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青年よ、大志を抱け

 あれから何日後の話だろうか。多分週をまたいではいないので2日か3日後だったと思う。その日は6限という遅い時間帯の講義だったので、駅から南に国道を下る頃にはぽつぽつとビルの明りが点き始めていた。都会の喧騒の中では、月はその役割を忘れひっそりとネオンの裏に姿を沈める。


 遅い時間帯の講義は概して人が少ない。講義教室に辿り着いてみたものの、明らかに人の数が教室の大きさと釣り合っていない。来ない人が多いのだ。講義開始の10分前に辿り着いた僕は荷物を脇に下ろし、開始を持った。総勢100人くらいが入りきってしまう教室には30人くらいの学生しかいない。閑散とした教室の後ろの方に席をとり、僕はその様子を眺めるとなく眺めていたのだった。

「すみません」

 と声をかけられたのは、だいたい講義が始まる5分前くらい。振り仰いでみると、傍らにあの時のお店の店員さんがいた。服装が違い、古ぼけたお店に居た時とは外見がだいぶ異なって見えたものの、一目でそれと分かった。彼女の放つ独特な雰囲気がアイデンティファイを可能にする。この大学の学生だったのか。

「なんでしょう」

 と答えると、彼女は僕が座った席の下に忘れ物をしたらしい。机の下に設置されている網棚を見ると、彼女の私物らしき小さな袋が入っていた。とって渡す。その際、一応声をかけておいた。

「君は、この前の喫茶店の店員さんだよね?」

 すると、彼女はちょっと怪訝そうな顔をした。

「何の話ですか?」

「え? 四ノ原駅の近くの喫茶店で働いてた子だよね?」

 つい数日前の話だ。あのお店は繁盛している様子もないし、そもそも会話をしたじゃないか。しかし彼女は冷たかった。

「人違いです」

 そう言って袋を半ば奪い取るようにすると、さっさと教室を出てしまった。おいおい、それはないんじゃないか。彼女の外見は店の暗い電灯と指定の前掛けの下とは打って変わったものだったが、見間違えようもなかった。

 あのお店特有の雰囲気に溶け込んだ、彼女独特の空気はまさしく眼前のものと相違ない。僕はちょっと必死になって彼女を追いかけた。教室の外で追い付いた。

「なんですか。新手のナンパにしては下手くそですね。鏡と相談して生まれつきの容姿を改めてきてください」

 容赦無い罵倒に心が折れそうになる。

「それは鏡と相談しても解決することじゃないじゃないか。要するに生まれ直せってことでしょ」

「違います。要するに死ねってことです。婉曲に言ってあげたのが災いしてメッセージが伝わりませんでしたか」

 彼女は今すぐにでも捨て台詞を吐いて遁走しそうな雰囲気だ。僕は話題を戻すことにした。

「本当にあそこで働いてないの?」

「言ったじゃないですか。人違いですと。私はまだアルバイトすら経験してません」

 思いも寄らぬしっかりした答えが返ってきた。本当に嘘ではないらしい。僕は一瞬考え込んでしまった。まさかここで人違いだったとしたら本当に恥ずかしい出来事である。謝って許して貰えるだろうか。

「姉妹は?」

「姉は遠く離れた土地に居ます。四ノ原駅付近で遭遇する可能性はゼロで、おまけに私とは似てません」

 むむむ。双子説が否定された。本気で悩んでいる僕を見て、彼女の僕を見る目がちょっと変わった。変人を見る目ような目から、珍しい物を見るような目へシフトチェンジ。

「どうやらナンパではなさそうですね」

 ようやく気づいてくれたか。しかし彼女の真面目な様子から、人違いだと言うこともまた真実だったらしい。深くため息をつく。

「ごめんなさい、僕の人違いだったみたいです」

 そのまま、講義室へ踵を返す。丁度教授がやってきた頃合いだった。僕は何を必死になっていたのだろうか。いつものように、流せばそれでよかったのに。後ろで人違いを受けた彼女が何かを言っていたが、合わせる顔がなく僕は今度こそ聞き流した。

この二人の物語は、短編にも載っています(多少設定が異なりますが)

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