ハルマゲドン
弐の鳥居の奥、本殿の前には一人の男性が立っていた。2匹の狛犬が賽銭箱を挟むように置かれ、その賽銭箱の前に屹立している。彼女の、お爺さんだ。こうなることは半ば予想済みだった。
「お爺ちゃん!?」
声を挙げて駆け寄ろうとする彼女を僕は手を挙げて制した。周囲を囲む鎮守の森の影で、お爺さんの表情はよく見えなかった。参道の脇には行燈が数メートルごとに置かれ照らされているものの賽銭箱の前にはその光が届いていない。
僕が制止すると、暗闇の向こうから忍び笑いが漏れてきた。
「思ったより賢いな、小僧」
その声に、彼女が隣で息を呑む。無愛想なお爺さんだったけれども、それをはるかに凌駕したしゃがれた低い声。明らかに元のお爺さんのものではない。
僕は彼女への説明も兼ねて、お爺さんに言った。
「そのお爺さんが、今の依代なんだろう」
僕らは弐の鳥居を過ぎた、参道の正中線上に足を止めていた。お爺さんまでの距離は十メートルくらいか。お爺さんが歩を進め、行燈の明りの下に現れた。その外見はおおよそ変わっていないものの、表情には歪んだ笑みを浮かべていた。
「この爺さんも、中々の曲者でな」
お爺さん自身がそう言う。そうだと思っていた。
「彼は、お前から守る為に結奈を遠ざけていた。自分も犠牲になる覚悟で。そうなんだろう」
僕の考えをぶつけてみたが、お爺さん、いや、氷谷義基は小さく笑うだけだった。
今、お爺さんの体の中には氷谷神社の祭神が降臨している。僕が、全ての片を付けにきたことを当然知っているだろう。そのお爺さんもすべての事情を把握していて、もはや孫娘にこの呪われた神様との関係を断ち切って欲しいが故にあんなに冷たく当たっていたのだ。結菜がここを捨てても、氷谷はもはや手出しができない。それぐらいに神は追いつめられていたのだから。
普通、神様は汚れない女性の体、所謂巫女を依代として降臨する。だが、それに足る器はもはや存在しないのだ。それこそ、辻風結菜が後を継がない限り。
「お前は、氷谷の血族でないと降りてくることができない。そうなんだろう」
これにも、氷谷は答えなかった。僕は、再び彼女の手を握った。
「でも残念だったな。彼女はもう、どんなことがあってもお前にはつかない。お前の存在も、ここで終わる」
氷谷が、目をカッと見開く。途端、一陣の強風が参道を駆け抜けた。僕は彼女とお互い吹き飛ばされないように手を繋いだまま、もう片方の手で顔を庇った。風はすぐに収まった。
氷谷が嗤う。
「俺にはまだ力があるぞ」
「あってももう、消えなければならない。そうだろう?」
僕がせせら笑うと、氷谷は笑みを消した。
氷谷は本来氏神だ。それならば、民衆からの信仰で力を集めることができたとしても、その存在意義は一族に拠る。一族からの信仰が途絶えれば消えざるを得ない。
隣の彼女はずっと黙っている。そう、それでいい。
乾燥した唇を舐めて僕は続きを説いた。
「諦めるんだな。お前が僕らにちょっかいを出すほど、彼女の心はお前から離れていく。死期を早めるだけだ」
だが、氷谷は動じなかった。唇をめくりあげて、にやりと笑う。
「人間の小僧が俺を騙せると思うなよ。お前を元の世界へ返せるのは俺だけなんだぜ? 俺が消えたら、お前は永遠にこの異世界に閉じ込められる。どうする?」
大げさに肩を竦めてみせる。これは、文月先輩の癖だった。
「別に。この世界で生きていくだけだ」
氷谷が再び笑みを消す。文月先輩のアドバイスに従って氷谷神社を調べていた時期があった。その知識が今、僕の武器だ
「お前は辻風結菜の心を奪うのに失敗した。北風と太陽みたいに、彼女の心を勝ち取ったのはこの僕だ」
ちょっと調子に乗ると、隣の彼女に足を踏んづけられた。いたい。必要な演出なのに。彼女はそっぽを向いていた。
一方の氷谷には、冗談で済まない事柄だ。語調が荒くなった。
「ふざけるな。お前は今ここで殺してもいいんだぞ」
彼女の手を握る手に汗が滲む。ここで臆してはならない。僕が口を開こうとすると、その時彼女が先に口走っていた。
「そうなった時は、永遠に氷谷を恨みます」
嬉しいことを言ってくれる。僕も口添えする。
「そもそも、彼女の信仰をお前が失ったのはお前が過去に同じ過ちを犯したからだと、忘れたのか?」
彼女の手前、はっきりとは口にしないが、これは彼女の母親の死のことだ。これを期に氷谷は彼女の信仰を失った。




