三 燦と多由良
燦は数週間ぶりに異母姉の多由良を見舞った。
鳶色の髪と象牙色の肌、あっさりとした顔立ちの姉宮は父親の血が濃く出たのか、隣国の七洲人に近い風貌をしている。垂れ目がちな双眸は鼈甲に似た金菊色で、神女の異能を持っていることを示してるものの傍系の義姉妹たちよりも視る力は弱い。
幼いころは多由良も同じ宮で起居し、ともに神女の鍛錬に励んでいた。長じるにつれて病がちになると、母王の計らいで奥殿の片隅に建つ小さな第舎を与えられ、そこで暮らすようになった。
第舎には主人が好む茉莉花の香油の匂いが常に立ちこめている。今日はひと際強く鼻腔を刺激し、燦は眉をひそめた。
鼻が利く香彌ならばあからさまなしかめっ面で、最低限のご機嫌伺いを済ませて一目散に立ち去るに違いない。
――もっとも、彼奴が姉上の第舎を訪うことなどないに等しいが……
異母姉と異母妹は仲睦まじいとは言いがたい。
相性が悪いのか、多由良は二番目の妹に対してよそよそしく、香彌も長姉には冷淡な態度で接するのだ。
ふたりとも燦や兄弟とは問題なく交流している。おかげで異父きょうだい全員が揃うと、必ず燦が姉妹の仲介をせねばならない。
案内役の老齢の婢を追いかけながら、燦は密かにため息を噛み潰した。
「姉上、燦にございます。お体の加減はいかがですか?」
多由良の居室に足を踏み入れると、茉莉花の香りがむっと濃くなった。
思わずむせこみそうになり、すんでのところで堪えて咳払いでごまかす。
日避けの窓帷が下ろされた室内はぼんやりと仄暗い。多由良は窓辺に置かれた寝椅子にしどけなく凭れかかり、窓帷の隙間から射す光の帯を凝視していた。
「姉上?」
近づいて再度声をかけると、思いだしたように瞬いて振り向いた。
「ああ……燦、来てくれたのね。ごめんなさい、考えごとをしていて気がつかなかったわ」
多由良は笑みを浮かべて起き上がった。ゆるやかにうねる巻き毛が痩身を覆い隠すように流れ落ちる。
燦は手招きに応じて多由良の隣に腰を下ろした。
「またお痩せになられましたか? お顔が小さくなったような気がします」
「そうかしら……? ここしばらく暑い日が続いていたから、あまり食事が進まなくて……」
儚くほほ笑む異母姉の手をそっと取ると、十七の娘盛りとは思えぬほど筋張って皮膚ががさついていた。痛ましさを覚え、細い骨が浮いた手の甲を撫でさする。
「母上にお願いして、喉通りのよい果物などを多く用意していただきましょう。医女が煎じた薬は飲めていますか?」
「ふふっ……燦は昔から心配性ね。ありがとう、薬はちゃんと飲んでいるわ」
多由良はやんわりと燦の手を押し返した。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
婢が茶器の載った盆をしずしずと運んできた。
「ありがとう」
寝椅子の前の小卓に玻璃の茶壺と茶碗、湯入りの土瓶を並べると一礼して退室する。
茶壺の中には木の実のようなものがひとつ、ころんと転がっていた。よく見ると、植物の葉や根小さく丸めた毬とわかった。
立ち上がった多由良は茶壺へ土瓶の湯をゆっくりと注いだ。
「珍しいお茶をいただいたのよ」
湯に沈んだ毬がふわりとほどける。細い葉が広がり、茎が伸び、白い花が開いた。
燦は両目を丸くした。
「これは――大陸の工芸茶ですか?」
「ええ。よい香りでしょう? 茉莉花のお茶なのですって」
多由良は蒸らした茉莉花茶を茶碗に淹れ、にこにこと差しだした。
……正直、香油の匂いに紛れてしまい、せっかくの香りもほとんどわからなかったが、燦は「まことですね」と笑顔で受け取った。
「香りや味わいだけでなく、目でも楽しめるとはすばらしいですね。どなたからの贈り物ですか?」
「蘇芳殿よ。わたくしが茉莉花の香りが好きだと話したら、わざわざ大陸渡りの商人から取り寄せてくださったの」
多由良は自分の茶碗を手に座り直し、うっとりと香りを堪能している。
「もう蘇芳殿にお会いした? 母様から見合いを命じられたと聞いたわよ」
「はい。先日、顔合わせを。とても教養のある御仁ですね。大陸の文学にもお詳しく、興味深いお話を聞くことができました」
燦の言葉に、多由良は一瞬動きを止めた。
金菊色の瞳が弧を描く。
「蘇芳殿を気に入った?」
燦は小さく唸った。
「……夫として迎えるならば、悪い御仁ではないと思いました。野心どころか地位や権力に興味がない様子で、吾は稚神女にならない身だと告げてもいっこうにかまわないと」
「母様は、まだ世継ぎを指名していないわよ?」
「香彌以上に次代の大神女にふさわしい者はおらぬでしょう。それに、吾は彼奴と稚神女の座を争うつもりは微塵もありません」
「わたくしからすれば、あなたもじゅうぶん稚神女に足る力を持っているわ」
多由良の声にひやりとしたものがまじる。
「香彌は確かに異能はずば抜けているけれど、まだまだ童じみたところがあるでしょう。気ままで、気に入らないことがあるとすぐ臍を曲げるし……その点、燦は思慮も慈悲も深いから、為政者に向いていると思うのよ」
燦は苦笑して頭を振った。
「姉上は吾を買い被りすぎですよ。それに、香彌も齢を重ねれば相応に落ち着くでしょう。即位は遅くなるかもしれませんが、幸い母上はお元気でいらっしゃいますし――」
コン、と硬い音が響いた。
茶碗を卓上に置いた多由良は、口元から笑みを消して燦は睨めつけた。
「傲慢な振る舞いは控えなさい、燦」
「……傲慢とは?」
「稚神女を決めるのは大神女である母様よ。母様が明言されないうちから香彌が次の稚神女だと吹聴するのは、母様を軽んじる行いではなくて?」
異母姉の指摘に口をつぐむ。多由良は大仰にため息をついた。
「わたくしは神女としては劣っているけれど、一の姫宮と呼ばれる娘としての自負はあるわ。だから言わせてけれど、あなたの欠点は自分を卑下してまで過剰に香彌を引き立てるところよ」
「吾は別に卑下してなど……」
「端から見ていて気分が悪くなるの。まだ香彌のほうが、自分こそが次の稚神女だと口にしないだけわきまえているわ」
多由良が香彌を褒めるなど相当だ。燦は俯いて「申し訳ありません」と呟いた。
「母上を軽んじる意図など、まったくなかったのです。ただ――吾は単純に、香彌こそが選ばれるのだろうとばかり……」
「……確かに、あの子が稚神女になると思っている者が多いのは事実。でも、ほかならぬ王女であり稚神女候補であるあなたが決定事項のように言いふらすのはよくないわね」
「はい……」
悄然と頷くと、多由良の空気が和らいだ。
「あなたに縁談が持ちこまれたのだから、そろそろ母様もはっきりされる頃合いでしょう。正式に決定するまで、もう少し言動を控えるのよ?」
そろりと顔を上げると、異母姉はやさしく笑いかけてきた。
同じ宮で暮らしていた幼少期、香彌と喧嘩をするとこんな顔で穏やかにたしなめられたものだ。あのころは香彌も多由良に懐いていて、燦と揃って「ねえさま、ごめんなさい」と素直に謝ることができた。
いつからふたりは互いに遠ざかってしまったのだろうか。
いいや――大人になればなるほど多由良は燦に対しても距離を取り、彼女が引いた一線を踏むことを許してくれなくなっていった。
妹たちとの異能の差が明らかとなり、健康面でも問題が生じた多由良は、周囲から腫れ物のように扱われた。それは多由良の疵となり、いまでは深い溝と化して姉妹間に横たわっている。
「姉上」
焦燥に駆られて呼びかけると、多由良は不思議そうに首を傾げた。
「もう怒っていないわよ?」
「それは……よかったです」
新しく茶を淹れ直しながら、多由良はくすくすと喉を鳴らした。
「それにしても意外だったわ。燦が縁談に前向きだなんて」
燦は両目を伏せて茶碗のふちをいじった。
「少しでも早く、ひとりでも多く子を生すことが吾の役割だと思ったのです」
「まあ。香彌が癇癪を起こしそうな台詞」
「当たりです……」
多由良は小卓に頬杖をつき、金菊色の瞳で燦の顔を覗きこんだ。
「わたくしや香彌のために、望まない縁談を引き受ける必要はないのよ?」
「ですが、だれか選ばなければ母上はお許しくださらないでしょう。その点、蘇芳殿ならば合理的で理想的な結婚生活を送れると感じました」
「愛がなくてもかまわないと?」
「ええ。蘇芳殿はお国に大切な方を残されてきたそうです。その方以上に愛されることも、愛する必要もないと最初から割り切っているから、気楽でいい」
燦はへらりと笑った。
多由良は眉宇を曇らせ、そっと嘆息した。
「あなたはやさしいのに、不器用な子ね」
異母姉の声は憐れんでいるようにも、詰っているようにも聞こえた。
燦は茶碗に残った茉莉花茶を飲み干した。
冷めた茶はひどく苦かった。