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命短し恋せよ青年

 国道の裏手に、ひっそりと世界から隠れるようにして佇む喫茶店を見つけたのは、皐月と呼ばれる新緑真っ盛りの季節、五月の中旬だった。

 大学の二回生だった僕は午前の講義が終わり、一人暮らしの家に帰ろうかと駅の方に向かっている途中だった。

 夢にまで見た都会での大学生活は、それまでの灰色の人生の延長線上、いや、ある意味ではもっと悪く無色透明なもので、彼女の一人どころか友達の一人もいないまま1年を過ごしたのであった。

 この先また1年間、知り合いの一人もいない孤独な生活を送るのかと斬新な5月病にかかっていた僕は何を血迷ったのか、このまま真っ直ぐ家に帰るのも勿体ないような気がして通学で通い慣れたいつもの大きな国道沿いでちょっと小さな道へと曲がってみたのだ。

 小売店が立ち並ぶ小道で見つけたその喫茶店は、奥の建物の陰で日が当たっていないせいか随分暗く古ぼけて見えた。

 入る理由もないが、入らない理由もない。ついでにいえば生きている理由もないように思える僕は、なんとなく時間潰しに立ち寄ってみた。

 物事を成し遂げる勇気も気概も、情熱もいつの間にか失っていた僕だが、時間だけは有り余っている。ほろ苦い青春も、甘い恋愛も、酸っぱい経験も取り逃がした僕に代わりに与えられた無味乾燥な時間。


 扉を開けると、ドア上部に付いていたらしい鐘が鳴った。

 店内はじめっとした陰気な外見に違わず薄暗く、それほど大きな光源も有していなかった。小さな丸テーブルが数個と、弓型に曲がった木のカウンターテーブルは店内中央の小さなシャンデリアに照らされ赤茶色に映っている。

 店内に店員を含み人がいないことが気味の悪さを増幅させる。扉が開いたことから営業時間外ということも考えられなかったはずだ。

 とりあえず手近な丸テーブルに着いた僕は、人の有無を最低限確認しておくことにした。

「ごめんください」

 仮にも喫茶店で叫ぶフレーズではない。

 この界隈は建物、特に飲食店の生存競争が激しいのでちょっと見ない間にすっかり町並みが変わることがある。何かの建物ができては潰れ、潰れてはできるのだ。

 もしやもう既にこの店は廃店になったのでは、とちょっとした恐怖とかなりの後悔に陥っていた僕だが先の挨拶が功を奏したのか、カウンター奥からごそごそと物音がして、人が出てきた。

 出てきたのは、70代も後半に差し掛かっているのではなかろうかと言うおじいさんであった。古ぼけた前掛けと禿げ上がった頭がその人の外見年齢を底上げしている。お爺さんは気難しげにしかめられた顔を僕に向けた。

「なんだ」

 突き放すような第一声に、僕はしばし言葉を失いかけた。店主らしき人物から投げかけられたのは勝手に人様の家に上がった無礼者を見るような目つきである。僕はここが本当に喫茶店だったか、今更ながら自信を失った。

「あの、お店ですよね……メニューはありますか?」

 店主はふん、と鼻を鳴らした。

「出せるのはコーヒーとりんごジュースぐらいだ。どっちがいい」

 コーヒーとりんごジュースしか出せないならそれはもうお店として成り立たないんじゃないかと、突っ込みたくなるのをぐっと飲み込む。

「じゃあ、コーヒーで」

 僕の注文をきくと、お爺さんはむっつり黙ったまま再び奥に引っ込んで行った。本当にコーヒーが出てくるのか甚だ不安だ。店内は一応の設備が整っているように思えるし、コーヒーとりんごジュースだけで固定客を獲得した一途なお店なのかもしれない。そうだ。

 自分を励まして、僕は時間をやり過ごした。そうでないと本当にもう出てこないんじゃないか、注文したことを忘れられているんじゃないかと本気で思ってしまいそうなくらいの時間が流れたのだ。

 やがて、僕がそのまま帰ろうかと言う案を本気で検討し始めた辺りで、再び人が現れた。

 盆にコーヒーを乗せて姿を見せたのは、今度はお爺さんではなく一人の女の子だった。小柄で短い黒髪はどことなく幼そうな印象で、高校生ぐらいに見える。お爺さんと同種の前掛けをしているが、こちらは同じ物とは思えないほど新しい。

 女の子は精密な機械のような表情で、つまりは無表情でコーヒーを僕のテーブルの上に置いた。

「どうも」

 僕が言っても会釈の一つも返されなかったが、代わりに珍しい昆虫を見るような視線が無言で僕に注がれた。黙って見つめられ、何とも居心地が悪い。

「コーヒーは、好きですか?」

 やがて囁くような調子で一つの質問が為された。声量的には普通なのだが、希薄な存在感を纏った声だと僕は思った。希薄な存在感。

 僕は素直に首を振る。特に好きなわけでも、勿論通なわけでもない。

「りんごジュースは好きですか?」

 それにも首を振る。特にりんごが好物と言うわけでもない。

「私も好きではありません」

 彼女はテーブルの傍らに立ったまま立ち去る気配を見せない。また不安になる。会話の方向も見えないし、この店は本当に僕が足を運んできて良かった場所なのだろうか。

 やがて唐突に質問が為された。

「貴方は神を信じますか?」

「は?」

 今度こそ間抜けな声が漏れた。女の子は真顔のまま真っ直ぐ見つめてくる。

「君は、宗教の勧誘でもしたいのかい?」

 恐る恐るの僕の言葉に、返答はない。ただ真っ直ぐ見つめるだけ。しょうがないので、僕は言ってみることにした。

「思弁が終わる。まさにその時に信仰が始まる。それならば考える限り、神は必要ない。僕はそう思うよ」

「キルケゴール」

 僕は頷いてみせた。彼女は即座に僕の引用元を見抜いたのだ。そうして、少しばかり微笑んだ。

「良い考えです」


 それが、僕と彼女の初めての出会いだった。


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