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七 燦と石緑

 王都・翠里(すいり)は、島嶼群で最大の規模を誇る那見大島(なみおおしま)の丘陵部に広がっている。

 螺旋状に張りめぐらされた石塁に沿い、瑠璃瓦の屋根と丹塗りの外壁をした家々が巻き貝のようなモザイク模様を描いている。頂きに聳える王宮からは、翡翠色の浅瀬に舟々が浮かぶ那見(なみ)(みなと)、深い群青に染まった沖つ海まで見晴るかせた。

 内廷を取り囲む石塁の上に立った燦は、風に巻き上げられた髪を片手で押さえた。

 蒼穹にのぼった太陽が海原を銀の鏡のように輝かせていた。波間をゆく舟の帆が潮風を孕み、ちらちらと白く明滅している。

 風の流れを読んだ燦は、片手に携えていたおおごちょうの花を放り投げた。

 真っ赤な花びらは高く舞い上がると水平線に散っていく。まるで蝶の群れが海のむこうへ渡っていくかのよう。

 ――大陸の遙か西方では、死者の魂は蝶になると言い伝えられているそうだ。

 伊玖那見ではそうではないと燦は知っている。先日亡くなった多由良の魂は、とっくに太母神が待つ夜の食す国へと旅立った。

 王女の身分を失った彼女の葬礼は執り行われず、亡骸は粗末な衣一枚で海に投げ捨てられた。幼いころから仕えていた老齢の婢が後追いしたらしい。

 母王の命により、多由良が暮らしていた第舎は取り壊された。人びとは最初からそこに何もなかったように目もくれず行き過ぎ、ようやく埋まった稚神女の位、そして婚約内定の吉報に浮足立っている。

 これは詮のない感傷だ。第一、自分からの手向けの花など多由良は喜ばないだろう。

 異父姉が沈んだ海を見つめていると、思いがけない声に呼ばれた。

「燦ねえさま」

 振り返ると、末弟の石緑が猫のような足取りで石塁を伝ってきた。

 燦はまじまじと石緑を凝視した。

 異父弟は裳を穿き、髪に赤橙色のぶっそうげ(ハイビスカス)の花を挿していた。薄化粧を施しているおかげで少女にしか見えない。

「石緑、その恰好はどうしたんだ」

「似合っていますか?」

「確かに似合っているが……」

 石緑は器用に石塁の上でくるりと回ってみせた。

「第二王子の石緑は、明日から遊学のため不在となります。ぼくは妓女見習いの緑玉(りょくぎょく)として旅女の一座とともに出国します」

「なんだと?」

 困惑する燦に、石緑は太母神の神託により国外の情勢を内偵する間諜の役目をおおせつかったのだと説明した。

「まずは七洲へ渡るつもりです。これからかの国は麻のごとく乱れ、世には怨嗟の声が溢るるに違いないとかかさまはおっしゃっていました」

「……わが国にも余波が及ぶだろうな」

「はい。降りかかる火の粉を払うためにも、内情を探るにはぼくの異能がうってつけですから」

 石緑は暇乞いにやってきたのだ。燦は苦いため息を洩らした。

「汝はまだ童なのに」

「香彌ねえさまにも同じことを言われました」

 聞き飽きたとばかりにうんざりした顔をして、石緑は肩を竦めた。

「童でも、ぼくは藩王家に生まれた巫覡です。妣なる女神がお望みならば、地の果てだろうと行くべきでしょう?」

 それに、と言葉を切り、少年は真鍮色のまなざしを海へ向けた。

「いかなる神託も、生かすも殺すも結局は人次第です。この世を回しているのは生きている人間で、未来を作り、ときに運命を覆すことさえできる。ならぼくも、与えられた異能(ちから)を振るって世界を回したい」

 燦は小さく喉を鳴らした。

「ねえさま?」

「似たような話を蘇芳殿としたんだ。伊玖那見は人の王が治める人の国。どれほど神託を重んじようと最後に決めるのは人の……王となる者の心だと」

 婚約者となった青年の顔を思い浮かべ、燦は瞳を細めた。

 毒の影響で蘇芳は未だに臥せっているが、徐々に回復しつつある。

 異父姉の表情を垣間見た石緑は、面白くなさげに眉をしかめた。

「燦ねえさまは通詞殿を好いておられるのですか?」

「人として好ましく思っているよ。だが、吾も蘇芳殿もお互いに恋情を寄せているわけではない」

 常夏の太陽に照らされた王都を見渡し、燦は石緑に笑いかけた。

「いっとう大切なもの、愛するものはそれぞれ別にある。お互いの心を尊重し、みだりに侵さず、よき夫婦になろうと決めたんだ」

「燦ねえさまのいっとう大切で愛するものとは、香彌ねえさまですか?」

 石緑は探るような口調で尋ねた。

 風がふたりのあいだを吹き抜けていく。燦はそっと睫毛を伏せた。

「――伊玖那見(この国)だ」

 眼下の光景を抱くように両腕を広げる。清々しい寂寥感が燦の胸を満たしていた。

「汝が外の世界で伊玖那見のために働くように、吾は国の中で伊玖那見に尽くそう。この眼で国を見つめ、慈しみ、守り抜こう。神と人をつなぐ巫王として」

 石緑は固く口を引き結んだ。

 かれもまた、かつては香彌が玉座を継ぎ、燦がその治世を支えていくのだと信じる者のひとりだった。ふたりの異父姉がどれほど分かちがたい存在であったか、よくよく知っている。

 だからこそ、燦が選べなかった未来を惜しんでくれているのだ。大神女の香彌と王佐の燦が並び立つ、永遠に訪れぬ栄光の日を。

 ――香彌は国を出ていくのかもしれない。

 自分や石緑に天命を示した太母神が香彌を放っておくだろうか。黄昏の浄眼を持つ、この世で最も闇に通ずる神女を。

 おそらく、香彌は疾うに啓示を受けているのだ。

 もしかしたら時期が早すぎて不確かなものだったのかもしれない。母王もそれを心得ていたからこそ世継ぎを指名せずにいた。

「香彌はどこへ行くのだろうな」

 石緑のまなざしが揺らぐ。どうやら香彌の針路を知っているらしい。

 燦は苦笑した。

「彼奴のことだ、煩わされたくないからと直前までそらとぼけているつもりなのだろうな。勝手……なのは、彼奴も吾も、姉上も同じか」

「燦ねえさまと香彌ねえさまは、多由良ねえさまとは違うでしょう。自分勝手なのは多由良ねえさまです」

 異父弟の口調はいつになく刺々しい。夜の食す国へ旅立つ間際、多由良の魂が異父弟の許を訪れたことはなんとなく感じ取っていたが、そこでどのようなやりとりがあったのだろうか。

 石緑はしばらく押し黙っていたが、重たげに口を開いた。

「多由良ねえさまが亡くなった日、夢でお会いしたんです」

「そうか」

「今際に先視をしたとおっしゃっていました。大神女になられた燦ねえさまのお世継ぎは……浄眼を持つ、王子だと」

 燦は瞬いた。

「なるほど」

「驚かれないのですか?」

「母上の先視で、吾らの後代には神女となれるほどの才覚を持つ女子が大きく減ると知っていたからな。仮初めか中継ぎか――いや、常夜大君に見込まれたのならば、その者は正当な巫王の世子なのだろう」

 多由良はどんな顔で最後の先視について語ったのだろう。だれよりも彼女を苦しめた燦を嘲笑ったのか、あるいは憐れんで嘆いたのか。

 どちらでもかまわない。燦の胸に湧くのは、ただただ多由良の魂が太母神の御許で安らかであるよう祈る気持ちだけだ。

 ――死者は過去となり、生ある者は時を刻み続けなければならない。

「よりよい形で伊玖那見を永らえさせることが稚神女となった吾の務めだ。世継ぎが男子であろうと、それが最善ならば答えは決まっている」

「慣例にないことでもですか?」

「案外、これまでにも男の巫王が立ったことがあるかもしれないぞ。対外的には女王とし、敢えて記録に残さなかったのかもしれない」

 伊玖那見の建国は神代にまで遡る。長い長い王統の系譜を紐解けば、王位の空白を避けるために即位した『女王』がひとりふたり存在したとしてもおかしくはない。

 そして次代に女系王族の娘を据えることで、神女の血を絶やさず引き継いできたのだ。まだ見ぬ燦の世継ぎもまた、そのような『女王』として歴史書に記されるのかもしれない。

「その子は母を恨むだろうな。ただの母として子を慈しんでやれぬ吾を」

 物寂しくほほ笑むと、石緑の表情が曇った。

「なぜ燦ねえさまが稚神女に選ばれたのかわかりました」

「ん?」

「燦ねえさまのお考えがかかさまにいちばん近いのです。情に流されず、国の益となるか否かで物事を見極め、わが子も手駒として見なせる……為政者の才能なのでしょう」

 多由良にも為政者に向いていると言われたことを思いだし、燦は片頬を歪めた。

「あまり嬉しくない才能だな」

 石緑は物言いたげな視線を向けてきたが、結局黙りこんだ。

 燦は異父弟へ向き直って両手を伸ばし、未成熟で華奢な肩に触れた。

「石緑は、吾を不幸だと思うか?」

 少年はふるりと頭を振った。

 燦は頷き、明るい真鍮色の瞳を覗きこんだ。

「吾も不幸だとは思わない。自分で決めた道だから、胸を張って歩いていける」

「はい」

 石緑はくしゃりと笑った。

「ぼくも、そのように生きたいです」

 燦は異父弟を抱き寄せた。石緑の両手が燦の袂を握りしめる。

 次にこの子を抱きしめられるのはいつになるのだろうか。

 異国の地で命を落とし、二度と伊玖那見へ戻ることもないかもしれない。胸が張り裂けそうなほど切なく、だが燦は止めてやれない。

 この国で祈り、この国を守り続ける。

「達者でな」

「ねえさまもお元気で。よき王におなりください」

「ああ――約束する」

 石緑を抱いたまま天を仰ぐ。

 目が眩むほど鮮やかな蒼穹に放りだされるような錯覚を抱いた。茫漠たる世界を矮小な人間の力でどれほど動かせるのだろうか。

 不思議なくらい虞れはない。燦は底光りする双眸で天を見据えた。

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