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ホメオタシス

 夕方の四ノ原駅は帰宅のラッシュでひどく混雑する。山手線、西武新宿線、それに地下鉄メトロ東西線を走らせているこの駅は16時から22時頃まで入口から各路線の改札に向けて人の流れができる。その流れに逆らって四ノ原駅を出ると、駅前のロータリーで立ち止まり空を仰いでみた。多くの人が忙しそうに僕の脇を通り過ぎて行く。見上げた空、東に低く見えるのは満月。雲ひとつない夕方の空は色彩のずれた昔のゲームみたいに、あるいは絵の具をこぼしてしまった絵画のようにその姿を橙に変えていた。

 今日は夜の講義がある日だった。いつかと同じ、聴講人数とその教室の大きさが釣り合っていない例の教室で受講する日だ。四ノ原駅から泊山大学へ南に下る国道沿いの道は大体が駅方面へ北上する学生かサラリーマンが通り、この時間帯において僕みたいに南下する人間は少数だった。

 ここでも流れに逆らって突き進む。通り過ぎる人の多くは学生で、皆一様に複数人だった。あるものは男女の二人連れで、またあるものは男数人で横に広がっていた。彼らに共通していることといえば、皆ほんのりと微笑んでいることだ。何がそんなにも楽しいのか、口元に笑みを浮かべて話に興じている。

 6月に入り、本格的に夏が始まる。生物が最も繁殖に精を出し、最も盛んに活動する時期。そんな活動とは今のところずっと無縁でいた僕だけれども、それともまた、僕もいつかはそんな当たり前で凡百な生物のDNAに従って責務を果たす時が来るのだろうか。

 大学の敷地に入り、教室へ向かいながらも考えはやまなかった。僕をとりまく全ては居ながらにして消失しているようなものだった。それは僕がそれをそれとして認識していなかったからだろうか、それとも必然的で不可避な事象として眼前から消失していたのだろうか。

 僕はこれからひとつの答えを出す。それがどんな結果を世界にもたらすかまったく予想がつかないけれど、現実的に、そう、ひどく現実的に考えて僕は進むしかないのだ。人間は考える葦である。それと同時に社会的動物でもある。無味乾燥な荒野に根付く孤高の葦ではいられないのだ。葦が絡まりあったこの世界で、僕もまたそのひとつの葦になる時がきたのだ。


 大教室の入口で待つ。ほどなくして、前の授業が終わり講義を受けていた学生が出てきた。その流れはは僕らの講義ほどまばらでもないが、昼間の大教室ほどの大波でもない。目を凝らして目的の人物を探す。欠席していたらどうしようかと思ったが、すぐに見つけられた。一気に駆け寄る。

「話したいことがあるんだ」

 これは予想の範疇だったが、当然の如く無視をされた。当たり前か。昨日絶交を言い渡されたばかりだし。

 彼女は僕をまるでいないもののように素通りし、学生の流れに従ってすたすたと歩をすすめた。折れてはいけない!

氷谷ひたに結菜ゆいな!!」

 柄にもなく大声を出し、彼女の二の腕をがっちりと掴んだ。何事かと近くを歩いていた人々がこちらに目をやるが、構わない。彼女は足を止めたものの、ガンとして僕を見ようとはしない。

「君がそうしていても、何も解決しないんだ」

「私は氷谷という苗字ではありません」

 僕の方を見ずに必要最小限のセリフで済まそうとする姿勢が見てとれる。埒があかない。小さく息を吸い込んで僕は言った。

「そんなことをしても、僕は救われない」

 途端、彼女がはっとしてこちらを向いた。一気に言ってしまう。

「君も僕もそんな態度では臭いものに蓋をするようなものなんだ。それも解決するのは枝葉末節だ。僕らはもう引き返せない。なかったことには、できないんだよ!」

 彼女が僕の方に向き直る。もう逃げられはしないだろうと、腕を放す。彼女は相当戸惑ったような、困惑したような表情に幾分かの諦観の念を込めていた。

「けれど、もうどうしようもないでしょう。せめて、まったく無関係なあなたを巻き込んでしまった私には、あなたを開放する義務があるのです」

 思わず溜め息が出る。授業終了直後の波は完全に去ってしまい、講義室の入口に人気はなくなっていた。

「君一人で解決することはないんだ。どうして、僕を頼ってくれないんだ?」

「だって……それこそ先輩には無縁のはずな話でしょう?」

「おおもとはね。でも、もう僕は当事者であるわけだし、もっと言えば君より先に当事者足りえたとも言えるかもしれない。どちらにせよ協力するにやぶさかじゃないよ。というより、僕も協力しなければならない」

 まったく、何でも頑なに一人で解決する姿勢はまるで鏡を見ているようだ。

 しかし彼女はいまだ困惑していた。その瞳は不安で大きく見開かれている。

「でも、どうして先輩が?」

 かぶりを振る。

「すべては神の御技であり仕業だ。君の為に、僕はおそらく別の世界へやってきた」


 そう、これがすべての元凶だ。

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