2、亡国の王と翡翠の影
そんな絶望的な戦場を、一筋の閃光のように駆け抜ける部隊があった。
ビスマス王フェルディナンド。大国に踏み荒らされ、国を失った放浪の王。彼は帝国内務大臣ラウロのビスマス王国再興の甘言に乗り、ともに亡命した領民からなる軽騎兵部隊を率いて帝国軍の火消し役を務めていた。
ガドリン湖北方の湿地帯は、雪と血、そして凍てつく霧に包まれていた。
敗走する帝国歩兵の背後から、大公国軍の追撃部隊が迫る。混乱し、足を縺れさせる帝国兵たちが次々と背中を刺し貫かれる中、霧を切り裂いて一騎の軽騎兵が躍り出た。
翡翠色の外套を翻し、馬上で小型の弓をつがえるはジーナだった。
彼女の瞳には、大公国軍への慈悲など微塵もない。馬の激しい上下動を膝で吸収し、吸い付くような動作で矢を放つ。
「一、二……」
低く、温度のない声で彼女が呟くたび、追撃部隊の先頭にいた大公国兵の喉笛が、正確に、そして深く射抜かれた。矢継ぎ早に放たれる三矢目は、倒れた戦友を助けようとした若い兵士の眼球を貫き、泥の中へと沈めた。
「無様に群れるだけの獣が。フェルディナンド様の往く手を塞ぐな」
ジーナは馬を急旋回させると、あえて瀕死で呻く敵兵の指を馬蹄で踏み砕き、至近距離から次の一矢をその胸に叩き込んだ。返り血が彼女の頬に一筋の紅を引くが、彼女は瞬き一つしない。
彼女にとって、目の前の人間たちは命ではなく、主君フェルディナンドの尊厳を汚す障害物に過ぎないのだ。
追いすがる敵を冷徹に間引き、戦線に一時の空白を作り出したジーナ。その弓を引く指先は、極寒の空気の中でも微塵も震えてはいなかった。
友軍への脅威が去ったことを確認すると、ジーナは救った兵士たちのことなど歯牙にもかけず馬首を巡らし、本営に戻る。彼女のいるべき場所はだた一つだった。
「よくやった」
「これしきのこと、フェルディナンド様のお手を話ずらせるまでもありませんでしたわ。それよりも、フェルディナンド様、風が冷たくなります。これを」
ジーナは従兵からマントを奪い取るようにしてフェルディナンドへ差し出す。彼女の頬はリンゴのように赤くなっていた。それは戦場の寒さのせいだけではなかった。
「お髪に……汚れが。失礼します」
ジーナは指先でフェルディナンドの髪についた塵を、宝物に触れるように、うっとりと取り除く。「翡翠の弓手」と称される彼女は、帝国へ逃れる前からフェルディナンドの影として生きてきた。
フェルディナンドは領民を守るため、あるいは王座を取り戻すため、心を鋼で塗りつぶしていた。
力こそが全てだ、と冷酷に語るその横顔。ジーナだけが知っている、フェルディナンドの瞳の奥に宿る、凍てついた孤独を。それゆえ、彼は苛烈なのだ。
「ジーナ、次は中部戦線だ。アストラガルス騎士団の救出に向かう」
「……あそこは、大公国が罠を幾重にも仕掛けていると言われておりますが」
「内相の命令だ。失敗を糊塗するための捨て駒が必要なのだろう。我らが生き残るには、帝国の不興を買うわけにはいかない」
フェルディナンドは自嘲気味に笑った。ジーナは何も言わず、ただ深く頷いた。彼が地獄へ向かうなら、自分もまたその炎に身を投じるだけだ。
ジーナは他者には牙を剥き、敵を罵倒したが、フェルディナンドがふとした瞬間に見せる孤独な背中だけは、誰よりも深く理解していた。
フェルディナンドがジーナを道具として扱うたび、その冷たさの裏にある守るための苦悩を感じ取り、彼女は生涯を捧げる誓いを新たにするのだった。




