5、最後の突撃
「……そうか。私は、自分に嘘をついていたのだな」
フェルディナンドの瞳に、凪のような正気が戻った。周囲では、統制を失った帝国の敗残兵たちが我先にと逃げ惑い、勝利を確信した大公国軍の喚声が地を震わせる。
ヴァルトリーデはフェルディナンドが剣を握る力を失った今、彼を捕縛し、あるいは救い出せると信じていた。だが、彼女の淡い期待は、フェルディナンドが差し伸べた手の行方によって無残に打ち砕かれる。
フェルディナンドは、馬の首にしがみつき、肩を赤く染めて震えるジーナを見つめた。自分のせいで傷を負わせてしまった彼女を壊れ物を扱うような手つきで抱き上げ、自分の馬に乗せた。
「ジーナ、私を許せとは言わない。だが、最期まで付き合ってくれるか」
その声を聞いた瞬間、ヴァルトリーデの全身から血の気が引いた。
フェルディナンドの瞳に宿っていたのは、自分に向けられていた過去への郷愁ではなかった。
「……ずっと、そのお言葉を待っておりました」
ジーナが微笑む。それは、かつて帝都の園遊会でヴァルトリーデが浮かべたような淑やかな微笑ではない。共に罪を犯し、共に果てることを許された者だけが持つ、不吉なほどに清々しい、勝利者の笑みだった。
フェルディナンドが部隊に号令をかける。追撃する大公国軍は統制が取れていない。ここで組織的な反攻を受ければ、大公国軍は崩壊する。せっかくの勝利が水の泡だ。ヴァルトリーデは馬首をめぐらせる。
「引け! 引け! 一度引いて態勢を立て直せ!」
しかし勝利を確信している大公国軍の大半はヴァルトリーデの指示を聞き入れない。
「いい判断だ。ヴァルトリーデ」
フェルディナンドが大剣を構え直す。鞍の後ろに乗ったジーナが紐で彼と自分を固定し、弓を構えた。
ジーナは怪我で痛む手で、自分の腰とフェルディナンドの体を紐で固く、固く結びつける。その顔に浮かんでいるのは、これから死にゆく者の絶望ではなく、最愛の男を独り占めにした花嫁の悦びだった。彼が彼女の手を強く握る。
「死出の旅路に付き合ってもらうぞ」
「その覚悟ならとうの昔に」
ジーナはフェルディナンドの広い背中に頬を寄せ、その漆黒の鎧に甘えるように顔を埋める。
「突撃ッ! ビスマスの誇りを見せろ!」
フェルディナンドの咆哮が戦場を圧した。彼は、殿として大公国軍の奔流へ逆らって突撃を開始する。ヴァルトリーデの必死の制止を嘲笑うかのように、乱れた大公国兵の集団へ、軽騎兵部隊は躍りかかった。
ヴァルトリーデは、馬を走らせ、ビスマス軽騎兵から距離を置きながら、ただ呆然とその背中を見送るしかなかった。
フェルディナンドとともにジーナがいる。彼が敵を斬り、彼女が傷ついた肩で矢を放つ。彼が血を流せば、彼女がその傷を自らの体で覆う。二人の動きは、何年もかけて互いの絶望を分かち合ってきた者特有の、美しくも禍々しい舞踏のようだった。
「……負けたのね、私は」
ヴァルトリーデの唇から、乾いた独白が漏れた。
ヴァルトリーデはフェルディナンドを光へ呼び戻そうとした。かつての清廉な彼を愛していたからだ。だが、ジーナは闇の中にいる彼を、そのまま愛し、その闇の一部になった。
正論で彼を追い詰めた自分の勝利は、あまりにもはかないものだった。
フェルディナンドが最期に求めたのは、自分を更生させる天使ではなく、共に堕ちてくれる悪魔だったのだ。
やがて、数多の槍がフェルディナンドとジーナの身体を貫いた。
ヴァルトリーデが駆け寄ったとき、二人は既に馬から落ち、冷たい泥の上で折り重なっていた。
彼らの周囲には、大公国軍の兵たちが勝利の勝ち名乗りを上げていたが、ヴァルトリーデの耳には何も届かなかった。
二人を結んでいた紐は切れていたが、フェルディナンドの右手は、ジーナの左手を、骨が軋むほど強く握りしめていた。
その繋がれた手。
ヴァルトリーデとの婚約期間中、どれほど求めても彼が与えてくれなかった、魂の奥底までを曝け出したような、無防備で暴力的なまでの結束。
「……ひどい人」
ヴァルトリーデは、遺体となった二人の前で膝をついた。
ジーナの死に顔は、誇らしげですらあった。まるで「彼は私のものよ」と、物言わぬ唇で宣言しているかのように。
大公国のロサ騎士団長として、ヴァルトリーデはこの戦いで、追撃戦で多大な損害を出した。フェルディナンドの突撃によって前衛が壊滅し、後続がパニックに陥ったのだ。
しかし追撃を中断しなくてはならなかったとはゆえ、ヴァルトリーデは勝利した。だが、一人の女としては、名前も知らぬ翡翠の影に、完膚なきまでに敗北したのだ。
彼女は、震える手で二人の死顔の目を閉じた。
雪が降り始めた。
ヴァルトリーデは、戦場に遺されたフェルディナンドとジーナを、引き離そうとして、できなかった。
ヴァルトリーデの指先は、一度もフェルディナンドに触れることができなかった。なのに、ジーナは彼を地獄へ引きずり込むことで、その魂の最奥を独占した。彼を救おうとしたヴァルトリーデの愛は、彼と共に滅ぼうとしたこの娘の狂気に、完敗したのだ。
「……認めざるを得ないわね。これが、あなたの選んだ愛のかたちなのね、フェルディナンド」
それはヴァルトリーデが知るどんな詩歌よりも醜く、そしてどんな神話よりも揺るぎない、暴力的なまでの純愛だった。
ヴァルトリーデは二人を同じ場所に埋葬した。雪の下の土は、二人の埋葬を拒むかのように冷たく硬かったが、彼女は自らスコップを握り、土を被せた。
それは彼女にできる精一杯の、敗者からの祝福だった。




