二 燦と蘇芳
亭の窓辺で緑陰が揺れている。
禁中である内郭の外れ、庭園の樹々に埋もれるようにぽつんと建つ大陸風の亭は、読書や午睡をするにはもってこいの場所だ。天がよく晴れた日には書物と敷布を持ちこんで暇を潰す。
昼餉を済ませた燦は、備え付けの長椅子に敷布を引いて行儀悪く寝転んだ。
簡書を開き、栞を挟んでおいた項目から読みはじめる。今日の午後は予定がなくなったので、分厚い簡書も存分に読み進められそうだ。
香彌は母王から呼びだしを受けて不在だ。客人に得意の舞を披露するように頼まれたらしい。
伊玖那見は呪術と同様に歌舞音曲が盛んな国だ。国祖である双子の女神はそれぞれ芸能と巫術を司り、巫覡や呪師のみならず才に恵まれた芸能者が数多い。
特に諸国を巡業する旅回りの女芸能者たちは旅女と呼ばれ、他国の情報を国元へ持ち帰る間諜のような役割を担っていた。
伊玖那見は海上交易の要所として栄えてきた歴史を持つ。
北西には幾多の国が勃興と滅亡をくり返す龍骸大陸、北東には広大な島国・七洲。南洋には息吹の海と呼ばれる多島海が広がっている。
海を隔てているとはいえ、この国は常に大陸の列強や七洲の脅威に晒されている。ゆえに伊玖那見は藩王国と自称し、恭順と友好を示す外交戦略によって独立を保ってきた。
異国の貴人を王宮に招いてもてなす慣習もその一環だ。王女でなければ当世随一の舞手として名を馳せたに違いないと舞踊の教師に称賛された香彌の舞は、母王のとっておきである。
あいにく燦は舞も歌も不得手で、かろうじて大陸渡りの月琴を爪弾ける程度だ。しかし市井で好まれる月琴は、宮中での迎賓には不向き楽器である。
という訳で、客人をもてなす場に燦が呼ばれることはまずない。なぜか香彌は不服らしく、舞を終えて宮に戻ってくると必ずと言っていいほど機嫌が悪い。
異父妹の機嫌を直すために今夜は何曲弾かせられるのだろうかと考えていると、不意に窓の外が翳った。
緑の窓帷の下、木洩れ日を弾いて金糸の束が光る。上背のある人物の肩を流れ落ちる頭髪だ。
燦は眉をひそめ、敷布から起き上がった。
「何者ぞ」
鋭い誰何に窓の外の人物が身動ぐ。亭の戸口の前へ進みでると、跪いて頭を垂らした。
「突然のご無礼をお許しください」
穏やかだが張りのある声が流暢な伊玖那見語で告げた。端々に大陸訛りがある。
「龍爪半島の璃摩国より参りました、通詞の珪蘇芳と申します。こたび、二の姫宮に貢物を献上したく参じました」
燦はひとつ瞬いた。母王が差し向けた見合い相手だ。
「面を上げることを許す。近う」
「失礼いたします」
蘇芳と名乗った男は顔を伏せたまま亭の中へいざった。
近くに来ると、逞しい長躯の持ち主だとよくわかった。こざっぱりとした大陸風の官服を纏い、青金のような緑色を帯びた金髪を一本に編んで垂らしている。
蘇芳の頭がゆるりと持ち上がった。
二十代前半だろうか。面長の貌は、伊玖那見人ほど浅黒くはないが日に焼けて精悍な印象だ。
やさしげな線を描く眉と口元が声音どおりの温厚さを加味している。
燦の視線が男の双眸に吸い寄せられた。
銀碧――明度の高い青緑に、銀色の光沢が波飛沫のように散じている。夏の海原の色だ。
童のころ、浜辺に打ち上げられた玻璃の破片を思いだした。波に洗われて角が丸くなった玻璃片は透明な翡翠玉のようで、なんとも美しかった。
蘇芳の視線が簡書に留まった。
「董和国の詩歌集にございますね。私は鄭岑という詩人の、四季の月を詠んだ詩が好きです」
「……さて。伊玖那見は常夏の国ゆえ、吾は夏の夜の海を照らす月しか知らん」
燦の返答に蘇芳はほほ笑み、大陸東方語で詩の一節を吟じた。
「『月汀に立ちて孤独を知り、いまは遠いあなたがなお恋しい』――伊玖那見の月を見上げると故国が懐かしく、夏海の月を詠んだ鄭岑も斯様な心中だったのだろうかと思いを馳せてしまいます」
「然様に生国が恋しいのならば、長逗留はせぬほうがよいのではないか? 貢物を受け取る代わりに舟を用意してやろう」
蘇芳の表情に苦笑いがまじる。
「お恥ずかしながら、帰る家のない身の上なのです」
「ふうん?」
「私には腹違いの兄がいるのですが……幼きころより庶子の私を疎んじ、跡目の立場を奪うのではないかと常に疑われてまいりました。そのようなつもりは更々ないと幾度も訴え、少しでも認めてもらいたいと勉学に励みましたが――」
瞬きの狭間、神女の浄眼が蘇芳の過去を捉えた。
暗い小房の中、真白く浮かび上がる窓辺に男が佇んでいる。
そのひとの背中は固く閉ざされた岩戸のように自分を拒絶し、どんなに呼びかけても振り向いてはくれない。
――哥々……
伸ばしかけた手が宙を彷徨う。
影に塗り潰された男が乾いた声で吐き捨てた。
――呼ぶな。
――俺を呼んでくれるな。
――出ていけ。俺がおまえを殺す前に。
――金ならいくらでもやろう。好きなところへ行って、好きに生きろ。二度と戻るな。
――俺の手の届かないところまで、逃げおおせろ。
男の両手は拳を作り、小さく震えていた。
かすかな金臭さ。握りこんだ指のあいだから血が滴り落ちる。
――俺に、弟を殺させるな。
泡沫が弾けるように幻影が消えた。
蘇芳は過去視に気づいた様子もなく、淡々と言葉を続けた。
「兄が跡目を継いで間もなく、遊学という名目で勘当されました。最初は途方に暮れましたが、せっかくならば見聞を広めようと思い立ち、通詞として生計を立てながら諸国を旅してまいりました」
「……そして、わが国へ?」
「はい。雇い主の供をして参内した折、大神女直々にお声をかけていただきました。姫宮方に異国の話を聞かせて差し上げるようにとのおおせで」
詳しく聞くと、当初は姉の多由良の話し相手を務めていたそうだ。
病弱で引きこもりがちな異母姉の無聊を慰めた功を買われ、燦の婿がねとして白羽の矢が立った。
「一の姫宮から、二の姫宮はなかなかの読書家と伺いまして。でしたら、ぜひこの品を献上したいと……」
蘇芳が懐から折りたたまれた絹布を取りだした。手の上に置いた絹布を丁寧に広げる。
燦は思わず「ほう」と声を洩らした。
絹布の中身は幅広の紐のような三本の織布だった。色とりどりの糸を使い、草花や鳥獣を意匠化した模様が刺繍で描かれている。
書籍に挟むにちょうどよい長さだ。燦は指先を顎に添えた。
「布製の栞か?」
「然様にございます。紙は貴重な上、劣化してちぎれてしまいます。草花は風雅ですが、虫や汚れがつきやすい。金属製のものは丈夫ですが、頁に癖がついたり錆で書籍が傷んでしまったりします。ですので、私は布製のものを愛用しております」
燦は一本の栞を手に取った。目にも鮮やかな刺繍をなぞると、栞の持つ記憶が脳裏に流れこんでくる。
紫石英を砕いて散りばめたような黎明の天。
しらじらと聳える大山脈。
荒涼とした平原を渡る風の匂い。
獣脂の火影に照らされた天幕の中、俯いて針仕事に打ちこむ少女の横顔。
「大龍の背骨のむこう――大陸の西側のものか」
「よくおわかりになられましたね。これは西方人の商人より買いつけた品です」
蘇芳は感心して様子で目を丸くしている。
気が抜けるほど素直な男だ。あらゆるものを見通す神女の浄眼を前にして、萎縮も緊張もしない人間は珍しい。
――悪い男ではなさそうだ。
燦は読みかけの簡書に栞を挟むと、絹布ごと残りの栞も受け取った。
「気に入った。さっそく使わせてもらおう」
蘇芳はにっこり笑って拱手した。
「光栄にございます」
両目を眇めて男を注視する。言葉にこめられた感情に偽りは見当たらない。
燦はくちびるを舐め、声を低めて告げた。
「ひとつ釘を差しておくが、次の稚神女は吾ではない」
蘇芳が不思議そうな顔をする。
「稚神女の夫、いずれは王配にと望んで吾との縁談を受けたのであれば、早々に断ったほうが汝のためだ。わが母の世継ぎは異父妹の香彌とすでに決まっている」
「然様にございますか」
「しかし、わが妹は王家の至宝。その婿君は香彌がその目で見定めたおのこでなければならぬ。仮に香彌との縁談を望むのならば、あれが汝を見出すまで精進することだ」
燦の警告に、蘇芳は困ったように首を傾げてみせた。
「おそれながら、私は姫宮がご案じなさっているような野心は抱いておりません。王配の身分にも……その、あまり興味はなく」
「……そのようだな」
「こたびのお話も、大神女のご命令ゆえにお受けいたしました。姫宮がお望みであれば謹んでこの身を捧げる所存ですが、お断りいただいてもまったく不満はございません」
どこまでもまっすぐなまなざしに、燦は得心が行った。
燦に選ばれようと選ばれまいと、蘇芳にはなんら重要ではないのだ。
いちばん大事なもの、かれの心は故国に残してきてしまったのだから。
燦は吐息をこぼした。そこには安堵と共感がこもっていた。
「汝の月は璃摩にあるのだな。いまも昔も――この先も」
「はい」
蘇芳はあえかに笑んで首肯した。
ある意味、かれと自分は似た者同士だった。最も愛するもののほかに心を揺さぶられることはなく、情が湧いたとて手放しても惜しくはない。
燦にとっての香彌のように。蘇芳にとって、異国の月を見上げて想うひとこそ唯一無二なのだ。
――この男ならば……
王女の夫として分をわきまえ、子が生まれたら善良な父親となってくれるだろうか。妻としても母としても役不足な燦を赦してくれるだろうか。
燦の願いはただひとつ、玉座に就いた香彌の王佐として生きること。
この日、燦は運命の相手とめぐり会った。




