古時計のネジを巻く時
ウィンドグラスに流れ落ちる雨粒をワイパーでかきわけながら、私は坂道を登るアクセルを強めた。
ノラ・ジョーンズの声は、こんな雨の夕暮れによくあう。
民子さんの家に着いたら、5時をまわっていた。
あたりは、とても寒い上に、薄暗い。
電気もついていないし、ブザーを鳴らしても、何の反応もなかったので、私は庭のほうへまわった。
縁側の窓の鍵が壊れているのを知っていたので、力強くガタガタと窓を動かしたら、
つっかえ棒がはずれて、窓を開けることが出来た。
「こんにちは」
誰もいない部屋に、ゆっくりと私は入った。
「波子様
川辺のおばさんが亡くなったので、出かけてきます。
水曜日に帰ります。 民子」
テーブルの上に、メモ書きがあった。
川辺のおばさんというのは、民子さんのいとこにあたり、隣町に家があった。
帰るのは、明日か。
今晩一人で大丈夫かな。
ちょっと心細くなったが、気を取り直して、テレビをつけた。
夕方のニュースで、札幌の雪祭りのことをやっていた。
「さ、寒い」
私は、ヒーターをつけた。
ここは九州だから、札幌のように雪はめったに降らないが、この季節はやはり寒い。
民子さんは、80歳で、私の父の育ての親だ。
血はつながっていない。
離婚して、実家に帰りづらくなった私は、狭いマンション暮らしから、時々、広い家の空気が吸いたくなって、
ここに来る。
両親は、ここから車で40分ほどのところに住んでいる。
民子さんの家は、空気の綺麗な高台にある。
静かないいところだ。
お腹がすいてきたので、冷蔵庫を開けてみた。
特別なものはなかったが、サンドイッチの材料があったので、作ることにした。
年寄りの家に、サンドイッチの材料があったら変だろうか。
民子さんは、とびきりおいしいコーヒーを煎れるのが上手なのだ。
私達は、気を遣わぬ仲で、昔から、「波子には才能がある」といつも褒めてくれた。
どういう事情で、父を育てることになったのか、詳しく聞いたことはなかったが、昔から、
男に興味がなく、趣味の絵手紙を毎日書いている。
この部屋のカレンダーも、民子さんのお手製だ。
コーヒー豆をゴリゴリ挽いて、熱い湯をそそいだ。
出来立てのサンドイッチをほうばり、コーヒーで体を温めた。
私が民子さんの記憶をたどると、35年ほどになるが、男の人の影は一切なかった。
結婚もせず、定年まで、村の郵便局で働いていた。
相当気の強い人で、近所の人たちから、一目置かれていた。
信心深く、寺への寄付は、欠かさなかった。
今夜、民子さんと話がしたかった。
高橋のことなんかで、心がぐらついている私に激を飛ばして欲しかった。
それにしても、一人きりの民子の家は、寂しい。
この家で、何の不満も言わず、長年一人暮らしをしている民子さんは、すごいと思う。
テレビの横の黒電話に目が行った。
そういえば、電話をかけなきゃいけない用事があった。
携帯電話は、ここに来る時は、持ってこないことにしていた。
ここは、私にとって、自由で解放された空間だった。
高橋の電話番号は、暗記している。
明日までに、一緒に旅行に行かないか、という問いかけに、返事をしなくてはならなかった。
民子さんに会いたい。
沈黙の中で考えてみたが、ここには、突然のハプニングなどないのだ。
静かな夜の中で、早めに布団に入った私の耳に、風邪とかすかな雨の音が聞こえた。
遠くにクラクションの音が、プーンと響き渡った音で目が覚めた。
夜中の1時ごろだろうか。
私は、縁側の窓の鍵が壊れていることを思い出し、急に不安になった。
体が少し震えた。
次第にいても立ってもいられなくなって、黒電話に手を伸ばした。
こんな遅い時間に、高橋に電話するのは初めてだ。
長い呼び出し音が鳴った。
「はい」
ぼそっとした高橋の声だ。
「寝てたよね、ごめん」
「こういうの・・・初めてだね」
「えっ?」
「波子って、寂しいからって、電話かけてきたことなかったよね」
「そうかな・・・」
私は、部屋の古時計が止まっているのに気付いた。
「どんどん、これから心開いて」
そう言うと、次第に、高橋の声は柔らかくなった。
私も少し笑った。
しかし、旅行の件をどう断ればいいんだろう。
「予約どうしようか」
高橋が切り出した。
一瞬、私は息を飲んだ。
「ごめん、大切な人が亡くなって、しばらく会えないんだ」
ああ、これで、もう終わりだ、と思った。
「逃げてばかりだね」
高橋は、そうつぶやいて、黙り込んだ。
止まった古時計をまた見た。
高橋も、私も、同じバツイチ同士だった。
会社の取引先の人で、歩き方が変わっていて、次第に気になるようになった。
電話を掛け合うようになったのは、ここ3ヶ月くらいだ。
35にもなると、男の人との付き合いは、心の重荷になる。
めんどくさくて、やめてしまった恋愛が、三つある。
民子さんは、何と言うだろう。
この年になると、一人の人にのめりこむことが怖い。
「こんな夜中にごめんなさい」
高橋は黙っていた。
「もう終わりなんじゃないかな・・・」
私は、頭の奥に民子さんがいた。
突然、電話が切られてしまった。
何てことを言ってしまったのだろう。
しばらくその場に座り込んでいた。
このままじゃ眠れないから、さっきから気になっていた、古時計のネジを巻こう。
黒光りする時計の窓を開けると、中にゴムで束ねた封筒が見えないように、置かれていた。
隠されていた、と言うほうがふさわしいかな。
秘密めいた手紙をそっと手にとって見た。
手紙は、9通あり、全部が民子宛で、どの手紙も、フランス語で書かれていた。
裏に、男性と思われる名前と住所が、フランス語で書いてある。
私は、それが英語ではないことだけはわかった。
意外だった。
民子さんが、外国の男性と知り合いだったとは。
中の手紙は、フランス語が理解できない私には読めなかったが、一枚の写真が出てきた。
西欧風の建物の前で、スーツを着た背の高い外国人と、20歳くらいの民子さんが並んで写っている。
田舎の村でも、どこか、ここら辺の人たちと雰囲気が違うのは、こういう理由があったのか。
その手紙の男性の名前と住所を、こっそり手帳に控えた。
そして、また元通りに、ゴムで束ねて、時計の中に隠した。
そして、ネジを巻こうかと思ったが、そのままにしていたほうがいいとおもって、巻かなかった。
もう眠れない。
早い朝になうとしていた。
私は、また、ごりごりと豆を挽いて、コーヒーを煎れた。
そして、カーテンを開けて、まだ暗い空を見つめた。
民子さん、人はたった一人の愛する人の思い出があれば強く生きていけるのですね。
私は、まだそんな男性に出会っていません。
一人でも、強く生きていける勇気をもらっていいですか。
私は、コーヒーを飲みながら、止まっている古時計をじっと見つめた。
民子さんは、この時計のネジを巻くたびに、生きる勇気をもらっていたんですね。
父を育ててくれてありがとう。
気の強い民子さんの、本当の姿を見たような気がしました。
民子さんが帰ってきたら、私が、習ったとおりに、おいしいコーヒーを煎れてあげよう。
私の中で、この一日は、特別なものになった。
雨は上がったようだ。
終わり
是非、感想を聞かせてください。
よろしくお願いします。