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もしその世界で最も良い席を取りたいのなら、犬をどかしなさい

 意識を覚醒に導いたものは、すぐ近くを走る車が鳴らすエンジン音だった。甲高い音を立てつつ車の為に用意された国道を猛スピードで駆け抜けてゆく。街灯の淡い灯が目覚めたばかりの網膜に映る。自動車の交通量ばかりが目立ち、人通りが少ない夜の東四ノ原だった。眼前の国道から目を逸らすと、僕の後ろには建てたばかりに見えるマンションと住宅が並んでいた。僕は、氷谷神社があったはずの国道沿いにつっ立っていたのだった。

 はっと息を呑み、同時に脳がフル稼働をし始めた。氷谷神社が消えている。これは元の世界の絵だ。満月が続き、梅雨が消失して彼女と出会った世界ではなく、僕が無味無色の人生を描いてきた世界。慌てて目に付いたコンビニに駆け込み、入り口付近の棚に置いてある新聞紙を手に取った。日付欄に目を走らせると、そこには5月15日との記載が目に飛び込んできた。過ぎ去ったはずの皐月中旬。例の喫茶店に入った次の日だった。


 僕は、元の世界に戻ってきていたのだった。




 恐らく氷谷の神の存在が消え、平行世界へ僕を連れて来ていた奴の力が消失したせいだとは容易に想像がつく。そのおかげで強制的に戻されたのだ。奴には僕をあそこに取り残す力などなかったのだろう。でも、だとすると、本当にあっち側の存在だった彼女はどうなったのだろう? あの意地っ張りで強がりな後輩は?


 夜の四ノ原を一人歩きながら考える。

 彼女はきっとあそこで僕の消失を目の当たりにしただろう。何しろ僕はこっちにいるのだから。そう考えると胸が苦しくなり、またお別れの一つも言うことのできなかった現実を恨む。そう、現実なんてこんなもんだ。僕は彼女の為に命を張ったわけであるが、その彼女とは感動的な別れのセリフもなければ、ドラマチックな告白もなかった。僕も、彼女も、永遠に交わることのない線の上へ引き剥がされたのだ。

 ただ一つ、救いはある。


 国道を横へそれて、小売店が立ち並ぶ小道を進むと、高い雑居ビルの陰に小さな喫茶店が発見できた。夜でも更なる影に包まれ、今にも消えてしまいそうな存在感しか纏っていない。


 ほうっと息を吐く。元の世界に戻ってきたとしても、これがなかったら全て台無しだった。ドアの下部、ほぼ足元の高さに「営業中」と書かれた小さな板を発見し、苦笑がもれる。初めて来たときはこれが目につかず廃店を疑ったものだが、それにしてももうちょっと目につく場所へ設置するべきだろう。

 扉を開くと、からんからんと澄んだ鐘のような音が鳴った。店内の明るさは昼間も夜間も同じで、店のほぼ中央に吊る下がっているシャンデリア一つに明るさを頼っている。弓型のカウンターテーブルの向こう側には誰もおらず、カウンターを隔てたこちら側の、テーブル付近にはお客さんどころか店員の一人もいない。完璧な無人であった。

 何故だかため息が漏れ、今度はカウンターテーブルに腰かけた。奥に響くように、一声「すみません」誰もいないなんてことは有り得ないだろう。

 予想通り、すぐにぱたぱたと音がして、カウンターの奥から女の子が出て来た。まだ大人になり切れていない顔立ち、艶のある黒髪のショートヘア。間違いなく、辻風結菜だ。少し、息が苦しくなる。

 結奈は、僕を見るとすぐに微笑んだ。

「昨日のお客さんですね。わざわざ、ありがとうございます」

 昨日。僕にとってはもうかなり昔の話だ。ついでに言うと、結菜の他人行儀な口調も実際に言われるとショックを受けた。いや、彼女はいつだって敬意の込められていない敬語をしゃべっていたが、これとそれとは全然違う。

「ご注文は?」

 カウンターを隔てた正面に立った彼女の疑問に、僕は少し狼狽えた。メニュー表もなく、そういえば何を注文すればいいんだっけかななどと戸惑っていると、くすりと彼女は笑った。

「昨日きたばかりなのに、もう忘れたのですか。りんごジュースとコーヒーしかありませんよ」

 ああ、そうだった。この前は、コーヒーを選んだのだった。

「りんごジュースで」

 小さく頷くと彼女はカウンターの奥へ引っ込んで行った。そうだ、こちらの結菜はかなり穏やかで、丁寧だ。向こうの彼女はともすれば口が悪く(常に敬語調のくせに!)人を寄せ付けない冷たさを纏ってもいた。向うの結菜に声をかけた時、見事にその冷たさに当てられたのだった。

 奥からグラスに注がれたりんごジュースを盆に載せた彼女がやってくる。わざわざ、赤茶のテーブルの切れ目からこちら側にやってきて、僕の側へ置いてくれる。受け取りつつ、僕は尋ねた。訊かずにはいられなかった。

「君、名前は?」

 一瞬、きょとんとされる。ああしまった。非常識だったかもしれない。僕はこの娘の名前を知らず、彼女が結菜ではない可能性を潰しておきたかったのだ。だが彼女は快く答えてくれた。

辻風つじかぜ結奈ゆいなと申します」

 ナンパな僕をからかってるのか、どこか悪戯っぽい笑みを湛えた彼女。「自分の容姿を鏡と相談してきて下さい」などと言ってきた向こうの結菜よりはかなり優しいな。などと益体もなく考える。そうか、やっぱり彼女はこちら側の結菜だったのだ。


 前回と変わらず、結菜は何故か僕の側に立ったままだった。

「どうして立ったままなの?」

 と素朴な疑問をぶつけると、彼女は何か得心したように「それもそうですね」などと頷くと、僕の隣に腰かけた。

 いや、そうじゃない。

「どうかしましたか?」

 驚愕が顔に漏れていただろうか。

「いや、こんな所に座っていいの?」

 すると、彼女は傷ついたように唇を尖らせた。

「あなたが座って下さいって言ったから」

 立ち上がりそうになる彼女を慌ててたしなめる。僕はそういう意味で言ったのではない。

「そうじゃなくて、他のお客さんが来たりとか」

「しません、絶対に」

 いやにきっぱりと言う。

「今日はお爺ちゃんがいないし、こうしていてもばれ無いから大丈夫なんです。奥にいても退屈ですし」

 鐘の音が出たら本来は飛び出てこなくちゃダメだろう、と言う言葉を飲み込んで耐える。彼女の側にも何か思惑があるのだろうか。

「貴方が来てくれて助かりました」

 唐突に、結菜が切り出した。

「?」

「いえ、尋ねようと思っていたことがあったので」

 彼女は、いやに切迫した様子で、カウンターの上で組んだ自分の手を見つめながらつぶやく。

「前にいらしたときはお爺ちゃんもいたのでお客様にこんな非常識な態度はとれなかったのです」

 彼女は思い切って顔をあげ、僕の顔を直視した。息が詰まるような視線の真っ直ぐさに、顔を背けたくなるが、こらえる。

「私は、貴方をどこかで見たような気がしたんです。私の人生のどこかで、絶対に」

 途端、息が漏れた。重苦しい、張り詰めたような緊張が解けていくのが分かる。どこかで。それは多分、ここでないどこかだ。

「勿論、実際にはそれは有り得ないはずです。初対面でしたし。ですがあなたは再びここを訪れてくれました。何かあるような気がします」


 ふと、僕は得心した。

 前の世界の結菜と、この世界の結菜の違い。それは、氷谷の呪縛から解放されているかされていないかだ。前の世界の彼女は、常に見えざる束縛を受け、彼女を巡る全てが危険に晒されていた。だからあんなに張り詰めた性格だったのだ。それが存在しないこちら側の結奈が、多分本来の危険から解放された結菜なのだ。そう考えると、向こうで神の呪縛から解放された結菜も、きっとこのように優しく穏やかな娘になるのだろう。


「それは多分、大学じゃないかな。同じ大学に通っていない?」

泊山はくやま大学ですか?」

「そう」

 こっくりと頷くが、彼女はまだ不満そうだった。

「一つ訊いていい?」

「なんですか」

「思弁が終わる、まさにその時に信仰が終わる。君はキルケゴールのこの言葉の、どこが好きなの?」

 途端、彼女は目を見開いた。

「分かりません。ですが、その言葉を聞くとどうしてか心が温まるような気がするんです。その後の……」

「だから思考する限り、神様はいない」

 言葉を引き継ぐと、彼女はこっくりと頷いた。

「その言葉はもっと好きです。どうしてか、心が震えるような想いがします。エピソードなんてないはずなのに」

 再び、真摯な視線が向けられる。その視線は、僕を見上げた前の世界の結菜と同じで、鳥居の前で繋いだ手の温かさ、ベーカリーで見せた涙、満月の夜に見せた笑顔が脳裏に蘇る。

「どうしましたか?」

「ううん、なんでもない」


 この世界には、文月先輩もいる。清華とも仲違いしていない。そして何より、僕の大切な人が自由に生きているんだ。僕が守りたかったものが全てここにある。

「もしその家で最も良い席に座りたいのなら、猫をどかしなさい。知ってる?」

 僕が唐突に話題を振ると、彼女は素直に尋ねてくれた。

「なんですか、それ?」

「その家で最も居心地の良いソファや椅子は、その家の猫が占領してるんだ。つまり、猫をどかせば一番居心地がいい席が手に入るんだよ」

「変な諺ですね」

 生真面目な彼女は、僕の方を向いたままそう言った。りんごジュースのグラスを傾けると、程よい冷たさの果汁が喉に沁みた。

「それと同じだよ。この世界で一番居心地が良い席は、誰かが埋めてる。埋めてるそれをのけてしまえば、自分のものだ」

「なんか、煙に巻こうとしてませんか……?」

 胡乱な目線は介さず、ジュースに専念する。うん、なかなかおいしい。

「君はもうその席を手に入れている。それならそれで、もうじゅうぶんじゃない?」

「それって、詮索するなってことですか?」

 僕を掴んで離さない視線と、追い縋るような解答は、前の世界でも体験した結菜の会話上の特徴だった。

「さあね」

「変な人ですね、先輩は」

 ぽろっと彼女が言う。途端、僕と彼女は顔を見合わせた。

「あれ、僕って君より一つ上の学年だって教えたっけ?」

「いえ。なんか口をついて……それより、なんで私の年を知ってるんですか?」

 あ、墓穴を掘った。

「やっぱり私とは前に会ってたんですね」

 ぐい、と詰め寄られる。これには乾いた笑いしか漏れない。どうしようか。

「会っているといえばそうかもしれないし、会っていないといえばそうかもしれない」

「もう、話してもらいますからね!」


 命を共にした彼女はもういない。けれど、僕は自分の意思で行動して、自分の大切なものを守ったのだ。

 以前と比べれば少しはマシになって、成長できただろうか? そう願うばかりである。


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