理由は必要かな。神が居たら世界はこんなにも理不尽にできてはいないよ。人の作り出したこの世界に、神なんかいない。人類が猿であることを辞めた時に、神は神たることを辞めたんだ」

 僕の言葉より脇の果物屋のりんごの方に意識を傾けているように見えたのに、言うことは至極考えられた風だ。

「でも、神は必ずしも僕らにプラスであるとは限らないんじゃないですかね。神は公平なのでは」

「それは自然そのものを差してるね。神は人間の概念だ。人間が作り出したものならば、欠陥はある」

 神は概念である。そして、そこにその概念を認めた時にそれは実物と化す。彼女の言葉だ。僕は上着をしっかりと体に巻き付けた。風もない5月の夜のはずなのに、妙に肌寒く感じた。

 果物屋が視界から入らなくなると、ようやく先輩は隣の僕に目を向けた。

「君は何かに迷い込んだみたいだね」

「は?」

 唐突過ぎる指摘に、間抜けな声が漏れた。先輩は意に介さずに続ける。

「世界に規則を求めてはいけないよ。問題なのは、君が何を選ぶかだ」

 世界に規則を求めてはいけない。僕が何を選ぶか。先輩が言うと、妙に重みがある。駅はすぐそこに迫っていた。僕と先輩では乗る路線が違う。街灯の下、駅の入り口で立ち止まって彼はこう言った。

「日常は、簡単に崩れ去る」


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