終 燦と卑流児
だれかが肩に薄物をかける感覚に、燦は目を開いた。
読書の途中で居眠りをしていたようだ。目頭を揉んで顔を上げると、ぼやけた視界に人影が映りこんた。
眼裏に銀碧のまなざしがちらつく。
最初の夫の名を口にしかけ、変声期前の幼い声に「おばばさま」と呼ばれてすんでのところで引っこめる。
「こんなところで眠ってしまったら、お風邪を召されますよ」
瞬きをくり返すうちに、心配そうに顔を覗きこんでくる男の子の姿が浮かび上がった。
くしゃくしゃとした砥粉色の癖毛と浅黒い肌、利発そうな銀碧の瞳。自分と最初の夫の特徴をうまい具合に受け継いだ孫息子をとっくりと見つめ、燦は口元に苦笑をのぼらせた。
「ああ――ありがとう、卑流児。汝がこれを?」
肩を包む薄物をつまんでみせると、今年で七つになる卑流児はこくりと頷いた。
「今日は風が強くて、木陰は冷えますから。書なら房の中で読めばよろしいのに」
「口うるさい医女のようなことを言ってくれるな。息抜きはこの亭でと昔から決めているんだ」
燦は長椅子に座り直すと、傍らをぽんと叩いた。
卑流児は恥じらいを隠すように口を引き結び、隣に腰かける。
「珍しいな。那岐女はいっしょではないのか」
双子の弟の名を出すと、卑流児はぐっと眉間に皺を寄せた。
「ナキは母さまのおそばにいます」
「……そうか」
燦は卑流児の頭をそっと撫でた。卑流児は黙って俯いていたが、しばらくするとぴったり身を寄せてきた。
緑陰が風に揺れる。窓のむこうから懐かしい青年がいまにも現れそうな気がした。
最初の夫――蘇芳が亡くなったのは三年前のことだ。
かれとのあいだに長女の蕾を授かったあとも、燦は慣例どおりにほかの夫を迎えて子を生した。蘇芳は燦の選択に何ひとつ口を挟まず、常に分別のある王配として振る舞い、娘を慈しんだ。
十年二十年と重ねてきた治世の中、何度蘇芳の言葉に励まされただろうか。死の床に臥したかれを前にした燦は、途方もない喪失感に打ちのめされた。
蘇芳は最期にひとつだけ望みを口にした。
――私の骸を荼毘に付し、残った灰を故国の海に撒いていただけませんか。
――懐かしいあの国の、あなたがおわす伊玖那見へと続く海に……
燦は蘇芳の望みを叶えた。
蕾の反対を押しきり、かれの故国へ向かう舟に遺灰を託した。以来、蕾はあからさまに母親を忌避するようになった。
長女の現状を考えると、こめかみが鈍く痛んだ。
蕾はこのひと月近く臥せっていた。原因は心の病――舟乗りだった蕾の夫が海に沈んだのだ。
神女としては才能豊かな娘だが、依存心が強く、いちどのめりこむと極端に視野が狭くなる短所がある。童のころは父親の蘇芳にべったりで、婿の風速と出会ってからは頑としてほかに夫を迎えようとしなかった。
かわいい娘には違いないが――世継ぎの器量ではない。
もうひとりの娘、次女の砂羅は異能の強さこそ異父姉に劣るものの、王女としての分別と慧眼を持ち合わせていた。
しかし、一年前に難産の末、産声を上げられなかった赤子とともに夜の食す国へ旅立った。
砂羅は娘の瑤をひとり遺していったが、その子は徒人同然だった。義姉妹たちの血筋にも神女になれるだけの才覚を持つ娘は片手の数ほども生まれず、亡き母王の先視は見事に的中した。
次世代の中で最も優れた浄眼を持って生まれてきたのは、孫息子の片割れである那岐女だ。
生後間もない赤子がようやく開いた両目を見た瞬間、この子こそ己の後継だと燦は確信した。
鮮やかな翠緑に砂金の輝きを宿した瞳は、金色の夕陽に照り輝く伊玖那見の海のようだった。いずれ訪れる苦難の黄昏にこそ偽りの女王として、この国を負って立つ稚神女だと。
ゆえに那岐女という女名を与えた。これも蕾との確執のひとつになってしまったが、燦に後悔はない。
「ねえ……おばばさま。死返しとはなんですか?」
卑流児の問いかけに、はたりと瞬く。
燦は片眉を跳ね上げた。
「どこでその言葉を耳にした?」
一段低くなった祖母の声に卑流児の首が縮こまった。銀碧色のまなざしが忙しなく左右に揺れる。
燦は卑流児の薄い背中を撫でた。
「別に叱ったりはしないさ。婆に教えておくれ」
「……母さまが」
卑流児は訥々と打ち明けた。
「この前お見舞いに伺ったとき、母さまがうわごとのようにくり返していたんです。『死返しを』……って」
「そうか」
頭痛がひどくなった。燦は顔をしかめて首を横に振った。
「死返しとは死人をよみがえらせることだ」
「死人を……?」
「ああ。死を覆し、死人を再び現世へ呼び戻す」
卑流児は両目を瞠ると、ぎゅっと燦の袂を握りしめた。
「死んだ人間を……よみがえらせることができるのですか?」
幼い孫息子の脳裏にだれが浮かんだのか、娘が夢うつつにだれの死返しを望んでいるのか、浄眼で視ずとも手に取るようにわかってしまった。
燦は片頬を歪めて笑った。
「昔々、愛する妻に先立たれた男神が死返しを行おうとした。しかし、妻である女神本人がよみがえりを拒んだ」
「え?」
「女神は、地上に生きるものすべてに課した生と死の理を、理を定めた神が私欲によって破ることはまかりならぬとおおせになった。理を乱せばひずみが生じ、災いとなって跳ね返る。死返しには大きな代償が伴うのだ」
「代償……」
「それは人とて同じこと。たとえよみがえったとしても――その者は望まぬ苦難を強いられる」
片手を卑流児の頬に伸ばす。追慕の念を揺り起こす色彩の双眸を覗きこんだ。
「汝の母にはそれでも取り戻したい者がおるのだろう。万にひとつ、あれが理を破ろうとしたら……吾は女神にお仕えする大神女として罰せなければならぬ」
卑流児が息を呑んだ。
燦は目を伏せた。孫息子たちが生まれたとき、浄眼を通じて太母神は神託を告げた。
双子の弟は次代の稚神女となり、双子の兄は死返しによってよみがえる。
卑流児は若くしていちど死に、再び生を得る。その代償になんらかの欠損が生じ、かれは己の一部を永遠に失ってしまう。
卑流児とはすなわち『蛭子』、不具を表す名だ。長女夫婦には片割れの不足を補う佐けとなるように名付けたと伝えたが、本来はこの子の定めそのものだ。
ただひとり、蘇芳にだけは打ち明けていた。孫息子たちの過酷な宿命を。
燦の苦悩を分かち合ってくれた良人はもういない。長女の心は離れ、次女を喪い、孫たちすらこの手からこぼれ落ちていってしまう。
なんという孤独。それでも、玉座から退くときはいまではない。
「ぼくが」
卑流児が発した声に、燦は目を見開いた。
孫息子はまっすぐ祖母を見据えて訴える。
「そのときは、ぼくが母さまの代わりに罰を受けます。だってぼくは藩王家の長子だもの。ナキのような眼を持っていないけれど、ぼくはナキと瑤の兄さまだから」
「卑流児」
「おばばさま。常夜大君に、どうか罰はぼくにお与えになるようお願いしてください。母さまは……ナキと瑤は見逃してあげて」
いじらしい懇願に、燦は薄く笑んだ。
「汝はやさしい子だな」
そっと抱き寄せると、卑流児は燦の胸にしがみついた。
「まこと、若宮の鑑よ。汝を見ていると異父弟を思いだす」
「大おじさま、ですか?」
「そうだ。十で間諜のお役目に就き、国のためによく働いてくれた。汝が生まれるずいぶん前に……伊玖那見に戻れぬまま命を落とした」
石緑の訃報が届いたのは二十年近く昔のことだ。わずかな遺髪だけが旅女によって国元に帰ってきた。
そして香彌も――遠い七洲で死んだ。
異父妹の忘れ形見は七洲を統べる大皇に嫁ぎ、双子の皇女を産んで儚くなったそうだ。
香彌の孫娘が生まれた夕べ、南の果ての天にひと筋の星が流れた。
燦はすべてを悟った。香彌はついに天命を果たしたのだ。
黄昏色の瞳を受け継いだ娘がいつの日か伊玖那見を訪れる。その傍らには、死からよみがえった卑流児がいるはずだ。
……いいや。立派な若者になったかれは、もはや卑流児ではない。
風に揺れる木洩れ日のむこうに、精悍な体躯を持つ砥粉色の髪の少年を幻視する。かれは小柄な、艷やかな墨色の髪の少女を守るように寄り添っていた。
少年の銀碧の双眸と、少女の燃えるような朱金の双眸が燦を見つめている。
瞬くと、ふたりの姿は波打った光に掻き消えた。
「卑流児や。汝が何より守りたいものは、弟かえ?」
祖母の問いに卑流児は口をつぐんだ。長い沈黙を挟み、こくりと頷く。
燦は両手で卑流児の頬を包みこんだ。
「この婆が受け合おう。汝の望みは果たされる」
卑流児はじっと燦の言葉に耳を傾けている。
ひたむきな瞳は木洩れ日を吸いこんで輝いていた。死してなお消えぬ希望の光を守るために、己は生き永らえたのだ。
卑流児の名はもうひとつ、『日の子』――太陽の子という意味を持つ。
沈んだ太陽が再びのぼるように、卑流児は必ずよみがえる。
月を失っても太陽を得た。その輝きを胸に灯し、燦は生きよう。
この手で回し続けた世界の移ろいを、この眼を閉ざすときまで見届けよう。
「汝は汝のお役目を心して果たせ。どんなにつらくとも、その先にこそ未来がある」
「未来、ですか?」
「ああ。汝の、那岐女の、伊玖那見の――すべての未来だ」
卑流児は口を引き結び、皺と老斑が浮いた燦の両手にてのひらを重ねた。
決意を秘めた表情でにたび頷く。
「ぼくが守ります。だから安心してください」
燦はほほ笑んだ。
「ありがとう、卑流児」
……やがて禁忌を犯した蕾は太母神の怒りに触れ、海に身を投げた。
太母神は罪穢れを祓うため、卑流児を供犠として海に流すよう神託を下した。
卑流児は泣き叫ぶ弟を振り切り、粗末な小舟に乗りこむと嵐の海に旅立った。
嵐が去った夜明け、燦は夢を見た。
生まれたばかりの朝陽に照らされた浜辺を、美しい女に手を引かれて男の子が歩いている。
明けの月のように髪も肌も仄白い女が男の子に話しかける。男の子は銀碧の瞳に茫洋と女を映すばかりで、反応らしい反応を見せない。
女は金橙色の瞳に苦笑を浮かべると、燦へ振り返った。
――この子の心はいちど死んだ。卑流児の記憶は二度と戻らない。
――でも、安心して。この子は新しい名を得て、息を吹き返す。
――わたしの良人によく頼んでおいた。いつか孫娘を連れて伊玖那見へ向かう日まで、しっかり育てるように。
女は男の子をやさしく抱擁する。
女の胸に頬を寄せた男の子は、乳を飲んだ赤子のように満たされた表情で目を閉じた。
――温かいなあ、燦。
――この子の命はおまえとつながっている。懐かしいわたしたちの海の匂いだ。
わたしの燦。ずっと愛しているよ。
真白い朝陽に包まれて、燦は目覚めた。
眦に溜まった涙がこめかみを伝い落ちる。
明けの月の名残を眼裏に留めるように、静かに瞼を閉じた。
「ああ――永遠に、汝が恋しい」