4 観測対象・類巣茉莉香
4 観測対象・類巣茉莉香
最初に異変として現れたのは、名前だった。類巣茉莉香は、黒板に書かれた文字を見つめながら、自分の名字が、ほんの一瞬だけ、別の読み方をされている気がした。
るいす。
るいす、まりか。
先生が出席簿を読む声は、確かにそう言っている。けれど、耳に届いた音は、途中で削られたように欠けていた。
「…はい」
と、茉莉香が返事をすると、教室の空気が、わずかに遅れて反応する。
一拍。
半拍。
―合っていない。それは、第二系統屍人の初期症状と、まったく同じズレだった。茉莉香は、気づいてしまった。自分が、観測対象としてカウントされ始めていることに。
授業中、先生の視線が、彼女の手前で止まる。
当てられない。
質問されない。
注意もされない。
存在は、ある。だが、機能として数えられていない。黒板に書き写したノートを見返すと、自分の字だけ、微妙に線が薄い。消しゴムをかけたわけでもない。鉛筆を弱く持った覚えもない。それなのに、書いたはずの線が、意味を保てていない。存在があるのに消える。生きているのか死んでいるのか、その境界が曖昧になる。
それこそ―屍化予兆。それは、死の兆候ではない。役割から外れ始めた存在が、世界から削られる前触れ。
昼休み。廊下を歩くと、会話が、彼女の前で途切れる。
「…あ」
という声。続かない言葉。誰も、あからさまに避けてはいない。それでも、関係が接続されない。視線は合う。だが、意味が交換されない。
茉莉香は、自分の足音が、他の音と混ざらないことに気づいた。―単音。合奏から、一音だけ外れている。それこそ、自分がこの世界の理から外れている証のように思えた。
屋上。昼休みの終わり際、彼女は一人でそこにいた。風が強い。フェンスが、低く鳴る。五線譜が、視界に重なる。そこにあるはずの音符―自分の位置が、揺れている。
「…やっぱり、ここに来たか」
声がした。
振り向くと、大沼一哉が立っていた。だが、いつもより距離がある。
「…気づいてる?」
と、茉莉香が尋ねると、
彼は、すぐに頷いた。
「…うん」
短い返事。それだけで、彼が全部を理解していることが分かる。
「…対象、君に移った」
と、大沼は静かに言った。すると茉莉香は、
「そうだね」彼女は、驚くほど冷静だった。「昨日、千紗が声を上げた時点で、確定してた」
大沼は、しばらく黙っていた。それから、視線を逸らしながら言う。
「…俺は、これ以上、近づかないほうがいいと思う」
その言葉は、冷たくなかった。むしろ、合理的すぎた。
「…理由は?」
と、茉莉香は目を細めながら尋ねた。すると大沼は、
「観測が、重なりすぎる」彼は、はっきりと言った。「今の君は、屍化が成立するかどうかの境界線上にいる」
「…うん」
「俺が関わると、それが確定に寄る」
それは、逃げでも裏切りでもない。距離を取るという選択。合奏の中で、音を増やさないための判断。
「…ありがとう」
茉莉香は、そう言った。
大沼は、何も言わず、屋上を後にする。その背中が、遠ざかるにつれて、音が、少し静かになった。―距離を取る側。
一方で。
「…茉莉香!」
今度は、千紗の声だった。彼女は、息を切らして屋上に駆け込んでくる。そして続けて、
「……やっぱり、ここにいた」
それを受け茉莉香は、
「…どうしたの?」
千紗は、茉莉香の顔を見て、一瞬だけ言葉を失った。
「…顔色、悪い」
千紗のその言葉が、胸に刺さる。かつて、彼女自身が使った言葉。今度は、茉莉香に向けられている。
「…ねえ」千紗は、声を低くして言う。「みんな、あなたのこと、ちょっと危ないって言ってる」
予想していた。それでも、心臓が、わずかに軋む。
「…理由は?」と、茉莉香。
「…分からない」千紗は、正直に答えた。「でも、関わると、自分も危なくなるって」
それは、第二奏者の旋律が、集団に浸透した証拠。危険なのは、行為ではない。意味を乱す存在そのもの。
「…千紗」と、茉莉香は、静かに言った。「…離れたほうがいい」
千紗は、一瞬、理解できない顔をした。そして、
「…なんで?」
「私、今、弔われる前の状態だから」
千紗の表情が、歪む。
「…そんなの、おかしいよ」
「うん」茉莉香は、頷いた。「おかしい。でも、今のクラスでは、おかしい方が排除される」
沈黙。
風が、フェンスを鳴らす。
「…それでも」千紗は、一歩、近づいた。「それでも、私は―」
その瞬間。空気が、はっきりと裂けた。屋上の扉の向こうから、足音。ゆっくり。正確。来る。第二奏者。教師の姿。本郷先生に酷似した顔。だが、もう隠していない。影が、複数の骨と糸で構成されている。
「…類巣茉莉香」声は、優しい。それが、最も恐ろしい。「あなたは、とても興味深い状態にあります」
それを受け千紗が、反射的に前に出る。
「…先生、この子に、何をするつもりですか」
第二奏者は、首を傾げた。
「何も」
嘘ではない。第二奏者はさらに、
「観測するだけです」
茉莉香の視界が、一瞬、白くなる。五線譜が、彼女を中心に再構築される。音符が、減っていく。
名前。
役割。
関係。
削除候補。
「…やめて」千紗が、叫ぶ「この子は、まだ―」
「まだ?」第二奏者が、微笑む。「何者かですか?」
その問いに、答えられる者はいない。
それが、屍化の条件。定義できない存在は、世界にとってノイズになる。
「…千紗」と、茉莉香は、かすれた声で言った。「…ここから先、近づくと、あなたも―」
「いい」千紗は、即答した。「…一人にしない」
その言葉が、分岐点だった。守る側。合奏から外れる選択。第二奏者は、興味深そうにそれを見つめる。
「…なるほど」彼は、静かに言った。「合奏に、逆行する音が混じった」
五線譜が、再び歪む。完全な屍化は、一時停止された。だが、代償は大きい。
茉莉香は、もう理解している。自分は、守られる存在になった。それは、弱体化ではない。物語の位相が、変わっただけ。
探偵は、完全に消えた。ここにいるのは―観測され、弔われる可能性を持つ一人の少女。
第二奏者は、ゆっくりと背を向けた。
「…次の楽章で、結論を出しましょう」
屋上に、重い沈黙が落ちる。千紗は、茉莉香の手を、強く握った。その温度だけが、まだ、確かな現実だった。




