山下の垂訓
夜の国道を北に抜け、四ノ原駅付近で東に右折して氷谷神社へと僕らは向かった。今日の講義はサボることになってしまったが、それは必要経費というものだ。やむを得ない。最後の大決戦を前に、単位の一つぐらい供物として提供した方が縁起が良いくらいだ。
車も疎らな国道の歩道を歩いている間、僕は彼女に最低限の説明をした。
「僕は多分、違う世界に居たんだ。それが切り替わったのは恐らく、君そっくりの店員さんがいる喫茶店を出た直後だ。あの店員はそっくりさんでも他人の空似でもない、正真正銘、君自身だったんだ」
僕の説明に、彼女はとても困惑していた。今だって、何故自分が連れられているのかよく分かった風ではない。
「そんなことって、あるんですか? 確かにこの世界は少しおかしいです。ですがいくらなんでもそんな突拍子もないことなんて……」
僕は首を振った。
「考えられない要素を全て除外していったとき、そこに残ったものがどんなに信じ得ぬことだとしても、それが真実なんだ。君なら分かるよね?」
「シャーロック・ホームズですか……」
先を歩きながら、僕は彼女の方を見ずに続けた。
「いいかい? この数週間、僕の生活の中心は君だった。何かの行動の際にはいつも君の陰がチラついていた。おかしいんだ、これは」
「わたしは先輩をストークなどしてませんが……なにがおかしいんですか?」
脳裏に清華の言葉が蘇る。彼女の涙ながらの告白が、直接的には僕を解答に導いた。
「おかしいんだ。僕はこれまでの人生で人と関わることを避けてきた。その僕がだ。どうして君とこんなにも関わることになったのか」
「偶然でしょう」
後ろから即座に返される。何件もの軒先の明りを通過しながら、前方を睨みつける。
「ああ、偶然だ。でも、喫茶店の消失は明らかに偶然では片づけられない。それに、そっくりさんについてもだ」
一拍置いた。
「偶然にしては、重なり過ぎだ」
続ける。
「その偶然が重なった結果、孤独だった君もまた僕と言う存在を知ってしまったんだ。無関係だった僕を守る為に、再び氷谷神社へと縛られることになる」
「しょうがないでしょう。実際、先輩は氷谷家とは縁も所縁もない方ですから、わたしが氷谷を捨てたことで先輩にも呪いがかかっているというのなら、迷惑をかけるわけにはいかなかったのです」
「そこが狙いだったんだよ。僕を引きあいに出して、君を連れ戻す。それが、狙いだ」
「誰の?」
決まっている。
「祭神、氷谷のだよ」
僕は平行世界に迷い込んだのではない。いや、ある意味ではその認識で正しいが、もっと正確に言うなれば僕はこの世界へと連れてこられたのだ。祭神氷谷が、辻風結菜を氷谷へと縛る為の道具として。満月の消失は多分、僕と結菜の結びつきを補強し、更に脅す為の演出だったのだろうが、雨期は消失したのではなく、多分この世界に元々存在しなかったものだろう。実際、さっき確認したところ結菜は知らないと答えていた。この世界はやはり、僕が元居た世界とは微妙に異なった世界なのだという説の補強はここで為された。満月と梅雨はどちらも異常事態であったが、その設定の差異は片方は神の御業で、もう片方はこの世界特有の常識に由来したものだったのだ。更に人文の面では、僕を抵抗に導くような存在はことごとく排除された。具体的には文月先輩と、そして清華だ。清華との関係の破綻が、100%他人のせいだとは言わないが、恐らく僕も清華もそうなるように導かれたのだと推測する。
全ては消えかけの呪神、氷谷が定めたものだ。彼は生き延びる為に、その末裔である彼女を取り込もうとしている。だから多分、彼女は殺されなかったのだ。氷谷を捨てても。殺したら、真に氷谷の跡継ぎは途絶えてしまうから。
鳥居が見えてきた。夜の神社は黒い鎮守の森に囲まれ、闇の底に深く沈んでいる。国道のすぐ脇にあるのに、車のライトも歩道の街灯もその闇にはまるで届いてなくて、鳥居の向こうが本当に異世界に見えてくる。魔界の帝王に挑む一般人のような気持ちだった。
深く息を吸い込む。が、それでも自然と足が震えた。ここの神は確かに存在して、僕に害を為そうとしているのだ。
「先輩?」
彼女が横に立った。巨大な一の鳥居を前にして立ちすくむ僕を、心配そうに横から覗きこんでくる。
「大丈夫ですか?」
「ああ、心配ない」
精いっぱいの虚勢だった。もしこの先で間違えれば、僕の命など本当に消し飛ぶ事態が起こるかもしれない。そんな経験、善良なぼっちである僕には当然前代未聞である。
「行こう」
震える足を無理やり運ぼうとしたそのときだった。手が取られ、体が後ろに引かれる。彼女が、僕の手を握ったのだ。
「先輩。わたしは先輩の言うことをまだ半分も飲み込めてないかもしれません。先輩が気づいたことの半分も知らないかもしれません。でも、先輩がすごく危険なことをしようというのは分かります。先輩はわたしを、放って置いてくれた方が安全でしょう? どうして、そうしないんですか?」
彼女の手は、ひどく冷たかった。6月初旬の夜に冷え込むはずもないのに。
彼女の手に包み込まれた自分の手に、視線を落とす。
何と言えばいいのだろうか。
「君に引かれたのが呪いの為であろうと、君自身に罪はないんだ。それならば、僕はこの出会いの為にできることをする。それだけなんだ」
何か期待が外れたかのように、彼女は唇を尖らせた。
「よく分かりません」
本当に何と言えば良いのか。僕が手を握り返してみると、彼女はやや目を見開いた。
「本当に大切なことは言葉にできないし、するまでもないんだ。それならばこれは、すごく大切なこと。それでも不満かい?」
少し考えていた様子だったが、やがて彼女は僅かに微笑んだ。それは、僕がこの前見た、けれど全く別種の、今にも泣き出してしまいそうな笑みだった。
「不満はありません」
そうして、僕らは二人一緒に鳥居をくぐった。手をつなぎながら。




