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六 石緑と多由良

 緑碧玉(ジャスパー)のような深碧の暗闇に、光の珠がいくつも浮かんでいる。

 温かな金色の光はふわふわと漂いながら石緑を暗闇の裡へと誘う。少年の細い脚が深碧を踏むと、金色にきらめく波紋が広がっては消えていった。

 ――ここは夢の中だ。

 石緑が視ている夢ではなく、別のだれかによって視せられている夢だ。最初は母王だろうかと思ったが、どうにも感覚が違う。

 首を傾げながら歩き続けていると、茉莉花の香りが鼻先を掠めた。

 真鍮色の瞳が暗闇を注視する。深碧の紗幕のむこうから人影が近づいてくる。

 青白い素足が深碧を踏み、砂金のような波紋を生みだす。白い上衣と裳を纏った彼女が視界に現れると、石緑はキュッと眉毛を寄せた。

「――多由良ねえさま」

 異父弟に名を呼ばれた多由良は、あえかに笑んだ。

「夢の中にまで押しかけてごめんなさいね」

 鳶色の髪が水草のように揺らめき、青ざめた面が白らかに浮かび上がる。あまりの生気の乏しさに胸騒ぎがした。

 石緑が駆け寄ろうとすると、多由良は片手を伸ばして制止した。

ここ(・・)まで来てはだめよ。あなたまで妣なる女神に呼ばれてしまう」

「ねえさま……」

 呆然と立ち尽くす石緑に、多由良は目を伏せてささやいた。

「わたくしは報いを受けたのよ。いやしくも神女の端くれ、一の姫宮と呼ばれた立場でありながら、私心に振り回されて身を滅ぼした。わたくしは夜の食す国(ネィラエィラ)へ下り、魂に負った罪穢れを祓い清めなければ」

 石緑はうなだれた。

 母王の裁定により、死の床に臥した多由良は医女の診療を受けることも許されなかったという。そして……ついに命の刻限を迎えたのだ。

 眼窩の奥が熱くなり、石緑は眉間に力を込めた。

「このようなお別れはあんまりです」

「そうよね……本当にごめんなさい。あなたにまでつらい思いをさせてしまった」

「ぼくは! ぼくは……、……ぼくより香彌ねえさまのほうが、もっとおつらいはずです」

 多由良の凶行を止めるために異能を振るい、意識を失って倒れ伏した彼女に縋りついた香彌の叫びがよみがえった。

 ――ねえ様の莫迦! どうして……どうしてなの!

「燦ねえさまだって、きっと心を痛めていらっしゃいます」

「……あなたの言うとおり、香彌も燦もやさしい子たちだもの。心から悲しんで、わたくしを憐れんでいるでしょうね」

 多由良の声はどこか冷めていた。

 唖然とする石緑へ、多由良は激痛を堪えているように引き攣った笑みを見せた。

「あなたと玖晏が羨ましい。わたくしも男に生まれたかった」

「男に――ですか?」

「ええ。王子であれば、あなたのように浄眼を持っていても、玖晏のように浄眼を持たなくても、王女でいるよりも苦しまずにいられたと思うの。妹たちを憎まずにいられたはずよ」

 ぎくりと心臓が竦み上がる。

 多由良は烟るようなまなざしを暗闇に投げた。

「いつからかしら……燦のことも香彌のことも嫌いになったのは。昔はとてもかわいくて、大切で、やさしくしてあげたかったのに……いまはもう――」

 ふつりと言葉が途切れた。

 口を引き結んだ多由良は、両手で顔を覆った。

「いちばん嫌いなのはわたくし自身。異能も体も心も脆弱な、そのくせ矜恃だけは捨てられない、浅ましくてみじめなわたくし」

「ねえさま」

「何度この眼を針で突いて潰しまいたいと思ったことか。でも……できなかった」

 病みついて骨張った指のあいだから涙が流れ落ちる。

 水の珠が散るたび、小さな波紋が生じた。

「わたくしにはこれしかなかった。ろくな先視もできない眼だとしても、わたくしがわたくしでいるためには、これしか」

 多由良の両手がだらりと垂れる。泣き濡れた面からは表情が抜け落ちていた。

 虚ろな瞳がスッと石緑に焦点を定めると、多由良はようやく口端を持ち上げた。

「皮肉なものね。肉体から解放されて浄眼を女神にお返しして……とても気が楽になったの。あれほどしがみついていたのが莫迦みたいに」

 多由良の声に晴れやかさはなく、悲哀や苦悩を絞り尽くした末の疲労感が滲んでいた。彼女にとって生きることは苦痛でしかなかったのだと思い知らされ、石緑は言葉を失った。

 ……周囲と同じく、石緑もまた多由良の不幸を見て見ぬふりをしていた。

 彼女が抱いていた、燦や香彌に対する屈折した感情にも気づいていた。仕方がないことだと勝手にあきらめていた。

 そして、多由良を失った。

 こみ上げてきた涙を堪えきれず、石緑は肩を震わせた。

 多由良は困り果てた様子で、声を詰まらせて泣する異父弟を見下ろした。

「言ったでしょう、わたくしは報いを受けたのだと。燦も香彌も、ましてやいちばん幼いあなたは何ひとつ悪くないわ」

「なら……ならどうして、こんなにも胸が痛いのですか? こんなにも悲しいのですか?」

 爪が皮膚を食い破るほど両手を握りしめ、多由良に縋りつきたい衝動を抑えこむ。

 多由良は鳶色の睫毛を伏せた。

「傷ついたあなたの姿を見ることが、わたくしへの罰なのかしら」

 ため息のような声がささやく。

「石緑。あなたの夢を訪ねたのは、蘇芳殿への言伝をお願いしたいからなの」

「通詞殿に、ですか?」

「ええ。『巻きこんでしまってごめんなさい』と。それから……『燦をどうかよろしくお願いします』と、お伝えしてくれないかしら」

 石緑は涙を溜めた目で多由良を睨んだ。

「お断りします」

 腹の底で怒りが渦巻いている。最期の別れにすら想い人の名を出す多由良の身勝手さに辟易した。

「わざわざそんなことのために、ぼくの夢においでになったのですか? 信じられない! お伝えしたいのなら直接会いに行けばいい」

 多由良は静かに佇んでいる。それがますます腹立たしく、石緑は肩を震わせる。

「燦ねえさまと香彌ねえさまには何もないのですか? 詫びの言葉も、別れの言葉も、何ひとつ! それなのに通詞殿には燦ねえさまをよろしく頼むだって? ふざけるのもいい加減にしろ!」

 変声期前の怒鳴り声は虚しく深碧の暗闇に吸いこまれていった。

 石緑は力任せに目元を拭った。

「この夢のことは、生涯ぼくの胸に秘めておきます。燦ねえさまにも香彌ねえさまにも、通詞殿にもお話ししません。恨むのなら、ご自分の身勝手さを恨んでください」

 異父弟に罵られた多由良は――ほほ笑んだ。

 驟雨(スコール)が上がったあとの水溜まりを輝かせる仄かな陽射しのように、手を伸ばしてもすり抜けていってしまう。

「かまわないわ。現し世は生ある者のための中つ国(テューイーラ)。死せる者は去るだけ」

 光の珠がわっと舞い上がった。

 目が眩んで顔を背けると、多由良の気配が少しずつ遠ざかっていく。

「ねえさま!」

 とっさに叫ぶと、多由良の声が「もう恨みも(かな)しさもないの」とささめいた。

「現し世をさすらう潮水(うしお)とともに海の底の夜の食す国、(くら)き妣の国へと還りゆくだけ。その前に、わたくしの最後の先視を残していくわ」

「先視……?」

「ええ。確かに視たの――大神女となった燦の世継ぎ、いずれ稚神女の座を継ぐのは浄眼を持つ王子よ」

 石緑は呆然とした。

 神女になれない男子が世継ぎに選ばれるなどありえない……そのはずだ。

 多由良の声が愉しげに笑う。

「異端の巫女姫、埒外の稚神女。そんなものを戴く伊玖那見は栄えるのかしら、それとも滅びるのかしら。行く末を見届けられないことが残念だわ」

「なんて不吉なことを!」

「すべてはあなたたち次第よ、石緑。生ある者だけが未来を作り、世界を変えていける」

 多由良の言葉にハッと息を呑む。

 気配が暗闇に溶け去る寸前、多由良はこの上なくやさしい声で告げた。


さようなら(ウジャービルヤ)

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