3、深淵への誘い
中部戦線、デュモルチ街道。かつては静寂が支配する森林地帯だったこの地は、今や帝国軍の無策と大公国軍の執拗な伏撃によって、鉄と死臭の吹き溜まりと化していた。
フェルディナンド率いる軽騎兵連隊が辿り着いたとき、精鋭を誇ったアストラガルス騎士団の残骸は、深い森の縁で雪にまみれ、喘いでいた。重装甲の騎士たちは、馬を失い、雪がとけた泥に足を取られ、ただの敗残兵と化していた。
そこへ、帝都ワプティアからの指令が届く。内務大臣ラウロからの連絡役、リッカルドがその指令を伝える。
「よろしいか、ビスマス王。貴公への任務は、アストラガルス騎士団の「名誉ある撤退」を支援することだ。そのための時間は、大公国軍の追撃を遅らせることで稼げ。方法は問わん。周辺の村落を焼き、井戸を潰し、住民を教会へ集めて盾とせよ。家畜も全て殺せ。敵に一粒の麦も残すな」
フェルディナンドの指が、剣の柄を、皮が軋むほどに強く握りしめた。
「……民を、盾にだと? 井戸を潰せば、生き残った者も渇きに死ぬ。ラウロは、私に故郷を焼いた侵略者と同じ真似をせよと言うのか!」
「これはお国を再興するためののための試練です、王よ」
リッカルドの言葉は、毒のようにフェルディナンドの耳を襲う。
「手を汚さぬ者に、玉座に座る資格はない。帝国に、貴公の実用性を証明して見せたまえ、というのが内務大臣閣下のお言葉です」
フェルディナンドは、震える視線を足元の泥へと落とした。彼は知っている。この命令を拒めば、自分の背後にいる亡命領民たちの食糧は明日にも止められ、ビスマスという名は歴史の塵に消える。だが、この命令に従えば、彼は二度と王という光の下へは戻れない……。
沈黙。凍てつく風が、崩壊した軍列の隙間を通り抜ける。
「……フェルディナンド様」
背後から、温度のない、けれど確かな意志を孕んだ声がした。
ジーナが、一歩前へ出る。彼女の翡翠色の外套が、鉛色の空の下で不吉に沈んで見えた。
「その震えを、止めてください」
ジーナはフェルディナンドの前に跪き、彼の冷え切った拳を、自分の両手で包み込んだ。
「王が手を汚す必要はありません。地獄への鍵は、私が預かります」
「ジーナ、お前……、何を言っているかわかっているのか」
「わかっております。フェルディナンド様がいつか、白く輝くビスマスの都に還るためなら、私は今、この手で神を殺しても構わない」
彼女はフェルディナンドを見上げなかった。今、彼の瞳を見てしまえば、己の中の女が見返りを求めてしまうと知っていたから。彼女はただ、彼の手からゆっくりと責任を奪い取り、立ち上がった。
ジーナの背中が、フェルディナンドから離れていく。
「全軍、私の指示に従え! 反抗する者は王国への反逆とみなす!」
ジーナの叫びが戦場に響き渡った。彼女は馬を駆り、最初の民家へと近づく。戸を打ち破り、松明を投げ込む。乾燥した冬の藁に火をつく。
たちまち、赤黒い炎が冬の空を焦がし始める。
逃げ惑う老婆、泣き叫ぶ子供、家族を庇おうとする父親……。ジーナの瞳には、それら全てがフェルディナンドが王に還るために必要な生贄としか映っていなかった。
彼女は一度も、フェルディナンドの方を振り返らなかった。
井戸の底に家畜の死体を投げ入れ、住民を教会へと追い立てるその横顔は、彫刻のように硬く、無機質だった。だが、彼女が馬首を巡らせた一瞬、頬を伝った液体が、熱風に煽られて蒸発していくのを、誰が見ただろうか。
村の各地からから上がる悲鳴が、ビスマス軽騎兵部隊の蹄の音にかき消されていく。
フェルディナンドは、ただ立ち尽くしていた。燃え盛る村の光が、彼の漆黒の鎧を鮮血のような赤に染め上げる。
「私は、死んだのだ」
フェルディナンドは、掠れた声で独白した。
「ビスマスのフェルディナンドは、たった今、この炎の中で、一人の少女の魂とともに死んだのだ」
ジーナが戻ってきた。その外套の裾は煤で汚れ、翡翠の輝きを失っている。彼女はフェルディナンドの数歩手前で足を止め、深く首を垂れた。
「……フェルディナンド様。道は、作りました」
「しかと見せてもらった、ジーナ」
ジーナの声には、もはや震えも、迷いもなかった。ただ、一人の男を怪物にしてしまったという、共犯者の深い悦びと絶望だけが、冷たい風の中に混ざっていた。




