食卓に薔薇を
照明を最小限に抑えた暗い廊下。コンクリートの打ちっぱなしの床に響く己の靴音が煩わしい。
「お疲れ様です。見張りの交代に来ました」
豚の様な男。私の上司に当たるそいつは私の顔を見ると、古いパイプ椅子を軋ませて立ち上がった。紫煙を置き土産に立ち去るそいつを見送った私は、もう長年の癖になってしまっている溜め息を吐いた。
ここは私の職場。この街を管轄している治安維持組織、所謂警察署の留置所といったところだ。と言っても、普段被疑者の身柄の拘束に使われているそことは少し違う。鉄格子は錆び付き、内部には寝台はおろか、硬い床に敷物一つない劣悪な環境。今の今まで放棄されていた旧留置所に、拘束された者がいる。
「こんにちは!初めましての方よね?女の子が来てくれて嬉しいわ!」
場違いも甚だしい声に、私は眉間を押さえて溜め息を吐いた。
鉄格子の向こうに隔離されているのは愛らしい少女。柔らかなプラチナブロンドは少ない光源をかき集めて金糸の様に煌めき、あどけなさの残る頬の上には艶やかに咲く薔薇の色をした丸い瞳がふたつ収まっている。
「わたしの名前はね、ロゼっていうの。あなたのお名前は?」
小首を傾げる少女の、鈴の鳴るような声を私は無視したのだが、それを聞こえていなかったのだと勘違いした少女は今し方口にした台詞と全く同じ言葉を繰り返した。5回ほど。
「……」
「ねえ」
「……」
「わたしの名前は」
「しつこいわね聞こえてるわよ!リィカよ。……これで満足した?」
この子、何回やれば気が済むの。繰り返される不毛なやり取りに、もともと気が長い方ではない私の忍耐は早々に根を上げてしまった。
苛立ちを溜め息にのせて吐き出す私とは裏腹に、少女——ロゼはまさしく花の咲いた様な笑顔で私を見つめていた。
「リィカ!素敵な名前ね、ふふ、嬉しいわ。よろしくね、リィカ」
「……吸血鬼なんかと、仲良くする気はないわ」
吸血鬼。
この街の治安ははっきり言って良くない。暴力沙汰はしょっちゅうで、詐欺や薬が横行している。地方警察が追っている殺傷事件の数は常に二桁。その中には狼男、魔女、吸血鬼といった化け物が犯人ではと噂されるものも少なくない。昨年警察学校を卒業し、巡査の役に着いたばかりの私でさえ、もう既に何度も死地を経験している。
「そんなこと言わないで、お話ししましょう?」
吸血鬼は不老不死。目の前にいる花のような少女も、その中身はきっと恐ろしい化け物であるはずなのだ。いや既にこうして我々警察に捕縛されている時点で何かやらかした奴なのは確定なのだが。
「あなたはこの街で生まれたの?それとも遠いところ?」
当然無視だ。留置中の罪人と談笑する警察官が居てたまるか。
「好きな食べ物は?わたしはチェリーパイが好きよ、昔よく作ってもらったの」
無視。
「好きな花は?好きな色は?どんな音楽を聴くの?」
無視。溜め息。
「どんな服が好き?リィカは美人だからきっと何でも似合うわね」
無視。溜め息。頭痛。
「香水は好き?お化粧品はどんなものを使っているの?髪は染めているの?」
無……
「好きなアイスクリームのフレーバーは?恋人はいる?どんな男性が好……」
「ああもう!分かったわ!答えてあげるから、静かにして!」
ロゼのマシンガン的質問攻めに私はやはり負けてしまった。まあ仕方ない、昔から年下の女の子にはどうにも弱いのだ。
*
「ええ!ひどいわ、そんな人、別れて正解よ」
「まぁ、私の方も馬鹿だったと思うわ。それに楽しかった時間は嘘ではないし、後悔はないわ」
「リィカは大人ね。私だったらそんな人許せないわ。晩ご飯にしてしまうのだから」
「笑えないからやめて」
Pipipipi——という機械的な無線の通信音で私は我に帰った。
いや思い切り仲良くしている。普通に話し込んでそしてめちゃくちゃ盛り上がってしまったし楽しかった。何が『吸血鬼と仲良くする気はない』だ。如何にも私は高潔な正義の味方ですと言うふうに鼻を鳴らしていた数十分前の己の姿が思い浮かばれる。ぶん殴ってやりたい。極東の言葉の穴があったら入りたいとはまさにこの様な気持ちのことを言うのだろう。幸いこの廃墟同然の旧留置所には監視カメラやマイクが無いため私の醜態が同僚に晒されることはない。それだけが救いだ。
突然言葉を切った私をロゼは不思議そうな顔で見つめている。
「交代の時間だわ」
「リィカ、行ってしまうの?」
薔薇色の瞳が艶やかに揺れている。やめて、そんな捨てられた子犬の様な目で私を見ないで。仕事なの。
「ねえ、わたしまたあなたと会いたいわ。今度は一緒にお買い物したり、一緒に映画を見たり、一緒にケーキを食べたりしたいわ」
「ええ、そうね。あんたがそこから出られたらね」
溜め息を混じりに吐いた無責任な言葉だったのに、ロゼは今までで一番の笑顔を見せた。
「約束よ?」
交代の見張りが扉を開けたのは、ロゼがそう言ったのと同時だった。私が次に檻の中に目を向けたとき、そこにロゼの姿はなかった。
*
久しぶりの休日だ。時刻はまだ午前10時を過ぎたあたりで、私は家の近くのカフェのテラス席で朝食をとっていた。ここのクロワッサンは美味しい。クロワッサンに限らず、ペストリーが全て絶品である。コーヒーはまあまあだが、それもこの狐色のクロワッサンが帳消しにしてくれる。
短い溜め息がコーヒーの湯気を吹き飛ばした。今週は忙しかった。あのときいきなりいなくなったロゼ。本来なら被疑者を逃したとなれば少なくとも謹慎処分は免れないが、相手は訳のわからない化け物で、さらに私は着任間もない新人の女性警察官。新人の女のミスということで、私へのお咎めは始末書の提出で済まされた。……軽んじられているという意味でもあるが、まあ軽い罰で済んでいるのだから別に言うことはなかった。
クロワッサンの最後の欠片を口に運ぼうとしたとき、私の頭部に柔らかいものがムギュッと押し付けられた。
「リィカ!久しぶりね!元気だったかしら?」
頭上から響く聞き覚えのあり過ぎる鈴の鳴る様な声。待って。なんでこの子がこんなところにいるの。頭上の質量を何とか押し除けて振り返ると、そこにはお忍び中の女優の様な格好をしたロゼが立っていた。
「あんた……ちょっとこっちに来なさい!」
きゃあ、と楽しそうな悲鳴をあげるロゼを無理矢理店内に引っ張った。ちょっとぐらい乱暴でもいいだろ吸血鬼だし。
「何でこんなところにいるの?あの時どうやって抜け出したの?」
「どうやって逃げたかは内緒。何でここにいるのかは、約束したじゃない?」
ロゼは唇に人差し指を当てて首をこてりと倒した。無駄に可愛らしいのが腹立たしい。そして約束?約束って言ったこの子?まさか。
「今日はお休みでしょう?デートしましょうリィカ!」
「嫌よ」
「どうして!?」
約束したのに!?とショックを受けるロゼ。当たり前だ。逃走中の被疑者を見つけた警察官がとる行動は一つだ。
「あんたの身柄を拘束するわ」
手錠を取り出そうとした右手をロゼに掴まれる。ひんやりとした手の握力はやはり人間の女の子のそれではない。
「待って、お願い!話を聞いて!」
潤んだ薔薇色の瞳が私の目を真っ直ぐに貫く。やめて。その目には弱いんだってば。
「わたしあなたと一緒にいる間は、何もしないわ、普通の人間の女の子でいるわ」
「だからってあんたを見逃して私に何の利益があるの」
「……そうね。なら、あなたはわたしのこと、いくらでも調べていいわ。詮索していいわ。あなたの好きに利用していいわ。でもわたしは何もしない、あなたの、警察さんたちの、人間の、迷惑になるようなことは決してしないわ」
泣きそうな顔をしないで。どうしてそんなに必死になるの。捕まりたくないのなら今すぐ逃げれば良い。あんたにはそれが出来るでしょう。なのにどうしてそんなに私に固執するの。
「それに……あなたがわたしの時間を奪えれば、それはあなたたちにとって良いことではなくて?」
ふと薔薇色の瞳の焦点が私から外れた。そのままつられて私はロゼの視線を追いかけた。ロゼの視線の先には、カフェの従業員や客といった人間たちの姿があるだけ……そうだ。そうだった。この子は吸血鬼。逃げようと思えば逃げられる。この場の人間全員を殺したとしても。
あなたがわたしを拒絶して捕まえようとするなら、わたしはこの場の誰も顧みずに手段を選ばず逃走する。
私は肺の底から搾り出す様な溜め息を吐き出した。
「分かったわ。でももし約束を破ったら、その瞬間あんたを捕まえるから」
了承してしまった。だが仕方ない。まずは他の人間の安全が第一だ。それにロゼの言う通り、私がロゼを縛り付けていられる間は吸血鬼の被害も出ない。加えてロゼから吸血鬼の情報を引き出せれば、捜査の役に立てるかもしれない。ついでに言うと
「本当!?わあ、嬉しい、嬉しいわ!ありがとうリィカ」
この花のような少女の笑みを独り占め出来るのはなかなか悪くないと思ったのだ。
*
それから数日が経った。自分でもまさかこんなことになるとは思わなかった。あの時の浅はかさを後悔してもしきれない。
仕事を終えた私は借りているアパートの扉を開けた。
「ただいま」
いつも通り暗い部屋に帰宅の挨拶をする。若い女性の一人暮らし。防犯意識は高く持っておいて損はない。誰もいない部屋から返事が返ってくることはない。はず。なの。だが。
「おかえりなさーい!」
元気な声とパタパタという足音。暗闇から飛び出したロゼは喜色満面で私にハグをする。
「今日の夜ご飯はなあに?わたしリィカの作るご飯は何でも大好き!」
「残念、今日はテイクアウトのピザだよお嬢様」
「ピザも大好き!!」
両手を上げて喜ぶロゼの口に、とりあえずフライドポテトを数本放り込んでやった。
あの日、ロゼの押しに私が負けたあの日。あの日以来、ロゼは私の家に住み着いている。私の部屋着を着て、私と同じものを食べて、私のシャワー中に乱入し、夜は勝手に布団に潜り込んでくる。
最初の数日はまあ良いかと思った。ロゼが私のもとにいる間は監視できるし、必然的に会話する機会も増えるのだから、ありっけの情報を聞き出してやろうと思っていた。思っていたのに。
この子、知ってることが少な過ぎる。ロゼから聞き出せたのは精々吸血鬼の習性や弱点、この街にいる吸血鬼の数くらいだった。あんなに自信満々に利用していいと言いながら、利用出来るものがほとんどないではないか。詐欺だ。訴えてやる。私の自由気ままな一人暮らしが脅かされている現状とどんな秤を使っても割に合わない。今のところメリットはロゼを拘束することで吸血鬼の被害を抑えられているというところしかない。鬱憤を晴らすようにロゼが持ち込んだコウモリの形のクッションをぎゅうと抱きしめるのが日課になりつつあった。
「どうしたのリィカ」
「何でもない……」
食事を終えて使い終わった食器を洗いながらロゼが話しかけてくる。そういえば、ここに来てからロゼはずっと私と同じものを口にしている。彼女は一度も血を飲んでいない。
「ねえロゼ、あんた最近人間の血を飲んでいないわよね?身体は大丈夫なの?」
「大丈夫よ、すぐに死ぬ訳じゃないわ。ただやっぱりお腹は空くし、すぐに疲れてしまったりはするわ」
欠伸を噛み殺しながら答えるロゼの薄い唇の下に、白い牙が見えた。私はそう、とだけ答えて、意識を手元の新聞に向けた。
*
とある夜の食卓。花瓶に薔薇を生けたテーブルに料理を並べる私を、ロゼは瞳をキラキラと輝かせながら見つめていた。
「ビーフシチューに、エビのアヒージョ、チーズとイチジクのサラダ、スモークサーモン、クロケット、ワインにチェリーパイまで!わたしの好きなものばかり!リィカ、今日は何かのお祝いなの?」
「今日はあんたの誕生日でしょ、ロゼ」
「え、リィカ、覚えていてくれたの?」
あれだけしつこく何度も何度も教えられれば嫌でも覚える。それなのに本気で驚いているロゼがおかしくて私はくすりと笑った。
ロゼは本当の自分の誕生日を知らない。だから吸血鬼になった日を誕生日ということに自分で決めたのだと語っていた。彼女ら吸血鬼を捕まえるべき仕事をしている私がそんな日を祝うのもおかしな話だが、たまにはそれも悪くないだろう。
二人で乾杯をして料理を取り分ける。フォークを口に運ぶ度に頬に手を添えて喜びを表現するロゼ。そんな調子では食べ終わる前に料理が冷めてしまうわと私が苦笑すると、それはいけないと急いで皿を掻き込み始める。幼子の様に頬を膨らませる彼女に私はまた笑った。
楽しい時間は早くすぎる。ロゼはチェリーパイの最後の一口を名残惜しそうにフォークで突いていた。
「ねえロゼ、最近体調はどう?」
「それなんだけど、私たち吸血鬼は本当なら人間の血しか栄養にできないの。なのにね、リィカの作るご飯を食べていると不思議と元気になれるの。きっとリィカにはそういう不思議な力があるんじゃないかしら!ねえ、きっとリィカは警察よりコックさんの方が向いていると思うの!」
なんだそれは。買い被りも甚だしい。私に不思議な力なんて無い。それも吸血鬼、いやロゼを喜ばせるためにしか役立たない力なんて。そんな謎の力でようやく受かった今の職を奪わないでほしい。
「からかわないでロゼ」
溜め息と一緒に吹き出してしまう。危うく持っていたグラスを取り落としてしまいそうになったが、ギリギリでロゼが受け止めてくれた。
「……リィカ、少し疲れてる?」
「仕事が忙しくてね。大丈夫、いつものことよ」
最近、この町で殺人事件が増加している。被害者の多くは身体中の血を抜き取られているが、辺りに血痕は少なく、まるで吸血鬼に血を吸われて殺された様だと噂されている。同一犯の犯行だと推測されているこの事件の被害拡大を防ぐために警察は大規模な捜査を開始。多種多様な犯罪者や魑魅魍魎が跋扈するこの街の警察組織は慢性的な人員不足に頭を抱えていて、最も階級が低くて経験も浅い私まで捜査に参加させられている状態だ。ちなみにこの連続殺人の第一容疑者は留置所から突如姿を消した金髪の吸血鬼なのだけれど。
「わ、わたしじゃないからね」
「知ってるわよ引きこもり。あんたここに来てから、私と出かける時以外は私の留守中も外に出ていないじゃない」
「よかったわ……って、どうして引きこもりってわかるの!?……ハッ!まさか監視カメラ!?」
「逆にどうして仕掛けてないと思ったの?」
*
その次の夜。ロゼはリィカから仕事で遅くなると連絡を受けた。暗い部屋で一人、寝台に横になりながらリィカの帰りを待っていた。
リィカの仕事が激務かつ、危険と隣り合わせのものであることは分かっているが、それにしても最近のリィカの憔悴具合は目に余る。心配だった。何か自分にできることはないだろうかと考え、思いついた。きっと今日も疲労困憊で帰ってくるであろうリィカのために、今夜はわたしが食事を用意しよう。帰りが遅くなる日はテイクアウトが多い。だがもしリィカも食事を買って帰ってきたとしても大丈夫。吸血鬼の胃袋は広いのだ。
基本的に夜遅く帰宅するリィカは、夜間でも営業している店をたくさん知っていて、わたしも一緒に買い物に連れて行ってもらうことも少なくない。なので店の情報はばっちり把握している。リィカのコートを勝手に拝借して準備OK。買い出しに出かけよう。
外はちらちらと雪が降っていた。吸血鬼にとって寒い、暑いなどは大して苦痛にならないが、温度の変化を感じないわけではない。買い物のメモ。その文字をぼかす己の白い息。目的の店に向かって歩きながら、わたしはなんとなく、遠い冬の日を思い出していた。
わたしは娼館で生まれた。母のアリーと、その客との間に出来た子供。母とその客は将来を誓い合うほどの仲だったらしいが、妊娠を告げた次の日から、毎日のように母のもとに通っていたその客は、父は、ぱたりと姿を見せなくなったと聞いた。やがて店にも妊娠がバレたが、中絶する金も無く、腹の大きい女にも需要はあるからと、母は私を身籠ったまま男の相手をさせられていた。
やがて産まれたわたしに、母は毎日ひどい言葉を吐いた「お前さえいなければ」「クズ」「お前のせいで」「産まなければよかった」「早く死ね」。女として客を取るために最低限の教育を受けさせられたわたしは、母の言葉の意味がわかってしまった。母が私を嫌い、憎んでいることをわかってしまった。店の人間や他の娼婦からも「穀潰し」と、罵倒され、叩かれ蹴られて育った。
わたしが初めてこの体に男を受け入れたのは、まだ両手の指で足りる歳の頃だった。
「かみさま、たすけて」
と。人は、何かを願うとき、かみさま、と口にする。その言葉だけを知っていたわたしは、冷たい言葉を投げかけられる度に、酷い折檻を受ける度に、腐った食べ物を皿に乗せられる度に、知らない腕に抱かれる度に、心の中で何度も何度も祈っていた。
でも、そんなふうに曖昧な宛先では、伝書鳩も道に迷ってしまったのだろう。わたしを助けてくれたのは、神ではなく悪魔だった。
その冬の夜、わたしは気を違えた客の男に両手の指を折られ、更にはそれについての罰を受けていた。大きな怪我をすると人は熱を出すんだなと、他人事みたいにぼんやり考えていた。
朦朧としていた私の目を覚まさせたのは、悲鳴。部屋の外から、娼館のいたるところから、悲鳴と、何かを破壊するような音が聞こえてきた。わたしは訳がわからなくて、怖かった。やがて部屋の外が静かになったころ、恐る恐る部屋を出た。明かりが消えて、ぐちゃぐちゃになった娼館。入り口からすぐの広間は、月光で明るかった。
そしてわたしの目に飛び込んできたのは、そこら中に散らばった見覚えのある人たちの死体。その中心で、ひとつの死体の折れた首から血を啜っている吸血鬼の姿だった。
わたしは思わず悲鳴を上げてしまった。吸血鬼はすぐにわたしに気が付いて、こちらに近づいてきた。怖くて動けなかった。わたしも殺されると思った。だけど。
「何故このような醜悪な場に子供がいる。その痛々しい両手はどうした」
吸血鬼はわたしの顔を覗き込んで、手を取って、全身を舐め回すみたいにじっと見て。
「ふむ、摘み取るには惜しい花だな」
そのひとは笑って言った。
「お前、俺の物にならないか」
何を言われているのか、どういう意味か、わたしにはわからなかった。
「断ってもいいぞ。これは命令じゃない。まあ、その場合、そこに転がってる死体の仲間になって貰うが」
そう言ってそのひとが指差したのは、わたしの母だった。目を見開いたまま、血を流して倒れている、母の姿。そのときわたしが最初に抱いた感情は嫌悪。わたしを睨んだ目が、わたしを罵倒した口が、わたしを叩いて蹴り飛ばした手足が、もう二度と動くことは無く、血に濡れて冷たくなっている。嫌だと思った。母の死がではない。その醜さが。あんな風に、あんな、あんな人と同じになりたくない。
「わたしは」
絞り出した声は震えていた。ちゃんと聞き取れる言葉になっていたのか、今となっては怪しい。
「死にたくない……」
「よろしい」
耳元でそのひとの声が聞こえた次の瞬間、わたしの首に鋭く熱い痛みが走った。
その後、わたしはそのひとに片手で抱えられながら、灼け落ちる娼館を眺めていた。
「お前名前は」
「……?」
「娼館では何と呼ばれていた」
「アリーの娘と、呼ばれていたわ」
「それは名前ではないだろう……そうだな」
わたしの瞳をじっとみたそのひとは、何かぶつぶつと呟いた後に、満足そうに頷いた。
「ロゼ。今からお前はロゼ。やや安直な気がしないでもないが……うん。我ながらなかなか良い名前だ」
こうして、わたしはロゼになった。
常識というものを全く知らないわたしに、あのひとは言葉や食器の使い方、まともな服の着方、社会に溶け込むためのルール、マナー、食事を得るための技、誰かと食卓を囲む喜び、全てを教えてくれた。
かつて己がいた場所、強いられていた行為の意味を理解したわたしが何度も吐いた日は、ずっと隣で背中や頭を撫でてくれていた。
残忍で淫蕩な吸血鬼という化け物でありながら、優しいあのひとが大好きだった。
「ねえ、リィカ。わたし、本当はあなたを騙すつもりで近づいたの」
あの日、人目につく場所で血を吸ってわざと捕まったのは、警察の内部で取り入りやすそうな人間を探すため。そして見つけたリィカ。無害なふりをして、健気なふりをして、利用してやるつもりだった。
全ては、復讐のために。
父であり、兄であり、師であり、友であり、想い人でもあったあの吸血鬼を殺した人間たちに報復するために。
全身を銀の弾丸で撃たれ、心臓を杭で貫かれ、首をもがれた後に朝日の下で灰にされたあのひとと同じ苦しみを味わわせるために。
「でもわたし、自分で思ってたよりずっと弱くて、惚れっぽかったみたい」
リィカは太陽の下に現れたわたしを、すぐに日陰に引き込んでくれた。食事の心配をしてくれた。布団に潜り込んだわたしに、狭いと言いながら抱きしめて頭を撫でてくれた。わたしがわたしになった、あのひととの思い出の大切な日を、一緒に祝ってくれた。
リィカと一緒にいるうちに、彼女の為人を知るうちに、悪態と一緒に溜め息を吐きながら世話を焼く彼女の優しさに触れるうちに、彼女のことが大好きになってしまっていた。
強くて優しい、不器用な天使。
わたしにとって二人目の大切なひと。あなたともっと一緒にいたいの。
いつ終わってしまうか分からない、不確かで危うい関係。それでもまだもう少し、この甘さに酔いしれていたかった。
買い物が一通り終わり、アパートに帰ろうとしたわたしの耳に、小さな悲鳴が聞こえた。遠くに聞こえたその声は若い女性のものだった。
「もし、リィカだったら」
昔のことを思い出して少し気が滅入っていたのだと思う。この街で誰かの悲鳴が聞こえることなんて別に珍しくも何ともない。普段なら気にも留めないようなことなのに、なぜか心がざわついて仕方なかった。
大丈夫、リィカじゃないことだけ確認したら、すぐに引き返せばいいだけのことだから。そしてわたしは悲鳴が聞こえた方向に走り出した。
途中から漂ってきた血の匂い。その匂いの元は悲鳴が聞こえた方向と合致していた。
そして、そこにたどり着いたわたしの目に映ったのは、雪の上に倒れる見知らぬ女の人と、その隣に立つリィカの姿だった。
「え」
全く予想していなかった光景に、思わず声を上げてしまった。わたしに気が付いたリィカの目が大きく見開いた。
「どうしてロゼがここにいるの」
震えた声でわたしの名前を呼ぶリィカ。その手から、血のついたナイフのようなものが滑り落ちた。
「リィカこそ、何してるの?……えっと、その女の人はだあれ?どうして倒れているの?早く助けないと」
リィカは深い溜め息をついた。彼女のいつもの癖だ。
「見て分からない?人間の血を、調達してるの。あんたに飲ませるために、あんたを生かすために!」
聞いたことのないリィカの声、見たことのないリィカの剣幕にわたしの肩はびくりと震えた。
「おかしいと思わなかった?吸血鬼があんなに長い間血を飲まずに生きられる訳がないじゃない。不思議な力?そんな巫山戯たものないわ。ずっと私があんたの食事に人間の血を混ぜていただけよ!」
「なんで、そんなこと」
「あんたのことが好きだからに決まってるでしょ!!」
リィカの瞳からはずっと涙が流れ続けている。冷たいでしょう。その頬を拭ってあげたいのに、わたしの身体は動かない。
「あんたのことが、大好きだから、愛してるから……」
嗚咽を堪えながら、リィカは雪が積もる地面に崩れ落ちてしまった。
「初めは、私の血を混ぜていたわ。腹を空かせたあんたが外に出て人間を襲わないように」
蹲るリィカの背中があまりにも小さくて、頼りなくて、今すぐ抱きしめたいのに。言葉を返せずにいるわたしのことなど構うことなく、リィカの独白は続く。
「そんなこと夢にも思わず喜ぶあんたは、私に近付いた目的なんか忘れてしまったみたいに、楽しそうに笑ってるあんたは滑稽だったわ。滑稽で、これ以上ないくらい可愛くて、愛おしかった。こんなに大切に思える存在なんて、今まで出会ったことがなかった。あんたにはずっと、ずっと笑ってて欲しかった。……でも、血はすぐに足りなくなった。足りなくなったから、奪うしかなかった。あんたと一緒にいるために、こうするしかなかったのよ……」
——ああリィカ。
あなた、私の目的にずっと気付いていたのね。それでもわたしを愛して、側においてくれていたの。その綺麗な手を汚してまで。
迷っただろう。辛かっただろう。悪を糾すべき側であるはずのあなたが、それ以前に、どこにでもいる普通の人間として生まれ育ったあなたが私欲のために誰かを傷付けるのはどんなに苦しかっただろう。今もきっと、後悔と自責に苛まれているのだろう。
あの日わたしを救った者は神ではなく、今わたしが愛する者は天使ではなかった。
見知らぬ無辜の命よりも、わたしとの幸福を優先してしまったあなた。
わたしの汚れ切った手を取るものは、やはり正しさではないのだと、失望と言うには図々しい諦観に似た感情を打ち消すほどの歓喜。
血に濡れて涙を流すあなたが堪らなく愛おしい。愛おしいの。愛しているの。
わたしはやっと自由になった両腕でリィカの背中を抱きしめた。ああ、こんなにも冷え切って。
道を違えてしまったあなたを、もう戻れないあなたを、恋慕のために狂ってしまったあなたの心を救う方法を、わたしはひとつだけ知っている。
「リィカ」
「わたしのものになって」
*
リィカとロゼが暮らしていたアパートが炎に包まれている。
二人の部屋には若い女の死体を一つ置いてきている。細かい死体の鑑定などしている余裕のない警察の目はこれで誤魔化せるだろう。
「……綺麗ね」
「そうね、でもやっぱり少し寂しいわ。わたしとあなたの愛の巣だったのだもの」
どこで覚えてくるんだそんな言葉、とリィカは溜め息まじりに苦笑する。
「ところでロゼ、あんた結局どうして出歩いていたの」
愛らしく小首を傾げるロゼ。その顔がみるみるうちに青ざめていく。
「?……ああ!そうだったわ!今日はわたしがリィカに食事を用意してあげようと思っていたの!それで買い物に……すっかり忘れてたわ……」
項垂れるロゼ。残念ながらその食材は今炎の中である。
顔面にしょんぼりと書いてあるロゼに、リィカはくすくすと笑った
「それならお言葉に甘えて、今日はロゼに用意して貰おうかな」
「食事のやり方、教えてくれる?」




