いつか会えたら
その日は朝から天気が悪くて、雨が降ると決まって片頭痛に悩まされる私は小さな机の下で丸くなっていた。
隣にある椅子には兄と呼んで慕っている人がいて、ときどきキャンディや飲み物をくれる。
それを受け取りながら、蛍光灯の光が届かない暗い場所で膝を抱え、俯く私の爪先が蹴飛ばされた。
「邪魔なんだけど」
冷たくそう言われたときは恐怖と驚きで何も言えなくて、兄さんが困った顔で宥めているのを見ていた。
今考えてみると私の体は小さくて、机の下にしっかりと隠れていた。
躓くようなところは何もなかったはずだ。あれはわざとだったんだろう。
本来なら怒るところだけど、それが史奈と出会うきっかけになった出来事だから、覚えているけど気にしていない。
「ごめんな。史奈はちょっと、訳アリなんだよ」
兄さんがそう言って机の下にいる私の顔を覗き込む。私は泣いていたんだろう。
ティッシュを差し出され、とりあえず鼻水を拭った。
「フミナっていうの」
「そう。話してみないか? 多分、弥生と史奈は似てると思うよ」
私は首を振った。史奈が私を見下ろしたときの冷たい目が怖くて、とても話ができる状態ではなかった。
初めて話をしたのはそれから何か月も後のことだった。
空いていた椅子に座り、部屋の隅でくるくると回って遊んでいた私の腕を史奈が掴んだ。
「ちょっと来て」
「え?」
「いいから、来て」
キャスター付きの椅子ごと連行されて向かったのは低い衝立に囲まれたスペースだった。
史奈の個人スペースらしい。机の上にまるごとのケーキが一つ、置いてあった。
「食べきれないの。でも、もらったの。食べて」
「え?」
「甘いもの、ダメ?」
私は何と答えていいかわからず、ただじっとケーキを見つめていた。
主張が怒りを招く生活を送っていた私にとって、好きや嫌いを人に伝えるのは恐怖でしかなかった。
渡されたフォークを受け取り、差し出されたケーキに突き刺す。
監視するようにじっと睨みつける史奈にビクビクしながら、私は導かれるまま口いっぱいにケーキを頬張った。
「おいしい?」
「え……」
「おいしいかって聞いてるの」
「おいしい、です」
口の中のケーキを飲み込みきれないまま私は体を強張らせた。
いつも声が小さいと怒られてばかりいた。こんな声ではまた怒られるかもしれない。
史奈はフッと息をついた。私が肩を震わせたのを見て、首を振った。
「この前は悪かった。イライラしてたんだ。兄さんにも怒られた」
「いえ……」
私はこのとき、初めてまっすぐに史奈の姿を見た。薄茶色の髪は男性のように短く、痩せた体からは骨が浮き出ている。
怒っているように見える鋭い目は、どうやら私を心配しているらしい。
「食べよう。冷蔵庫、もう入りきらないんだ」
「はい」
その後はただ黙ってケーキを食べていた。兄さんが通りすがりに私たちの頭を撫でて、笑った。
それをきっかけに私たちは少しずつ一緒にいる時間が長くなっていった。
境遇はまったく違うのに、どこか繋がるところがある。私が声にできない言葉を彼女は紡ぎながら聞いてくれた。
兄さんと史奈。二人と一緒にいるときだけ、私は心の中を素直に言葉にすることができた。
外でどんなに攻撃されても、ここへ帰ってくれば元の私に戻れる。二人に守られることで、私は自分を見失わずに済んだ。
この世界に絶望した感情は消せなかったけど、その感情を隠しながら暮らすことはできるようになった。
兄さんと出会った頃の私は周りの人間がすべて言葉の通じない異星人のように思えていた。
色を失った世界は灰色でも白でもなく、真っ黒なのだと知った。
意思を言葉にするのが怖かった。どうせ通じない。伝えようとしていることさえわかってはもらえない。
私がここにいる意味はない。誰も私を認識してくれない。
本当は私なんてどこにもいない。ここに肉体があるだけだ。
消えてしまいたいと思った。呼吸もしないで、何も食べないで、胎児のように丸くなって眠り続ければ生物はいつか死ぬ。
死んで、肉は微生物によって分解され、骨だけになって、それはいずれ土に還る。
それを望んで心を殺していた私を再びこの世界に呼び戻したのは兄さんだった。二人の存在は私と世界の繋がりだった。
ある時、二人が何か話し合っているところに遭遇した。珍しいことに私が部屋を覗き込んでも気付かない。
「何か悪巧みでもしてるの?」
「悪くはないけど、ちょっとした計画をしてる」
「私も手伝える?」
「いや、でも話しておいた方がいいかもしれないな」
兄さんはそう言って史奈を見た。史奈は頷いた。
「国の内外に僕の名義で建てられた家がいくつかある。そこにはたくさんの人が住んでいて、なくなると困るんだ。
でも、その家をきちんと残せるように手続きするには僕に残された時間は少なすぎる。
だから史奈に手伝ってもらおうと思うんだ」
「フミが手伝えば、間に合うの?」
「いや……間に合わないだろう。でも、引き継ぐことは可能だ。家族なら故人の持ち物を相続できる。そうだろう?」
史奈に向けられたその表情は優しく穏やかで、深い感情を感じさせた。
兄さんのそんな表情が好きだった。でも、兄さんは史奈を選んだ。正しい選択だと思った。
親にさえ愛されなかった史奈が今まで生きてきた時間は、幸せだった時間が少なすぎる。
私でも彼女を選んだだろう。不安だったのは、二人の繋がりが深くなったことで私が立ち入れなくなることだけだった。
二人は結婚して、家族になった。だからといって何かが変わる訳でもなく、日々を過ごしていた。
私が顔を覗かせると、史奈が気付いて手招きをする。
二人で手を握り合って、顔を寄せて話す様子はまるで恋人同士のようだと兄さんは笑った。
「新婚旅行には行かないの?」
「うーん……お墓の土地を決めにいったくらいかなぁ。兄さんの故郷に行ったんだ。綺麗だったよ」
「それが旅行? 夢がないなぁ」
「いつか二人で入るところを決めに行ったんだから、いいの」
そう言った史奈の表情は羨ましいくらい満たされていた。
墓は、病院から出られない兄さんと、一つの場所に留まれない史奈にとって新居と同じ意味を持った。
やがて兄さんは先に逝った。
史奈に「弥生のことをよろしく頼む」と言って息を引き取ったことを聞いたのは、その体が骨になってから二週間後のことだった。
立ち上がれないほど泣く私と抱き合って史奈も涙を流した。
二人で支えあって、徐々に立ち直っていった。いや、正確には立ち直ってはいない。
でも、下を向きながら前へ進むことができるくらいにはなっていた。
史奈は何も手につかない私と違って悲しむ暇もないくらい忙しく働いていた。
残されたものを整理する以外にも、兄さんがしていた仕事まで引き継いで、人の面倒を見ていた。
三年が過ぎても、まだ半分も終わっていないと言って苦笑した。
「日本国内は全部終わったんだけどね、海外の分は行ってみないとダメみたい」
「行ってしまうの?」
「すぐ終わって帰ってくるから、兄さんの命日には二人でケーキでも食べようね」
私たちは前に進んでこそいたものの、時間は止まったままだった。
時間が進めば兄さんと過ごした日々が遠ざかる。遠くなれば忘れてしまう。
会う度に二人で記憶を確かめ合いながら、離れている間に進んだ時間を巻き戻す。
「同道巡りっていうけど、一度通った道であることを覚えている自分がいれば、それは同じ道ではないんだよ」
そう言った兄さんの言葉を信じて、甘えながら過ごしていた。
自分を守ることでしか生きることができない私に対し、史奈はよく笑うようになっていた。
不安や悲しみを隠しているのではない。元気な振りをしているのなら、私にはわかるようになっている。
それは史奈にとっても同じだった。
「私と弥生はいつも必ず繋がってるの。弥生がどこにいても、何をしていても、私には伝わる。
もし弥生の姿や形がすべて変わってしまっても私にはわかる自信がある。弥生も同じはずよ」
私は頷いた。史奈が悲しんだときや喜んだとき、その感情が私にだけは伝わる。
史奈は時々、こうやって励ます。それは私を励ますと同時に、史奈が自分自身に自信を付けるために言っている。
史奈も私と同じなのだ。感情が不安定になり、自分の存在意義が見えなくなって、道に迷ってしまう。
だから二人の間に否定はない。お互いを認め合って、この世界に存在しているのが確認できるのは、兄さんがいなくなった今、たった二人だけだから。
二人の生活が変わり、なかなか会えない状況になってもその関係は続いていた。
私が不安定になったとき、史奈が連絡してきて他愛もない話をする。史奈が自分を否定し始めたとき、私は史奈に連絡を取る。
そうやって兄さんに残してもらった命を少しでも引き延ばそうとしていた。
やがて史奈の役目が終わった。すべての仕事を終えた彼女に私は言った。
「お疲れ様。何もできなくて、悪かったね」
「いつだって支えてくれていたよ。弥生がいなかったら、私は仕事を最後まで終えることなく生涯を閉ざしていた。
弥生を頼むって言われていたのに、情けないお姉ちゃんでごめんね」
「私も支えられていたよ。そんなこと言わないで、フミ」
手を取り合い、どちらともなく泣き出した。感情が共鳴して強い痛みと相手を支えたい思いを感じた。
どちらから発信された感情かわからないくらい、私たちの心は混ざり合った。
普段は声を殺して泣く二人が唯一、大声で感情を表せるとき。
でも、そんな時間も距離が離れると少なくなっていった。
命日に集まることもできなくなり、私は電話で史奈と少し会話を交わし、いつもの時間に手を合わせて祈るだけになった。
それでも会ったときは、昨日も一緒にいたみたいに変わりなく過ごせた。
久しぶりに連絡を取ろうと思ったのは、史奈の誕生日の少し前だった。
返事のないメールに首を傾げていた私のところへ、やっと届いた一通のメールは彼女の死を知らせるものだった。
初めて、彼女のことを感じなかった。苦しみも、悲しみも何も感じなかった。
史奈が死んだ日も私はいつも通り過ごしていたのだと思うと吐き気がした。
私だけが気付いてあげられるはずだったのに、どうして何も感じなかったのか。
何年も流れなかった涙が心の奥底から溢れ出して、私はただ一人咽び泣いた。
「いつか、一緒に兄さんのお墓詣りに行こうね。私が連れて行ってあげるから」
「ううん。自分で行くよ。史奈は場所だけ教えてくれたらいい。現地集合にしよう」
お墓の場所は誰も知らない。教えてもらっていないまま、終わってしまった。
彼女との繋がりはあの日、切れてしまった。私はこの黒い世界に生き続けなければならない。
名前を呼ぶとき、自分の存在価値を問うとき、兄さんのことを思い出すとき、史奈がここにいないことを実感する。
心に激痛が走る。血のように涙が噴き出す。でも、追いかけて行く訳にはいかなかった。
「弥生、史奈。もし、僕が先に逝くことになってもそこで待っていてくれないか。
二人が生きている姿を僕が満足するまで見た後で、必ず迎えに来る。だから、待っていてほしい」
「兄さんは寂しがり屋だから、多分すぐに迎えに来てくれるだろうね」
「ああ、すぐだよ。人間の一生なんて本当に一瞬のことだ」
そう言って、私たちは約束を交わし合った。
兄さんの命日に、両手を合わせて祈りながら呟く。
「兄さん、一人は寂しかったの?」
早く迎えに来て。会いたい。会いたいよ、兄さん。史奈だけを連れて行かないで。私も連れて行って。
そう考えたときはいつも、兄さんが困ったように笑う顔が思い浮かぶ。
「そんなことを考えている間はまだ、弥生を迎えには行けないな」
言われなくてもわかってる。私は微笑む。でも、一人は怖いよ。会えなくて、寂しいよ。
立ち止まって繰り返していた時間がゆっくりと前へ進んでしまう。二人を置いて、私は時間に押し流される。
遠くなっても忘れたりしない。大好きな人のことを、運命を交わし合った半身とも言える友のことを。
また、いつか会えたなら、私たちはまた繋がるだろうか。
この世界が再び色付いて見える瞬間を、今はただ静かに待っている。
吐き出しのために書いた短編なので、
リクエストなどあればきちんとストーリーにして仕上げます。
最後までお読みいただきありがとうございました。