平常運転/二年生四月
「はやくん、はやくん」
「どうぞ」
階段を上る足音でとうに気付いていたけれど、襖の向こうから話しかける声に返事をする。
「えへへ……」
先端にわずかに癖のあるミルクティー色の髪を揺らして新学期も絶好調な恋人が……桃香が顔を覗かせる。
「手伝いのほうは、終わったのか?」
「うん」
今日桃香が立っていた店頭はいつもの自宅の青果店ではなく、同じ商店街の旦那さんが検査入院中の生花店。
週末は配達なども立て込むため桃香が手伝いを名乗り出ていた。
「余っちゃったお花もらったんだけど、台所に飾っておいたから後で見てね」
「ん」
何やら家に来た後桃香が母と話しているのが何となく聞こえたことの答え合わせがここで来る。
お隣同士で昔から家族ぐるみというか、やっぱり可愛げのない息子よりかは愛嬌の溢れている桃香のほうを可愛がっている母だった。
「将来の心配は不要だな?」「ですね」等としたり顔でからかってくる悠と彩を頭の中から追い出しているうちにふわりと桃とミルクの香りをさせて桃香が傍までやってきていた。
「座っていい?」
「ああ」
窓際の指定のポジションに桃香用の座布団を敷いて隣に。
それから、ことんと肩のあたりに頭を預けられる。
「お疲れ様」
「そんなに疲れてはないけど、ありがと」
へにゃっと蕩けるような声の後。
「あ、でも」
「ん?」
「やっぱり、こっち」
改めて隼人の膝の間に座り直して、それから両手を回すことを求められる。
さっきまでのは仲の良い幼馴染同士を名乗っていた間も居た距離、今のは想いを確かめ合ってからの触れ合い方。
「充電、足りなくなりそうだし」
「まあ、よく頑張った、ということで」
無論、暖かく柔らかな恋人を抱きしめることは至福なのだけれど切り出し方の上手さと迷いの無さで差を付けられている。
「それに」
「ん?」
「はやくんが何回か来てくれたのはいいけど、その度にぎゅってしたくなったんだよ?」
こちらも飼い主の一人たる隼人より桃香に懐いている疑惑のある愛犬のかぐやを連れての二度の散歩と、あと母から頼まれた夕食用の鮮魚のお使いで計六回可能な限りさり気無く生花店の前を通過していた隼人である。
髪を二つのお下げにして濃い桃色のパーカーにデニムスカート、その上に生花店のエプロンをかけて花を整理する姿は正直少し隠し撮りをしたいくらいだった。
「それは、その……気になる、し」
「えへへ……それは、うれしかったよ?」
上体を完全に隼人に預けるように反らして、軽く頬にくちびるで触れてくる。
「わたしも、はやくんがグラウンドにいるときたくさん見ちゃうからね」
「まあ、見られている気はした」
進級からまだそんなに経っていない時期、新クラスでも窓際最前列の席に座る桃香は五十音順でかなり早いことを有効に活用していた。
「はじめて違うクラスになったけど、これはそうじゃないとできないから新鮮」
「……授業に集中しろ」
「あいたっ」
目の前、僅かに下の旋毛に向かって頭突きする。
「でも」
「うん」
「はやくんと目が合ったこともある、でしょ?」
「……俺は計測の順番待ちだったからいいんだよ」
「あ、ずるい」
ああ、これはよく頬が膨れているだろうな、と確信できる声色にこっそり笑みを零しながら。
「新しいクラスは、どうだ?」
「まったく知らない人ばかりってわけじゃないし、今のところいい感じだよ」
「そっか」
それに、と桃香が付け加える。
「新しく仲良くできそうな子もいるの」
「へぇ……」
後ろから包む形で頷いて、そのまま髪の香りを吸い込んで。
「はやくんのほうは?」
「こっちは桃香より知っている相手が多いし」
「そうだったね」
「……それにそこまで桃香が別クラスって感じ、俺はしてないんだよな」
「えへへ」
その理由に心当たりがありそうな感じに、日に二回は弾んだ声で隼人を訪ねてくる桃香が笑う。
隼人は隼人で昼休み毎に毎朝桃香から預かる包みを持って桃香を迎えに行くのだけれど。
「それに」
「ほえ?」
「去年ほど色々ある新学期はないから大丈夫だろ」
「そうかもね」
笑いながら、顔を見るためか軽く身体を起こして座り直しながら桃香が囁く。
「でも、きっといろんなことがあって、また一年たつ頃にはもっとはやくんのこと好きになっちゃうね」
「ああ、そうさせてもらう」
「わ……強気」
「そうじゃないと釣り合いが取れないからな」
瞬きを一つした後、桃香が少しだけ大人っぽく笑う。
「それって、どういう意味?」
「それは……」
ちょうどいい高さと間合いに来ていた肩を捕まえる。
心得たかのように瞼を閉じた桃香に近付きながら。
「こういうこと、だろ?」
好きだよと囁いて軽く口付けた。