四 石緑と香彌
石緑が水盤を覗きこむと、中性的な容姿の少年が真鍮色の瞳でまじまじと見つめてきた。
頭を斜めに傾ぐと、肩の上で切り揃えた同色の髪が椰子の実色の頬をくすぐる。飛び抜けた美しさは持ち合わせていないが、ふっさりとした睫毛にふちどられた両目や珊瑚色の小さめなくちびるには愛嬌があると思う。
まだ喉仏の目立たない細い首。華やかな女装束を着て化粧をすれば、じゅうぶん妓女見習いの少女として通じるだろう。
掻き上げた髪を耳にかけ、水盤に浮かんでいたありあけかずらの花を挿してみる。
左右を確かめてうんうん頷いていると、水面に映る自分の後ろに影が差した。
「……何をしている」
「香彌ねえさま」
振り返ると、三番目の異父姉が呆れ顔で立っていた。
「また王子宮を脱けだしてきたの? おまえももう十だろう。そろそろ慎みを持たないと、女官たちに閉じこめられるぞ」
「今日はかかさまに呼ばれたので、大丈夫ですよ」
にっこり笑ってみせると、香彌は小さく鼻を鳴らした。そのまま立ち去るかと思えば、近くの柱に寄りかかって腕を組む。
ふたりがいるのは母王の御座所である正殿と奥殿をつなぐ透廊だ。透廊の端には陶製の水盤が置かれ、鮮やかな黄色のありあけかずらが飾られている。
水盤の前にしゃがみこんだ石緑は、両膝を揃えて抱え直した。
「ねえさまも、かかさまに呼ばれたのですか?」
「……うん」
香彌にしては歯切れの悪い返事だった。白銅色の髪に取り巻かれた美貌は物憂い表情を浮かべている。
石緑は水盤に指先を伸ばした。常夏の陽射しをたっぷり吸いこんだ水は温い。
浸した指で水面を揺らすと、自分の顔がぐにゃりと歪んで違う像を結んだ。
樹々の緑に覆われた亭で和やかに談笑する男女。砥粉色の髪の少女は二番目の異父姉である燦、珍しい青金色の髪の青年は見知らぬ異人だ。
大陸風の官服から察するに、数多いる母王の食客のひとりだろう。人が好さそうな顔をしているが、銀碧の双眸は凪の海のように掴みどころがない。
青年と向かい合う燦は、彼女の得意な月琴を奏でていた。
母王や自分たちきょうだい――家族にしか聞かせなかった音色を赤の他人に披露している。その意味するところに、石緑はくちびるを引き結んだ。
「盗み見はやめろ」
香彌が短く吐き捨てる。水面の鏡像がふっと掻き消えた。
「あれが燦ねえさまの見合い相手ですか?」
「……そう。璃摩から来た通詞」
香彌の面には苛立ちが滲んでいた。組んだ腕にきつく爪を立てている。
「よろしいのですか? 香彌ねえさま」
「何が」
「遠からず、燦ねえさまはあの男を夫に迎えますよ。華燭を挙げたら、燦ねえさまを外へ連れだすことは難しくなります」
燃え上がる黄昏の天に似た金橙色の瞳が石緑を射抜く。
「燦の天命は国の外にはない」
「まだ決まっていないのでしょう?」
異父弟の問いに、香彌は力なく頭を振った。
「常夜大君が定めたからこそ、かか様は燦に子を生ませようとしているんだ」
あきらめと嘆きがこもった答えに思わず口をつぐんだ。石緑の肩にずしりと現実がのしかかる。
濡れた指先から水滴が落ちて水面を叩く。真鍮色の浄眼を凝らしても、石緑には未来が視えない。
直系王族には時折、常夜大君――太母神の恩寵たる金色を瞳に戴いた男子が生まれてくる。神女にはなれないが、成人して臣籍に下り、祭祀を司る祝官や占いに特化した卜占官として仕官する場合が多い。
石緑は遠視――離れた場所で起きている出来事を視ることに長けていた。水を介せばより遠くまで感知できるが、それだけだ。
稚神女候補に目される異父姉たちの足元にも及ばない。しかし、男に生まれたからこそ自分にはしがらみがない。
――最も強く貴い浄眼を授かった香彌は、両目を抉り取ってしまいたいと石緑にこぼしたことがある。
神女の定めが憎い、と。
「香彌ねえさまは、燦ねえさまといっしょに遠くへ行きたいと望んでいらしたのではないですか?」
「国が嫌いなわけではない。わたしは大人になりたくなかっただけだ」
香彌は俯いた。白銅色の髪が帳となって横顔を覆い隠す。
「ただの香彌でいたかった。ただの燦の隣で、いつまでも童のまま……」
香彌と燦はまるで比翼の鳥のようだ。
互いに片翼と思い合い、肩を並べて歩くふたりの姿はだれが見ても当たり前で、輝かしい未来の予感に胸が躍る。
以前は石緑も周囲と同じく香彌が世継ぎとなり、燦が王佐の神女としてその治世を支えていくのだろうと思っていた。
だがここ半年あたり、香彌が張り裂けそうなまなざしを密かに燦へ向けていることに気づいた。
――どうしてそのように哀しげなお顔をされるのですか?
あるとき何気なく尋ねると、香彌は瞠目して固まり、ぽろりと涙をこぼした。
予想外の反応に狼狽する異父弟に、彼女は弱々しい声で打ち明けた。
――夢を視た。わたしの天命と、燦の天命を。
――まだ不確かな未来だ。でも、わたしの視た夢が現になるとしたら……燦と離ればなれになってしまう。
――どうすれば夢を夢のままで終わらせらる? いっそ神女の定めを投げだしてしまえば虞れる必要がなくなるのか……
夢視の内容を事細かく口にすれば現に近づいてしまう。だから石緑は何も質問できなかった。
少しでも香彌の夢視が外れるように願いながら今日まで来た。
嗚呼、けれど――
「わたしの天命は、伊玖那見にはない」
いままでけして言葉にしなかった夢視の結果を、香彌は断言した。
金橙色の瞳が持ち上がり、ここではないどこかへ向けられる。
石緑は唾を飲んだ。
「それは……」
「次の稚神女はわたしではなく、燦だ。そして、玉座を継いだあいつの傍らにわたしの居場所は存在しない」
ざあッと風が透廊を吹き抜けていく。
水盤の水面が波立ち、花々が荒海に揉まれる小舟のように右往左往する。石緑は水中に傾きかけた花を掬い上げた。
「かかさまのお話は……常夜大君のご神託だったのですね」
「そうだ。常夜大君は稚神女に燦を指名し、わたしがかつて視た夢が現になるとおおせられた」
「それはどのような夢なのですか?」
香彌は石緑へ振り向いた。金橙色の瞳が帝王玉のごとく燦く。
「天から燃え落ちた星を孕む夢だ」
「星?」
「わたしは父祖の縁をたどって七洲へ渡る。その地で子を儲けて神女の血を残す。子か孫か、何世代後かは定かではないが……いつかわたしの目を受け継いだ娘が生まれてくる」
その娘こそ香彌が孕んだ星の化身、闇の女神の先触れたる乙女なのだという。
「乙女は常夜大君の導きにより、真に神代を終わらせるための旅に出る」
「神代を――終わらせる?」
「ああ。疾うに終わっているはずの神代はいまも続いている。呪いのように」
太母神は呪いを断ち切ることを望んでいる。その宿願を果たさなければ、途方もない災禍が起こるのだと香彌は語った。
石緑は唖然として異父姉の話を聞いていた。異父弟の表情に、香彌は片頬を歪めて笑った。
「より具体的な内容を口にすると災禍の影を呼んでしまうかもしれない。わたしの天命に、おまえを巻き添えにするわけにはいかないからな」
「……ぼくの天命も、伊玖那見にはありませんよ?」
石緑は先刻母王から承った『頼まれ事』について説明した。
「卜占官長の占で、七洲でも大陸でもよからぬことが起こりつつあるという結果が出たそうです。かかさまが常夜大君にお伺いしたところ、遠視の得意なぼくを間諜として国の外へ遣わすようにというお答えがあったと」
「おまえが間諜?」
「はい。妓女見習いに扮し、旅女の一座に紛れて出国する手筈になっています」
香彌は何か言いかけ、中途半端に開いた口を結んだ。金橙色の双眸が石緑を注視し、そっと伏せられる。
先視で石緑の行く末を確かめたのだろう。少しでも穏便な旅だとよいのだが。
「まだ童のくせに」
「童だからこそおなごに化けられますし、他国の者にも怪しまれずに済みます。ぼくは幻術はからきしですから、成人を待っていては女装が難しくなってしまいます」
母王からは数年かけて諸国を探って来るよう言いつかっている。帰郷できるのは五年後か、十年後か。
「それでいいのか、石緑」
石緑は掬い上げた花から水気を払い、先ほどとは反対側の耳の上に飾った。
「ぼくも伊玖那見の巫覡の端くれですから、妣なる女神の思し召しとあれば従いますよ。それに、窮屈な王宮暮らしより密命を帯びた諸国放浪のほうがわくわくするでしょう?」
にんまり笑ってみせると、香彌はため息を洩らした。
「わたしもともに行く」
「え?」
「どうせ旅女は七洲も回るんだ。慣れないひとり旅より、事情を知る一座と行動したほうが心強い」
それに、と呟いて香彌はようやく屈託のない笑顔を覗かせた。
「おまえが羽を伸ばしすぎて厄介事に嘴を挟まないよう、見張る必要がありそうだ」
「……そんなあ」
異父姉の表情に、石緑の肩から強張りが解けた。
もしかしたら母王は最初から姉弟をまとめて旅女たちに託すつもりだったのかもしれない。だとしても、香彌自身から同行を申しでてくれたことは思いのほか嬉しかった。
――七洲にたどり着いたら、おそらく今生の別れになる。
途端に胸を締めつけられた。
七洲まで同行できる自分には心の整理をつける猶予がある。稚神女に選ばれた燦は国を離れるわけにはいかない。
「香彌ねえさま。燦ねえさまにこのことは―――」
「わたしから伝えるとかか様に申し上げた。出国の日が決まったら、話す」
「もっと早くお伝えしなくてよいのですか?」
香彌は形のよいくちびるでいびつな笑みを作った。
「忘れたふりをしていたい。あと少しだけ……いつもどおりのわたしたちでいたいんだ」
石緑は何も言えず、手元の水盤に視線を逃がした。
風が吹くたびに水面がさざめき、花の小舟が滑る。
ふと鏡像が乱れ、違う場所の光景が形を結ぶ。
浮かび上がったものを確かめた石緑は息を呑み、気色ばんで香彌を呼んだ。
「ねっ……ねえさま!」
香彌が怪訝そうに水盤へ近づく。
金橙色のまなざしが水面に向かうと、一瞬で凍りついた。
彼女の様子に、石緑は水盤に映しだされた光景が幻ではないと理解した。虚脱感に襲われ、その場にへたりこむ。
「愚か者め」
怒気のこもった罵倒を吐き捨て、香彌は足早に踵を返した。ほっそりとした白い脚を飾る金環がけたたましく鳴り響き、まっすぐ奥殿を目指す。
長姉の多由良の第舎へ向かったのだ。自分もついていかなければ。
力が入らない膝を叱咤し、なんとか立ち上がる。髪に挿した花をむしり取った。
ちぎられた花びらが透廊に落ちた。風に吹き散らされ、やがて跡形もなくなった。