私はあなたの装飾品ではありません
「リディア、今日のドレスもよく似合っているよ。やはり君にはその色が一番だ」
夜会の馬車の中。夫であるエドワード・ハミルトン伯爵は、私の手を取り、満足げに微笑んだ。
私は反射的に、淑女の微笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、エドワード様」
「向こうに着いたら、余計なことは喋らなくていいからね。君はただ、僕の隣でニコニコしていればいい。それだけで、その場の華になる」
エドワード様は私の髪を撫でる。それはまるで、愛玩動物や、大切にしている骨董品を扱うような手つきだった。
「……はい」
私は小さく頷いた。
反論はしない。しても無駄だと知っているから。以前、領地の税制について意見を述べたことがあった。私は実家の公爵家で領地経営を学んでいたから、彼の政策の穴に気づいてしまったのだ。
けれど、彼は不機嫌そうにこう言った。
『リディア、君のような可愛らしい女性が、そんな難しいことを考える必要はない。数字の計算なんてしたら、眉間に皺が寄って台無しだよ』
それ以来、私は口を閉ざした。
彼は私を愛していると言う。確かに、暴力は振るわない。浮気もしない。欲しいと言ったものは何でも買ってくれる。傍から見れば、理想的な愛妻家だろう。
けれど、私は息が詰まる。彼は私という「人間」を見ていない。彼が愛しているのは、「自分の言うことを聞き、自分を引き立ててくれる、美しくて愚かな妻」という虚像だ。
会場に着くと、エドワード様は誇らしげに私をエスコートした。
周囲から「美しい奥様ですね」「お似合いのご夫婦だ」と声がかかるたびに、彼の自尊心が満たされていくのがわかる。
私はただのトロフィー。彼の成功を飾るための、装飾品。
談笑の輪の中で、ある投資話が持ち上がった。
怪しげな商人が、エドワード様に「南方の香辛料貿易」への出資を持ちかけている。
私はピンときた。その商会の名前は、最近詐欺まがいのトラブルで噂になっているところだ。
エドワード様は乗り気になっている。
「あの、エドワード様……」
私は思わず袖を引いた。
「少し、慎重になられた方が……」
「リディア」
エドワード様の声が、すっと冷たくなった。
彼は私の耳元に口を寄せ、甘く、しかし凍えるような声で囁く。
「男の話に口を挟むものではないよ。君は何もわかっていないんだから」
「……申し訳、ございません」
私は引き下がった。
ああ、まただ。彼は私の言葉を聞こうともしない。
私が彼を守ろうとしても、彼はそれを「無知な妻の戯言」として切り捨てる。
その夜、屋敷に帰ってから、私は執務室のゴミ箱に捨てられていた書類を拾った。エドワード様が隠れて契約しようとしている、香辛料貿易の契約書の下書きだ。内容は杜撰で、明らかに不利な条項が含まれている。
そして、担保の欄を見て、私の血の気が引いた。
『担保:クロフォード公爵家所有、北のミスリル鉱山採掘権の一部』
クロフォード公爵家。私の実家だ。ミスリル鉱山は、実家の収入源の要。
それを、私に何の相談もなく、勝手に担保に入れようとしている?
私は震える手で書類を握りしめた。
夫だから、妻の実家の資産も自分のものだと思っているのか。
私が「何もわからない」から、説明する必要さえないと思っているのか。
――ああ、無理だ。
私の中で、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
愛?
これが愛なものか。これは搾取だ。支配だ。
彼は私を愛しているのではない。私という「便利な付属品」がついた、私の実家の資産と、私の見た目を愛しているだけだ。
私はその夜、眠る夫の寝顔を見下ろしながら、静かに決意した。
もう、演じるのは終わりにしよう。私は人形ではない。生きている人間なのだから。
***
翌日から、私は水面下で動いた。
まずは実家の父に手紙を書き、事情を全て説明した。
父は激怒し、「すぐに帰ってこい」と言ってくれた。鉱山の権利書などの重要書類は、夫の手の届かない場所へ移してもらった。
そして、私がこの三年間、裏で行っていた「仕事」の始末をつけた。
エドワード様は知らない。
彼が「俺の経営手腕だ」と自慢していた領地経営の黒字が、実は私が夜な夜な帳簿を修正し、無駄な経費を削減し、適切な投資先へ資金を誘導していた結果だということを。
彼が「優秀な部下」だと思っていた補佐官たちが、実は私が内密に指示を出して動かしていたことを。
私は補佐官たちを呼び出し、これまでの感謝と、別れを告げた。
彼らは涙を流して引き止めたが、私の決意が固いことを知ると、最後にこう言った。
「奥様がいなくなれば、この家は三ヶ月と持ちません」
「ええ。わかっています。……でも、それは伯爵が背負うべき責任です」
全ての準備が整った日。私はエドワード様の執務室へ向かった。彼は相変わらず、上機嫌で怪しい投資話の書類を眺めていた。
「エドワード様」
「やあ、リディア。なんだい? 新しいドレスでも欲しくなったか?」
彼は顔も上げずに言う。
私は、一通の書類を彼の机の上に置いた。離婚届だ。
「……これは?」
「離婚届です。サインをお願いします」
エドワード様はきょとんとして、それから吹き出した。
「ははは! 何の冗談だい? リディア、君は本当に可愛いな。僕の気を引きたいのか?」
「本気です」
私は真っ直ぐに彼の目を見つめた。今まで見せたことのない、冷ややかな瞳で。
エドワード様の笑みが、引きつる。
「……本気? 馬鹿なことを言うな。君は僕がいなければ何もできないじゃないか。衣食住も、宝石も、社交界での地位も、全て僕が与えているんだぞ?」
「私が何もできないと、本気で思っていらっしゃるのですか?」
「当たり前だろう! 君は世間知らずの箱入り娘だ。僕の庇護がなければ、一日たりとも生きてはいけない!」
彼は声を荒らげた。
怒りではない。所有物が勝手に意思を持ったことへの、困惑と苛立ちだ。
「そう思わせていたのは、あなたの願望です、エドワード様」
私は淡々と告げた。
「この三年間、家の財政がなぜ安定していたか、ご存知ですか? 私があなたの乱脈な散財を補填し、裏で運用していたからです」
「は……? 何を言って……」
「領地の収穫量が上がったのは、私が土壌改良の専門家を派遣したからです。あなたが『農民の戯言』と無視した提案を、私が拾い上げたからです」
私は次々と事実を突きつけた。
彼が成功だと思っていた全ての裏に、私の介入があったことを。
「嘘だ! そんなこと、君にできるはずがない! 君は……君はただの……!」
「ただの装飾品、ですか?」
私は微笑んだ。淑女の仮面を脱ぎ捨てた、皮肉な笑みを。
「残念ながら、私は人間です。思考し、判断し、傷つく心を持った人間です。……私の実家の鉱山を勝手に担保に入れようとしたこと、父に報告いたしました」
エドワード様の顔色が、土色に変わった。
「な、なぜそれを……」
「私の目は節穴ではありません。……サインを。さもなくば、横領未遂と背任行為で、公爵家の名のもとに正式に告発します」
エドワード様は震える手で羽ペンを握った。
悔しさと、信じられないという表情で私を睨む。
「……後悔するぞ、リディア。離婚した女など、社交界では笑い者だ。路頭に迷って泣きついてきても、もう知らないからな!」
「ええ。ご心配なく」
私はサインされた書類を回収し、一礼した。
「あなたの装飾品でいるくらいなら、路頭の石ころになった方がマシですわ」
***
屋敷を出た私は、実家には戻らなかった。父は受け入れると言ってくれたが、甘えるつもりはなかった。
私には、自分の足で立ちたいという欲求があった。
私は隣国へ渡り、小さな商会を立ち上げた。
ハミルトン家で培った(というか夫の尻拭いで磨かれた)経営手腕と、元々の知識、そして「もう誰の顔色も窺わなくていい」という解放感が、私を突き動かした。
私の商会は、女性ならではの視点を取り入れた商品開発や、堅実な資産運用代行で、瞬く間に評判となった。
一方、エドワード様のハミルトン伯爵家は、予想通り崩壊の一途を辿っていた。
私がいなくなった翌日から、屋敷は混乱に陥った。経費の計算が合わない、使用人の給与が遅れる、領地からの陳情が捌けない。
補佐官たちは「奥様がいないと無理です」と次々に辞職した。
そして決定的だったのは、あの香辛料貿易だ。私が止めるのを無視して強行した契約は、やはり詐欺だった。多額の資金を持ち逃げされ、しかも担保にするはずだった鉱山の権利書は手元になく、違約金まで請求された。
エドワード様は借金まみれになり、屋敷も家財も差し押さえられたという。
一年後。
私は商会の用事で、かつての祖国の王都を訪れていた。馬車から降りた私に、みすぼらしい身なりの男が駆け寄ってきた。
髭は伸び放題、服はヨレヨレ。エドワード様だった。
「リ、リディア! リディアだろう!?」
彼は私のドレスの裾に縋り付こうとしたが、護衛に阻まれた。
「探したんだ! 噂を聞いたよ、隣国で成功したって! さすが僕の妻だ!」
「……元妻、ですわ」
私は冷ややかに訂正した。
「やり直そう、リディア! 僕には君が必要なんだ! 君がいなくなって初めてわかった、君がどれだけ優秀で、僕を支えてくれていたか!」
「……」
「愛しているんだ! 今度こそ、君の言うことを聞く! 君を対等なパートナーとして扱うよ! だから……」
必死に訴えるその姿を見ても、私の心は微動だにしなかった。
対等なパートナー?
失ってからでないと、その価値に気づけないような人に、パートナーを名乗る資格はない。
「エドワード様」
私は静かに告げた。
「愛というのは、言葉だけでは伝わらないのです。そして、一度壊れた信頼は、二度と元には戻りません」
「リディア……」
「私は今、とても幸せです。自分の頭で考え、自分の足で歩き、自分の責任で生きている。……誰かの飾り物だった頃より、ずっと息がしやすい」
私は彼から視線を外し、馬車へと戻った。
「さようなら。もう二度と、私の前に現れないでください」
馬車が動き出す。
窓の外で、エドワード様が崩れ落ちるのが見えた。
けれど私は振り返らない。
私の隣には今、新しいビジネスパートナーであり、私を一人の人間として尊重してくれる男性が座っている。
彼は私の手を取り、優しく微笑んだ。
「行こうか、リディア。君の未来は、前にある」
「はい」
私は強く握り返した。
もう、誰かの鳥籠に入ることはない。私は私の人生を、私自身の輝きで彩っていくのだから。
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