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泣いて馬謖を切る

 続く日月の大半を大学図書館で過ごした。皐月ももう終わりで、五月雨と呼ばれる梅雨の時期にはとっくに突入しているはずななのに相変わらずの晴天が続いていた。月曜日はどの講義でも彼女に会うことはなく、どこかほっとしたまま僕は一日を終えて第2のバイト先である西園寺さんのお宅へと向かっていた。

 今彼女に会ったところで僕は自分がどんな顔をするか分からないし、どんなことを口走ってしまうか分からない。彼女を励ますだろうか、あるいはがらにもなく激昂するかもしれない。とにかく僕としても彼女と遭遇しなかったことは精神衛生上の準備期間として必要なことであった。


 西園寺家のインターホンを鳴らすと、いつも通り清華が出てきた。だが、今日は普段見ない、というか初めて見た私服で、夏を先取りしたようなキャミソールと丈の短いフレアスカートだった。眉をひそめる。授業が終わった後に外出でもするのだろうか。そしてもう一つ、いつも授業開始の時は明るいというかうるさい清華が、少しおとなしかった。

「入って」

 それだけ言って先導する彼女に違和感を覚えないでもないが、黙ってついていく。2階の部屋に辿り着いたとき、彼女はわざわざドアを開けて僕が通過するのを待ち、僕が部屋に入ると彼女が後ろでドアを閉めた。なんだか客室に通されるゲストみたいだった。普段は僕のことを暇つぶしマシーンのように扱ってるのにね。

 僕は床に置かれていたいつもの座布団にぽふっと腰を下ろした。

「今日は、どうしたの? 何か気が変わった?」

 だが、清華は要領を得ない生返事のようなものしかよこさない。清華もいつもの背もたれつきの回転椅子に腰かけた。

「先生さあ……」

 清華は僕というより机に向かってしゃべりかけている。ここからでは彼女の長い黒髪とその背中しか見えない。衣装は肩甲骨の辺りを境にしており、僕は肩がむき出しで寒くはないのかと問いかけたくなるのをぐっと我慢していた。

 こほん、と小さく咳払いがなされる。調子を整えるような間ののち

「彼女いないって本当なの?」

 言葉に詰まる。いや、いつだってこの手の問いに即答できた試しはない。だから僕が言葉に詰まったとは、心理的な所に拠るものであった。

「またそんな話題で僕をからかう。清華、あまり僕を虐めないでよ」

 おどけてみたものの、清華にはまるで無視されてしまった。というか、シリアスな口調で言われても困るのだ。笑いとばすことができないじゃないか。

「じゃあ!」

 くるっと清華が椅子を回転させこちらをむく。今日初めて僕が直視した彼女の表情は、痛々しいまでに必死で見てるこちらが目を背けたくなるようなものであった。どうしてこんなくだらない話題で、そんな真面目な顔をするんだ。

 清華が真正面から見つめてくる。

「好きな人もいないの?」

「っ……!」

 今度こそ言葉に詰まった。一瞬脳裏を何かが掠めたが、それよりも目の前の清華に気圧される。不安に目をいっぱいに見開いて、それでも懸命に見つめてくる少女。椅子から身を乗り出すようにしている。

 その意味するところに息を呑むと、清華が何か察したのかまた詰め寄ってきた。がたん、と本当に椅子から転げて、僕の方向になだれかかってきた。

「じゃあ、土曜日に会ってた人は?」

 思考が固まる。清華は這って僕の方にずり寄ってきた。

「先生彼女いないんでしょ? 土曜日に会ってた人は? あれ、違うよね?」

 何がどう違うんだ、なんて言うことはできなかった。清華は土曜日、四宮探索か、氷谷神社への行き帰りのどこかで僕を目撃していたのだろう。間の悪いことに。そして、僕は彼女の問いに対し何も言うことができなかった。

「先生はひとりぼっちなんじゃないの? ねえ、嘘だったの、先生。そんなわけないよね。先生は独りのプロで、孤独の王者だったんじゃないの? ねえ、先生!?」

 清華が必死になっている。どうしてか、僕はひどく暗澹たる気持ちになった。どうしてこんなことが起きるんだ。僕はこの時ばかりは神を呪った。

「彼女じゃないんでしょ」

 辛うじて頷く。ひどく間近から、何か良い香りが鼻孔をつく。すぐ近くから清華が僕を見上げる。あまりのも近いので、僕は状態を反らさざるを得なかった。

「好きな人じゃ、ないんでしょ?」

 目を、そらす。僕は彼女が、辻風結菜が好きなのだろうか。それに答えることはできなかった。

 視界の端で、清華がやりきれなくなったように唇を噛んだ。

 そして、不意に立ち上がる。

「ねえ先生! わたし先生が好きだったんだよ!! 面白くて、優しくて、何でも聴いてくれて何でも答えてくれる先生が!! どう、先生。女の子から告白されたんだよ? 生涯初めてだよね?ねえ、先生は嬉しいよね!?」

 目に、涙を溜めて彼女は怒鳴った。ああ、だから僕は国語ができなかったのか。登場人物の気持ちを、まるで理解できていなかった。これじゃ部分点ももらえない。

 清華が自分の胸に手を当てる。

「いつか告白して、先生にオーケー貰ってデートで驚かせる為に買った服よ、先生! 驚いた!?」

 西園寺清華。元気で調子がよくてよく僕に無茶ぶりをしてくる。典型的なポルヤンナ。明るくて気ままな、こっちまで明るく照らすような少女。

「ああ、驚いた。ひどく綺麗だ」

 ひどく、きれいだ。

「だったら!」

「でもごめん」

 すうっと息を吸い込む。

「僕には、好きな人がいるんだ」


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