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第二話 光を写す少女~心を守る絵~


 小学三年生のある日、母が一枚の鉛筆画を持ってきて私の前にそっと置いた。

果物だったのか、瓶だったのか、それとも机の上にあった日用品だったのか。

細部はもう覚えていない。

ただ、それが“見たものをそのまま写しとるために描かれた絵”であることは、幼い私にもひと目で分かった。


「これは“デッサン”。よく観察して、形や影を描く方法。」


 母はそう説明してくれた。ほんの一言だったのに、胸の奥で何かがカチリと音を立ててはまった。

世界を“見る”という行為が、ただ眺めるだけのことではなく、なにかを読み取るような、まるで暗号を解くような深い意味を持っている――そんな感覚が生まれた。


 家に帰ると、私はすぐに机へ向かった。

ノートを開く手が震えていたことを覚えている。

初めて月を描いた夜もその延長だった。

薄い雲がかかったぼんやりとした光の丸さをどう表現するか。

濃くしてはいけない。

薄くしてもいけない。

その微妙な加減を、ただ何度も何度も確かめながら鉛筆を動かした。


 夕食の豚テキを観察しすぎて、母に「なんでそんなに見てるの」と笑われたこともある。

けれどそのときの私にとって、すべては描くべき対象だった。

食卓の湯気も、父が持つ箸の動きも、こぼれた醤油が作る小さな影さえも――絵にしたいという衝動が止まらなかった。


 ノートはあっという間に黒い線で埋まっていった。

誰に見せるわけでもない。

ただ描きたいから描く。

もっと上手くなりたい。

その気持ちだけが、私の背中を押していた。


 クラスで将来の夢を書く欄があったときも、“画家”と書くまでに迷いはなかった。

ほとんどの子が「ケーキ屋」「警察官」「野球選手」と書いているなかで、画家と書いたのは私だけだったと思う。

それでも不思議と孤独ではなかった。

自分が進む道はこれなのだという静かな自信が胸の奥で灯っていた。


 三年、四年と続けて夏の生活の表紙絵で佳作に選ばれた。

薄い紙の賞状だったけれど、その一枚を手にした瞬間の重みはずっと忘れられない。

「絵を描くことは間違っていない」――そんなふうに背中を押されたように感じた。


 しかし、その光が永遠に続いたわけではなかった。


 高学年になる頃、私は陰湿ないじめに遭うようになった。

理由は今でも分からない。

大人しかったからかもしれない。人より一歩引いた場所で世界を観察する癖が、子どもの集団の中では“浮いて”見えたのかもしれない。


 いじめは、声を荒げた暴力ではなかった。

もっと静かで、もっとじわじわと心に染み込んでくる種類のものだった。

班での無視、名前をもじった替え歌、帰り道でひそひそと背後からついてくる笑い声。

大したことのない出来事が、毎日積み重なって、心をじわじわと削っていった。


 学校に行くのが怖い。

教室に入ると足の裏が冷える気がした。

黒板を見るふりをしながら、誰かの視線やささやきに怯えていた。


 そんな日々の中で、私を救ったのはやっぱり“絵”だった。


 帰宅して机に向かうと、鉛筆を走らせる音だけが小さく響く。

その音に耳を澄ませながら影を追っていると、胸のざわめきが少しずつ静まっていった。

線を一本ずつ研ぎ澄ませると、自分の中に一本の軸が戻ってくるような気がした。

誰に認めてもらえなくても、光と影は嘘をつかない――そのことが、どれほど私を支えてくれたか。


 母にいじめのことを話す勇気はなかった。

「今日は疲れた」とだけ言って部屋にこもり、スケッチブックを開いた。

描き始めると涙がにじむ日もあった。

涙が紙に落ちて意図しない濃淡ができる。

それでも描き終わる頃には、胸の奥にほんの少しだけ“私”が戻ってきていた。


 いじめられていた期間、私は言葉を失っていた。

悔しい、悲しい、怖い――そのすべてを口にできなかった。

声にすると壊れてしまいそうで、息を潜めていた。


 だが、絵だけは違った。


 筆を動かすと、言葉より先に感情が形になっていく。

影の濃さ、線の震え、紙を削る鉛筆の音――そのすべてが、私の心の内部を静かに映し出してくれた。

絵を描く時間だけは、私の世界を誰にも壊されない場所にしてくれた。

まるで“絵が私を守ってくれていた”ような感覚があった。


 そして、もう一つ変化が訪れた。

私は観察する時間が以前よりもっと好きになった。


 学校で辛いことがあった日の帰り道、夕暮れに染まる校庭の砂の色をただ黙って眺めた。

太陽の光が角度によって変わるのを見て、「影にも感情があるんだ」と思った。

泣いた帰り道でさえ、風で揺れる草の影を観察していた。

現実から逃げながらも、世界を“見る”ことだけはやめられなかった。


 その積み重ねが、私の絵を少しずつ変えていった。

光を捉える感覚が研ぎ澄まされ、影を描くときの手が以前より優しくなった。

たぶん、心の痛みが深かった分、世界を見る目が少し柔らかくなったのだと思う。


 そんなある日、図工の先生が私のスケッチブックをふと手に取った。


「この線、いいね。見てるねぇ、ちゃんと。」


 その何気ない一言に、胸の奥がじんと温まった。

私を無視する同級生たちとは違い、誰かが“私の世界”を見てくれた瞬間だったから。


 その頃から私は、少しずつ自分の居場所を取り戻し始めた。

図工室の静けさが心地よく、鉛筆の粉の匂いが安心させてくれた。

放課後、誰もいない教室でひとりスケッチをしている時間が、私にとって小さな避難所だった。


 いじめの時間はつらかった。胸が締めつけられ、息の仕方が分からなくなる日もあった。

でも、その経験がなかったら、私はここまで絵に救われていなかったと思う。

絵はただ上手くなるための技術ではなく、私にとって“心と世界をつなぐ大切な言語”になっていったのだ。


 光を観察する喜びも、影を描く静けさも、あの苦しい時期に育った。

そして気づけば私は、絵を通して心を守りながら、少しずつ大人へと成長していった。

 

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