1 測定不能点(トランキライザー莉理香、再起動)
1 測定不能点(トランキライザー莉理香、再起動)
最初に異変が起きたのは、世界のほうだった。
朝、類巣茉莉香が登校すると、校門の前に見知らぬ大人が立っていた。スーツ。名札なし。だが、教師でも保護者でもないことだけは、一目で分かる。視線が、測定している。
彼らは、声をかけてこない。止めもしない。尋ねもしない。ただ、通過を確認する。まるで、センサーのように。
「…始まった」
茉莉香は、胸の奥でそう理解した。教室に入ると、空気が違った。誰も、彼女を見ない。だが、全員が彼女を意識している。千紗の席。大沼の視線。どちらも、一瞬だけ合って、すぐに逸れる。それが、何より雄弁だった。
茉莉香は、自分が事件の中心ではなく、現象の中心になったことを悟る。
昼休み、校内放送が入る。
「本日、関係者の立ち入りが一部ございますが―」
言葉は、曖昧だ。だが、十分だった。学校という装置が、彼女を例外扱いし始めている。
放課後。茉莉香は、呼び出される。場所は、かつて屍送り管理局の分室として使われていた旧校舎の会議室。机。椅子。ガラス張りの壁。そこに座っていたのは、三人。いずれも、名を名乗らない。
「…類巣さん」最初に話したのは、一番年上に見える男だった。「あなたを、調査対象として観測しています」
茉莉香は、頷いた。否定も、反論も、意味がない。
「語りを壊した判断、理解しています。ただし、その結果として―」
言葉が、一瞬止まる。そして続けて、
「あなた自身が、不安定化の起点になっている」
起点。犯人ではない。責任者でもない。ただ、現象の始点。それが、最も扱いづらい。
「質問があります」茉莉香は、静かに言った。「…私は、事件ですか?」
三人は、即答しなかった。その沈黙が、答えだった。
「…まだ、定義中です」
定義中。つまり、事件になる可能性がある。会議室を出たあと、茉莉香はひどく疲れていた。自分が説明される側に回ること。それが、これほど重いとは思っていなかった。
帰宅後、部屋に入る。鏡の前に立つ。しばらく、何も映らない。ただ、自分の顔。だが―その奥で、整然とした視線を感じる。
「…もう、出ていいよ」
茉莉香は、小さく言った。
返事は、ない。だが、思考の温度が下がる。感情が、遠のく。呼吸が、一定になる。そして―声。
「…遅い」
トランキライザー莉理香の声。
鏡の中で、彼女ははっきりと立っていた。彼女は続けて、
「ここまで来るのに、随分、時間をかけたわね」
その声には、感情がない。だが、敵意もない。
「…もう、私じゃ、解けない」
茉莉香は、正直に言った。
「…分かってるわ」莉理香は、淡々と答える。「この事件は、誰が何をしたかじゃない。どう処理されたかよ」
莉理香は、鏡の中で目を細める。そして言った。
「整理しよう。語りは、拡散した。拡散した語りは、制度に回収された、回収された語りから拒否する者が生まれた。拒否は、沈黙になった。沈黙は、事故として表面化した」
茉莉香の脳内に、構図が描かれる。
「つまり―」莉理香は、断言する。「これは、屍人の連鎖事件。殺された者は、いない。だが、弔われなかった存在が次々に発生している」
「犯人は?」
茉莉香が、問いかける。
莉理香は、少しだけ考える。
「…単独の犯人は、いない。でも、実行主体はある。それは―世界の処理機構」
制度。
メディア。
分類。
事故。
莉理香はさらに言った。
「屍送り管理局は、止めようとした。だが、権限を失った。第二奏者は、介入したが、統制できなかった。結果―世界そのものが、弔いを自動化した」
莉理香の声は、冷たい。だが、正確だった。そして、どことなく安心感を与える。
「…じゃあ、どうやって終わらせるの?」
茉莉香の問いに、莉理香は初めてわずかに笑う。
「終わらせない。終わらせると、また処理される。だから―」
鏡越しに、視線が重なる。しばしの間があった後、莉理香は、
「あなたが、最後の例外になる」
それを受け、茉莉香は、
「…私が?」
「そう。観測され、定義され、事件として回収されかけている存在。それを―未完のまま残す」
未完。それは、制度にとって最も嫌悪すべき状態。莉理香は凛とした瞳で、さらに言った。
「あなたは、救われない。完全には理解されない。だが―事故にもならない」莉理香は、はっきりと言い切る。「それが、この事件の唯一の解決」
茉莉香は、静かに息を吐いた。
「…それ、私が壊れるってこと?」
莉理香は、否定しない。
「壊れない代わりに、閉じない。観測され続ける測定不能点になる」
沈黙。長い、静かな沈黙。やがて、茉莉香は頷いた。
「…分かった」
莉理香は、それ以上、何も言わない。鏡の中の姿が、少しずつ薄れていく。
「…次は、あなたの番よ」
それが、最後の言葉だった。
翌日。再び、校門に大人たちが立つ。だが、茉莉香は足を止めない。視線を受け止めながら、歩く。
逃げない。
語らない。
説明しない。
ただ、そこにいる。未処理のまま。世界は、それをどう扱うのか。それが、茉莉香を取り囲む世界の本当の問いだった。




