五 燦と蘇芳
大神女の客人として王宮に招かれた異人には、内廷のはずれにある異人宮に専用の房が用意される。異人宮は大陸風の瀟洒な殿舎で、人の出入りが多いせいか常に賑やかだ。
しかし、この日の異人宮は無人のようにひっそりと静まり返っていた。
日ごろは透廊の寝椅子や中庭の木陰でくつろぐ客人たちの姿を見かけるのに、全員揃って房に引きこもっているらしい。行き合う奴や婢の表情も硬く、けして目を合わせないように床に額をこすりつけて燦に道を譲った。
燦はかれらにかまわず、裳裾を蹴立てて蘇芳の房を目指した。
目的の房は日当たりのいい南向きに位置している。房付きの奴の案内で寝所に通されると、蘇芳は寝台の上で医女の診察を受けていた。
「二の姫宮!?」
髪をほどいた寝衣姿の蘇芳は慌てふためき、寝台から下りて平伏しようとした。
「通詞殿、安静の身ということをお忘れなきよう」
「しかし……」
「おやさしい二の姫宮は病人を床に這いつくばらせるような無体は強いたりいたしませぬ」
老齢の医女はぴしゃりと蘇芳をたしなめると、臆さぬ目つきで燦を見遣った。
「姫宮も、よろしいですね?」
「ああ。無理はさせぬと約束する」
童のころから世話になってきた医女には頭が上がらない。燦は苦笑して肩を竦めると、奴が運んできた椅子に腰掛けて蘇芳と向き直った。
「使者も出さず、急に押しかけてすまないな」
「いえ……」
蘇芳は困惑を浮かべつつ、ちらりと医女に視線を向けた。
医女は一礼すると、奴を伴って退室した。
寝間に沈黙が落ちた。中庭から吹きこんでくる風に日避けの窓帷がひらひらと泳いでいる。
「無事でよかった」
燦がぽつりと呟くと、蘇芳は青金色の睫毛をはたたかせた。
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
「いや――謝らねばならぬのは吾のほうだ」
苦い感情が喉を衝き上げる。燦は額を押さえて嘆息した。
「吾が婿にと望んだせいで、汝は毒を盛られる羽目になったのだ。浅慮だった。まさか……姉上が汝に懸想していたとは」
第一王女・多由良による珪蘇芳の殺害未遂が起こったのは三日前のことだ。
先立って、蘇芳は正式に燦の婿がねに決まった。単なる客分として燦以外の王女を訪ねるわけにはいかなくなり、最後にこれまでの礼がしたいという多由良からの招きを受けて彼女の第舎に赴いた。
簡単な挨拶を述べたあと、かつて蘇芳が多由良に贈った茉莉花茶をすすめられた。痺れ薬が入っているとも知らずに飲み干した蘇芳は、椅子に座っていることもままならなくなって昏倒した。
もがき苦しむ蘇芳へ、刀子を手にした多由良が心中を迫った。
――あなたがわたくしのものにならないことは我慢できる。
――でも、わたくしではない女の、稚神女のものになるなんて……耐えられない。
――わたくしは、けして稚神女にはなれないのに。
――いつだって、だれもわたくしを選んではくれない!
異父姉はほろほろと落涙しながら、笑っていたそうだ。
たまたま遠視で多由良の凶行を察知した末弟の石緑と、かれとともにいた香彌が第舎に駆けこんだ。香彌は浄眼による暗示で多由良の意識を奪った。
石緑がすぐに医女を呼んだおかげで、蘇芳は事なきを得た。
一連の騒動は母王の知るところとなり、多由良は第舎に幽閉された。
異能を全開にした香彌の浄眼に晒された多由良は、未だに意識が戻らない。生来病弱な肉体はみるみる衰え、このままでは命が危うい状態だ。
しかし、母王は冷ややかにひと言、「捨て置け」とだけ告げた。
――次期稚神女の夫となる稀人を害する者は、もはやわが娘にあらず。
――治療は不要。死後は王女の身分を剥奪し、骸は埋葬せず海に流せ。
燦が事態を把握したときには、すべてが終わっていた。
香彌と石緑は精神的な消耗がひどいという理由で、当面の面会を禁じられた。
呆然とする燦に、母王は太母神の神託によって彼女が稚神女に選ばれたことを宣告した。
――わが世子は其方だよ、燦。
――なべて常夜大君の御心のまま。よく視て、よく働き、よく尽くせ。
嘘だと叫びたかった。
だが、燦の喉はひゅうひゅうと鳴るばかりだった。力なくうなだれ、拱手で受諾の意思を示すほかなかった。
「姉上は力こそ弱いが、先視の異能をお持ちだった」
「一の姫宮が?」
「ああ。いつかはわからぬが、おそらく視てしまったのだろう。吾が稚神女となり……汝が吾の夫となる未来を」
多由良は稚神女になりたかったのだという事実は衝撃的である一方、どこか得心が行った。
姉である自分を差し置いて稚神女候補に目される異父妹たちを疎んじていたのだ。予定調和で香彌が選ばれていたら、憎々しく思いこそすれど粛然と受け容れていただろう。
しかし、多由良の浄眼が視た未来で稚神女の座に就いたのは燦だった。
夫としてその隣に立つのは、想い人である蘇芳――
「……私にも原因があるかもしれません」
蘇芳が重たげに口を開いた。
「それとなく一の姫宮のお気持ちに気づいておりましたが、何もわからぬふりをしていました。求められない限り、お応えする必要はないかと……」
「もしも姉上が想いを告げていたら、汝はその手を取ったのか?」
尋ねながら愚問だなと思った。蘇芳は断るまい――燦の手を取ったように。
蘇芳の口元に切ない笑みがのぼる。
「取るべきだったのでしょうか。しかし、いまの私は二の姫宮の夫となる身です」
それがすべてだと、蘇芳のまなざしが語っていた。
たらればを論じても過去は覆らず、多由良の凶行で蘇芳が命を落としかけた現実も変わらない。
「二の姫宮。……燦様」
はじめて名を呼ばれて息を呑む。
蘇芳は身を乗りだし、燦の目を見据えた。
「燦様の月は、三の姫宮なのですね?」
「……ああ」
燦は乾いた笑みをこぼした。
「香彌こそが吾の月。闇の女神がしろしめすこの国を照らす、いつくしき吾の女王。そのはずだと……ずっと信じてきた」
「ですが、女神のご意志はあなたに下った」
「なぜだろうな。吾は彼奴の足元にも及ばぬというのに」
蘇芳は言葉を探すようにくちびるを舐めた。
「女神のご意志は確かに重んじねばになりますまい。しかし、最後にお決めになるのはあなたです」
なぜなら、とかれは続けた。
「ここは人の世、人の国にほかなりません。どれほど優れた異能を与えられようと、あなたも所詮は人。だからこそ、あなたの御心こそ尊ばなければ」
「伊玖那見は人の王が治める人の国、か」
「そうです。私は同じ人の、伴侶となる燦様の御心にこそ添いたい」
燦は絶句した。
蘇芳の目は、燦がいかなる選択をしようと――太母神の神託に背いて稚神女の座を放棄したとしても肯定すると訴えていた。
かれは正しく稀人だった。
伊玖那見の埒の外に在り、そこから燦に手を差しのべてくれる。王女の定め、神女の定めに雁字搦めになった燦に思いもよらぬ可能性も指し示してくれる、稀なるひと。
「ありがとう、蘇芳殿」
燦は吐息のような声を洩らした。
「そのような戯言を言ってくれたのは汝だけだ」
「戯言、ですか」
「うん。いっとうやさしく、夢のような戯言だ」
ほほ笑んで見つめ返すと、蘇芳は苦しげに眉をひそめた。
「戯言のつもりではありません」
「ああ。汝の言葉のおかげで、己が何者であるのか思いだせた。吾は伊玖那見の王女、常夜大君にお仕え申し上げる神女だ」
胸に手を置き、燦は目を伏せた。
香彌を愛おしく思う心に変わりはない。彼女が燦の女王となる日を待ち焦がれてきた。
しかし、幼い夢と引き替えに伊玖那見のすべてを裏切れるほど、燦は自由に生きられない。
まさしく身を引き裂かれたようだ。現実に打ちのめされて泣き喚く燦がいる一方、母王のごとく冷徹に世の移ろいを見定めんとする燦がいる。
眼裏に焼きついた香彌の笑顔が眩い光に掻き消され、やがてこの両眼で見続けてきた伊玖那見の情景が浮かぶ。
月琴の指運びのように血肉に染みついた故国への思慕を、いかにして捨てられようか。
「それ以外の道を選べば悔いしか残るまい。吾が守るべきものは香彌個人ではなく、この国なのだ」
「……燦様は、私の兄に似ておられます」
「汝の兄君に?」
蘇芳は力を抜いた笑顔で頷いた。
「堅苦しいほど生真面目で、課せられた枠組みどおりに生きようとする。枠の外へ出ていくこともできるのに、愚直に己が役目を全うしようとする……そんな兄を、私はだれより尊敬していました」
おもむろに蘇芳の手が伸ばされた。
砥粉色の髪を払い除け、蛍石のように仄光る目のふちをそっとたどる。
「燦様がよろしいのでしたら、私は何も申しません」
「汝こそよいのか。稚神女の夫になるということは、この先も厄介事に巻きこまれ続けるぞ」
蘇芳はきっぱりと断言した。
「かまいません。覚悟もなくあなたの御手を取ったわけではないのですから」
燦は泣きたくなった。稚神女として、いずれ大神女として、できる限りこの良人を守りたいと思った。
蘇芳の手にてのひらを重ねる。
窓帷を透かして射しこむ光に包まれて、青年はくすぐったそうに破顔した。




