4、剣戟に混じる残り香
遠く、丘の向こうから、大公国の追撃部隊、「ロサ騎士団」の真紅の軍旗が、燃える村の煙を切り裂いて現れる。
その先頭で馬を操る女性指揮官を見て、フェルディナンドの呼吸が止まった。
その一瞬を一筋の矢が襲った。フェルディナンドは避けることができなかった。その矢を身を挺して受け止めたのはジーナだった。矢が彼女の肩に突き刺さる。
「ジーナ!」
フェルディナンドは震えた声を出す。
「大丈夫。軽傷です」
ジーナの声は、フェルディナンドには軽傷のようには聞こえなかった。しかし敵は待ってくれなかった。
「そこまでだ、漆黒の悪魔。……いや、フェルディナンド!」
ヴァルトリーデだった。左目の眼帯は、彼女が歩んできた苛烈な月日を物語っていたが、その凛とした佇まいは、かつて帝都の園遊会でバラの令嬢と謳われた面影を色濃く残している。彼女は粛清を逃れ、大公国に亡命する前はフェルディナンドの婚約者だった。
「姐御、ここは我らにお任せを!」
色めき立つ部下たちを、ヴァルトリーデは片手で制した。
「下がってろ! お前たちの命を、この男の迷い道に付き合わせるわけにはいかない」
部下に見せるその背中は毅然としていた。しかし、馬上で剣を抜く彼女の指先は、再会の衝撃に微かに震えていた。
「フェルディナンド……。弓も槍も、私は貴方に一度も勝てなかった。でも、剣の稽古だけは、貴方はいつも私に花を持たせてくれたわね。……今日は、その続きをしましょう」
ヴァルトリーデの挑戦に、フェルディナンドは無言で応じ、馬上で漆黒の剣を抜いた。
二人の馬が交差し、二人の剣が打ち合う。キィン、と高音が響き、火花が散る。
フェルディナンドはその一合で驚愕した。ヴァルトリーデの剣先は、かつての令嬢のお遊びではない。迷いのない、部下たちの命を背負った重く鋭い一撃。
「ほほう、腕を上げたな、ヴァル……、いや、ロサ騎士団長。もはやお遊びではない、部下を率いる勇将の剣だ」
ふいに、フェルディナンドの口から、かつての愛称が漏れた。
その瞬間、ヴァルトリーデの頬が、戦火の熱とは違う、鮮やかな紅に染まった。
「フェルディナンド……、そんな、今さら……褒めたって!」
凛々しい女傑の仮面が剥がれ、一瞬だけ、帝国時代の恋する乙女の顔が覗く。
ヴァルトリーデのその声を聞いた瞬間、ジーナの理性が焼き切れる。
「黙れ、その薄汚い口を閉じなさい! 気安くフェルディナンド様の名前を呼ぶ権利なんて、あなたにはこれっぽっちも残っていないのよ!」
ジーナは肩の傷口から血を噴き出させながらも、ヴァルトリーデを食い殺さんばかりに睨みつけ、唇を噛み切りそうなほど震わせる。
フェルディナンドに婚約者がいたのは知っていた。ジーナなんかとは違う、身分の釣り合いのとれた貴族のご令嬢。彼女は帝国の粛清で両親を処刑され、姿を消した。それがこんなところに現れるなんて……。
ジーナの胸を焼くのは、村を焼く炎よりも熱く、醜い嫉妬だった。彼女がフェルディナンドのために地獄の泥を啜り、心を殺して村へ火を放ったというのに……。
ジーナはかつてはフェルディナンドに憧れているだけだった。身分が違う。最初からあきらめていた。しかし、戦場に出て、彼のお役に立ち、彼の苦悩を分け合っているつもりだった。甘い夢を見ていた。
この女は現れただけで、フェルディナンドの心をかつての光へと引き戻すことができる……。
「フェルディナンド様、その女の首は私が――」
「下がれ、ジーナ! これは私の戦いだ」
フェルディナンドの冷たい拒絶に、ジーナは頬を膨らませ、唇を噛み締めた。その瞳には、ヴァルトリーデへの殺意が毒のように溜まっていく。
剣戟は続く。技量ではフェルディナンドが圧倒していた。しかし、ヴァルトリーデは退かない。彼女は剣を打ち合わせる至近距離で、鋭い言葉を突きつける。
「フェルディナンド、貴方は今、この惨状を仕方なかった、と自分に嘘をついている! 祖国を失った領民を守るため? 王国の復興のため? 笑わせないで! 貴方が今していることは、ただの虐殺よ! 貴方が愛したビスマスの誇りは、どこに行ったの!?」
「黙れ……! お前に何がわかる!」
「わかるわよ! 貴方の剣の癖は変わっていない。迷いがある時、貴方は左に重心が偏る。今の貴方の剣は、自分の罪に窒息しかけているわ!」
ヴァルトリーデの正論が、フェルディナンドの虚勢を容赦なく剥ぎ取っていく。
彼女は、彼を殺そうとしているのではない。彼の中の気高い王を救い出そうとして、その心に刃を立てているのだ。
それを見抜いたジーナは、絶望した。「私には……そんな風に、フェルディナンド様を光の当たる場所へ連れ戻すことなんてできない……」
ジーナができるのは、彼が選んだ汚れた道を一緒に歩くことだけ。だが、ヴァルトリーデは彼を光へと引き戻そうとする。その正しさこそが、影として生きるジーナに、何よりも耐えがたい敗北感を与えた。ヴァルトリーデに対する嫉妬と自分では役に立てない歯痒さ……。
「……フェルディナンド。思い出して。私たちが語り合った、あの陽光の降る庭園を。貴方はあそこで、どんな王になりたいと言ったの?」
ヴァルトリーデの叫びが、フェルディナンドの脳裏に真実を呼び起こす。
剣を握る彼の力が、ふっと抜けた。
その時、丘の上に大公国軍が姿を現した。
情勢は決した。フェルディナンドの漆黒の鎧は、今や迷いと後悔の重みで、彼自身を圧し潰そうとしている。




