狂う9
中学生になっても、私は外に出ることができなかった。
お母さんはたくさん泣いた。泣いて泣いて——いつしか絵を描くようになった。
私も一日中部屋にこもっているだけでは嫌なことを思い出す一方なので、一人でいくらでも時間を潰せる絵に没頭した。
お母さんとの苦痛まみれの日々の中で、絵を描いてる時間だけが癒しだった。
お母さんは、私のことが何もわからないし見ようともしないわりに、色々なことをして私が明るさを取り戻せるよう試みた。
食欲のない私にオムライスを作った。無理やり食べさせられそうになったので、咄嗟に床に払い落とした。その日は酷いことをしてしまった自分への嫌悪感に苛まれて、一睡もできなかった。
私の誕生日に赤飯が食卓に並んだ。頑張って口に含んだけれど、次の瞬間に吐き出してしまった。その時のお母さんの幻滅したような目が、頭にこびりついて離れない。
私のために、と可愛い服を買ってきた。そんな可愛い服を着たところで、外に出られないから誰に見せることもできないのに。
素敵な服を通して惨めな自分を思い知らされるようで「そんな服死んでも着ない!」とつい叫んでいた。
そんな毎日の中で、絵を描くことだけが私の救いだった。
絵のおかげで22歳頃、ようやく気持ちが前向きになってきた。
将来のことに目を向けられるようになった。進学、就職のことについてネットで調べるようになった。
このままじゃいけないことはわかっていた。急に何もかも変えることは難しいかもしれないけど、自分の将来のために少しずつでも歩き出さなくては。
まずは外に出られるようにならなくちゃ——。
そんな目標を掲げた瞬間、お母さんが夕食の時に有頂天で「ねえ聞いてよ」と話しかけてきた。
「お母さん、漫画家になれるかもしれないのよ」
お母さんは、SNS上に漫画を投稿していた。
私との日々を描いた漫画を。
『引きこもりの娘と私』
それを読むために持っていたスマホが、テーブルの上に落ちる。
こんなものを描いていたのか。それも何年も。
お母さんのアカウントは、怖くてずっと見れていなかった。
まさか私をここまで堂々と漫画のネタにしていたなんて。
お母さんのフォロワーは、十年前とは比べ物にならないほど増えていた。明らかに漫画の影響だ。こんなにたくさんの人がお母さんの漫画を読んで——。
「出版社からね、打診がきてるの。うちで本にしないかって」
「受けるの? その話」
「もちろん!」
何の躊躇いもなく言い切ったお母さんに、腹の底から怒りがふつふつと湧き上がってくる。
「この漫画の"娘"って私のことだよね? 私のこと、勝手に漫画に描いたんだ」
そう言われると、お母さんは困ったような顔になった。
「だってこんなに人気になると思わなかったんだもん。最初はフォロワーさんに向けて描いてたのに」
自分の意図を超えてバズってしまったことが悪い、とでも言わんばかりだった。
こんなにたくさんの人が見るとは思わなかった。こんなに注目されるとは思わなかった。
小学生の時、お母さんに言われた言葉が蘇る。
——芸能人でもないただの小学生のことなんか、誰も気にしてないって。自分のことを世界中が見てると思うなんて、大した自信ね。
「別に顔写真を公開してるわけじゃないし。ただの絵よ? これを読んだ人が街で姫美を見かけても、あの漫画の子だ! ってわかるわけでもないし別にいいじゃない」
お母さんは、私を納得させたくてしょうがないらしい。これを本にすることはお母さんの中でもう決まっていて、私が何を言ったところで覆すつもりはないんだ。
それでも、私は言わずにはいられなかった。
「全然良くない! 書籍化なんて絶対認めないから!」
本になって書店に並べば、ネットで販売されれば、ますます読者が増えちゃうじゃん!
それからは、お母さんがいかに宥めすかしても、私は決して「うん」とは言わなかった。
これ以上私を晒し者にするなんて許せない。
両者一歩も引かぬ口論の末に、私は立ち上がって部屋に帰ろうとする。
「じゃあ家から出てよ!」
ヒステリックな叫びに、足が止まる。
「就職してよ! 自立してよ! 普通の子と同じように! いい年して家に寄生してるくせに、一丁前にお母さんに逆らわないでよ!」
ずっとそう思ってきたことが、お母さんの口調から伝わってきた。
「お母さんはしんどいの! お父さんも家を出ていって、近所の人たちからも変な目で見られて! 大好きなおしゃべりもできなくなって! 成人式だって……振袖着た姫美と写真撮ること、昔からずっと楽しみにしてたのに、そんなささやかな願いも叶わなくなって! やることと言ったら漫画描くくらいしかなくて!」
お母さんの手が、テーブルの上の食器を全て薙ぎ倒す。家中に響いた大きな音に、本能的な恐怖に支配される。
「これからどうするつもりなの? うちの家だってお金が無限にあるわけじゃないのよ!? 姫美はお母さんがのたれ死んでもいいって言うの!?」
「違——! ………………」
何も言えなかった。
お母さんの願いを叶えられなかった私。
普通に生きれなかった私。
大人になった今も実家から出ることができずに親に寄生している私。
家から出られずに、部屋にこもって絵ばかり描いている私。
私は情けなくて、惨めで、下等で、穀潰しで、食べて寝るだけの無意味な存在。家族すらも泣かせてしまうどうしようもない存在だ。
私がこんなだから、お父さんも家を出ていったんだ。
ごめんなさい。なんの役にも立たないのに生きててごめんなさい。
「泣けば許されると思ってるの?」
お母さんの声が降ってくる。刺々しいその声に全身の血の気が引く。
私を見ないお母さん。
私の苦しみも悲しみも理解できないお母さん。
私よりも不特定多数の賞賛が大切なお母さん。
でも、何もできなくなった私をずっと見捨てないでくれたお母さん。
お母さんに見放されたら、私は本当に終わりだ。一人で生きていく自信なんてない。
「書籍化してそれが人気になればお金になるの。うちだって余裕があるわけじゃないのは姫美もわかるでしょ?」
経済的なことを持ち出されると、私はめっぽう弱かった。
我が家にお金がないのは、私が自立しないせいだから。
"普通の人"みたいに、学校を卒業して就職して一人暮らしできていれば……。
なんでこんなことになったんだろう。
部屋の中で過ごした10年間の重たさがのしかかって、最近好調だった精神が真っ黒く塗りつぶされる。
「お母さんのところになんか生まれなきゃよかった……」
気づけば、そう呟いていた。
次の瞬間、頬を打つ音が鼓膜を破裂させるほど大きく響いた。
「この恩知らず!」
初めてだった。お母さんに殴られたのは生まれて初めてだった。頭が混乱する。嫌になるほど変わり映えのしないリビングが、ぐんにゃり歪んでいく。
「あんたなんか産むんじゃなかった!」
そう言うと、お母さんは家を出ていった。
私は食器やグラスが散乱した床にへたり込んで、呆然としていた。
お母さんが出ていってしまった。
明日から一人で生きていかなくちゃいけないのかな。家の中から出て、怖い他人だらけの中にいきなり放り込まれて、誰にも支えられずに一人で立たなくちゃいけないのかな。
心細さに死にそうになった。
「お母さんごめんなさい……謝るから。漫画だって描いていいから。本にしていいから。だから……だから……」
ワッと床に突っ伏して、土下座のような姿勢で泣き喚く。
「帰ってきて……一人にしないで……」
置いていかないで。戻ってきて。
何度も何度も神様に祈った。
お母さんが帰ってきてくれますように。私を置いてけぼりにしませんように。
お母さんは、一時間くらい経ってから帰ってきた。
「片付けてくれなかったんだ」
床に散乱したままの物たちを一瞥して、お母さんは恨みがましそうに私を見た。
ずっと何してたの? 片付けもせずに。
まだ言っていないその部分が聞こえたような気がして、私は慌てて床を片付け出す。
帰ってきてくれた喜びと安堵に、今度は違う種類の涙が出てくる。
——泣けば許されると思ってるの?
白けたような声が蘇ってきて、眼球に力を入れて意地でも泣くまいと努力する。
「出版社の人に『出します』って返事するからね」
「うん……」
そう返事すると、お母さんは一気に機嫌が良くなり「姫美」と優しい声で私を呼んだ。
「さっきは怒鳴ってごめんね。お母さん、ちょっとカーッとなっちゃった。許してくれる?」
両手を合わせて上目遣いで首を傾げるお母さん。
両目がうるうると濡れていた。
「……うん。もう気にしてないから」
「本当? ごめんね、姫美。本当にごめん」
この話はこれで終わり、というように笑顔になるお母さん。
「あとはお母さんがやってあげるから。姫美は部屋で休んでていいよ」
「ありがとう」
床の掃除をお母さんに任せて、私は2階に上がった。
部屋に入った瞬間、最も安心できる場所——ベッドの上に体を預けた。
「大丈夫……大丈夫大丈夫大丈夫……」
大丈夫だ。あんな漫画、売れるわけない。話題にもならない。
あんな上手くもない絵の二番煎じエッセイ漫画もどきが、ヒットするわけない。誰も買わない。だから大丈夫。
私のことなんて誰も見ないはず——。
神様は私に舌を出した。
『引きこもりの娘と私』は売れに売れて、続巻も出ることになった。
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