一 燦と香彌
神代の終わり、四方を珊瑚の海に取り囲まれた島嶼群に天上より双子の女神が降り立った。
姉妹神によって興された、闇と死を司る太母神を祀る国の名を伊玖那見、あるいはイゥナムヤという。いずれも、幾百幾千の波が打ち寄せる海の果てという意味だ。
国を開いた姉妹神はそれぞれ海を渡ってきた稀人を夫に迎え、生まれた娘らも同様に稀人とのあいだに子を儲けた。姉妹神の血筋は稀人の男たちと交わりながらひとつの王統となり、半神半人の血を継ぐ娘たちの多くは太母神の恩寵たる金色の浄眼と巫術の才を持って生まれてきた。
中でも、とりわけて優れた眼と才を持つ娘が巫王として玉座に就き、祭政を掌握した。時代が下り、いまでは巫王は大神女、巫王の世子は稚神女と呼び習わされている。
燦は当代の大神女の娘だ。周囲からは生まれた順番にちなんで二の姫宮と呼ばれることが多い。
若くして即位した母王は放埒で、異国の賓客のみならず官吏や奴でもひと目見て気に入れば柱の陰に引きずりこんで事に及ぶような女人だった。おかげで子宝には困らず、燦を含めて七人の子女を儲けた。
異父きょうだいのうち、ふたりは乳児のころに妣なる女神の身許へ召された。無事に長じたのは兄の玖晏、姉の多由良、燦、妹の香彌、弟の石緑の五人。
男子である玖晏と石緑は、そもそも王位継承権を持ち合わせていない。姉宮の多由良は生来の異能が弱く、加えて蒲柳の質があるため、早くに世継ぎ候補から外れていた。
ゆえに、いずれ稚神女の座には燦と香彌のどちらかが就くという暗黙の了解が王宮内に出来上がっていた。
燦たちの世代は嫡流以外にも巫者たる神女として申し分のない才覚を持つ娘に恵まれた。太母神の賜物だと喜んだ母王はこれぞと見込んだ庶流の媛を王宮に召し上げ、燦や香彌といっしょに王統の神女としての教育を施した。
幼いころより同じ宮で寝食をともにし切磋琢磨してきた義姉妹たちは、燦にとって異父きょうだいとはまた違った絆を感じる存在だった。大神女の養女という身分に甘んじることなく、常に慎ましく分をわきまえ、次代の稚神女を支えて国を守護するという使命をよくよく理解していた。
それは燦も同様だった。
一歳しか違わない異父妹の香彌は、母王を除けば王宮で最も高貴な浄眼を持っていた。宵告げの星が輝く黄昏の天――その美しさを閉じこめた金橙色の両眼は、彼女に与えられた闇の女神の加護がいかに篤いものであるかをまざまざと見せつける。
才ある神女であればあるほど、香彌の目を見た瞬間に彼女こそが次代の稚神女にふさわしいと思い知らされる。跪いて忠誠を誓い、いずれ来る香彌の治世で力を尽くせる喜びに身を震わせた。
義姉妹のだれもが香彌を崇拝し、心酔し、思慕していた。燦は彼女らのようにあからさまではないけれど、国にとっても自分にとっても香彌を特別だと認識していた。
香彌よりも色味の淡い、烟るような金色をした瞳は、片割れのような異父妹を佐けるために太母神がお与えになったに違いないと確信していた。疑いなど微塵も抱かずに。
「燦、ねえ燦。かか様がおまえに縁談を持ってきたというのはまことなの」
夕餉前の自由時間。房の寝台で腹這いになって簡書を広げていると、不機嫌そうな足音を立てて香彌が入ってきた。
金環を巻いた足首までまっすぐ流れ落ちる白銅色の髪、白珊瑚のような薄紅色を透かす膚。清婉な美貌はどこか浮世離れした儚さを漂わせている。
寝物語に登場する白珠の化身、あるいは北方の地に降るという雪の精のごとき少女は、裳裾がまくれるのもかまわず両脚を広げて燦の背中に跨った。
「ぐっ……おい、香彌! 重い重い、降りてくれ!」
「断る! わたしの質問に答えるほうが先!」
「ちょ、飛び跳ねるな! 胃の腑が飛びでっ……〜〜わかったわかったから! ひとまずおとなしくしてくれ!」
寝台の上で騒いでいると、年配の婢が火の点いた手燭を持って入室してきた。
「姫宮方、御前を失礼いたします」
にこにことほほ笑ましげに声をかけられ、ふたりは決まり悪く寝台の上で座り直した。
薄橙色の火屋に覆われたランタンに火が灯ると、滲むような光が室内に広がった。燦は目が眩むような感覚に顔をしかめ、白茶けた睫毛を忙しなく瞬かせた。
姉妹とはいえ種違いのせいか、燦は香彌とまったく似ていない。
うなじでひっつめた砥粉色の髪は細かくうねり、火あかりに照らされた肌は椰子の実のような褐色に艶めいている。すうっと鼻筋の通った顔立ちは、少女というよりも少年めいた中性的な涼やかさを匂わせていた。
小柄な香彌よりも上背があるため、ふたりが並ぶといっそう燦は男性的に映った。とはいえ、年ごろを迎えた体つきはすっかり女らしいものだったが。
婢が退室すると、香彌はぷうと頬を膨らませた。
「燦のせいで恥ずかしい思いをさせられた。謝れ」
「……すまなかったな」
燦はため息まじりに謝罪した。
十四にもなるというのに、この異父妹ときたら癇癪持ちの童のようだ。三の姫宮、次期稚神女として表に立つときは神秘の具現のごとく楚々と振る舞うくせに、日ごろは行儀悪く足を組んで厨からくすねてきた果実にかぶりついたりしている。
香彌は寝台に寝転がると、鮮やかな金橙色の瞳をじとりと据えた。
「それで、先の質問の答えは?」
「まことだよ」
香彌の体の下敷きになる前に簡書を救出し、読みかけの項に栞を挟んで巻き直す。
窓際の机の上には簡書や書誌が積み重なり、小高い山々を成していた。どれも異国の商人から手に入れた舶来品だ。
手前の山の頂きに簡書を置き、燦は椅子を引いて腰かけた。
背凭れに寄りかかって寝台の香彌へ向き直る。
「十五にもなったというのに情人のひとりやふたり囲わないとは情けないと嘆かれてしまってな。最近王宮に出入りしている客人の中から、母上のお気に入りを幾人か紹介された」
「つまり、かか様のおさがりということ?」
香彌は臭いものにでも遭遇したように鼻の頭に皺を寄せた。
遠慮のない言い様に思わず笑ってしまう。母王のことは尊敬しているが、男癖の悪さばかりは許容しがたいらしい。
「母上も、さすがにそこまでお人が悪くはないさ。王女の婿がねとして好ましい相手を見繕ってくださったんだよ」
「もう会ったの?」
「いや、まだだ。時間を作ってひとりずつ話をすることになった」
「それで、よい男がいれば婿を取るの?」
黄昏色の瞳が射るように睨んでくる。
燦は椅子から立ち上がると、香彌の隣にごろりと転がった。
「そうだな。だれかしらを選んで、契りを交わして子を作らねばなるまい。母上の先視で、われらの次の世代では神女の才を持つ者が減るとわかっているからこそ尚更に」
王統に生まれる神女の数は一定ではなく、世代によってばらつきがある。
母王の占は外れない。自分たちの子の世代が神女に恵まれないというのは確定事項だ。
「もともと男系には神女が生まれにくい。お体の弱い姉上は出産に耐えられまい。となれば、次にお鉢が回ってくるのは吾だ」
燦はゆるゆると腹を撫でた。
薄く平べったいこの中に男を迎い入れて子を宿すことを想像しても、いまひとつぴんと来ない。
自分も香彌と同じく母王の色好みは受け継がなかったようで、初潮を迎えても男遊びを覚えようという気にはならなかった。
母系社会の伊玖那見では産みの母の血統が重視される。婚姻の制度は存在するものの、市井でも上流階級でも一妻多夫や重婚は珍しくない。
性におおらかな風土は王宮にも根付いている。子を産めるようになった王女が出自を問わず恋人を作ることは公然と認められていたし、歴代の大神女には常に複数の王配が存在した。とりわけ母王はその相手が多いだけなのだ。
腹を撫でさすっていた右手に、香彌のてのひらがひたりと置かれた。
身を起こした香彌が覆い被さるように顔を覗きこんでくる。
長い髪が流れ落ちる。白銅色の帳の下、金橙色の眸が燃えていた。
なんと気高く美しい光だろう。夜の森林を統べる山猫の女王のようだ。
「王統を途絶えさせないために、燦は子を孕んで産むの?」
「それが王女の務めだからな」
「莫迦莫迦しい」
香彌は怒りをこめて吐き捨てと、異父姉の手の甲に爪を立てた。
「それではまるで家畜の交配ではないか。おまえの夫になる男も、生まれてくる子も憐れだ」
「心配しなくても、夫も子も愛するように努力するさ」
「嘘つきめ」
手の甲の皮膚に爪が食いこむ。燦は眉をひそめ、左手を香彌の頬に伸ばした。
大陸渡りの陶磁器を思わせる雪膚を指の背でなぞる。香彌の睫毛がふるりと揺らいだ。
「嘘も吐き続ければ、そのうちまことになる」
燦は薄く苦笑し、敷布の上で首をひねった。
「吾が多くの子を生せば、汝が家畜の交配に煩うこともあるまい。まあ、ひとりふたり夫は迎えねばならぬだろうが……気長にこれはと思う男を見定めばいい」
「戯け!」
香彌は燦の右手を容赦なく引っ掻いた。手の甲の皮膚が抉れ、痛みとともに血が滲む。
香彌の指先から赤い珠が滴った。口唇に落ちた雫を舐め取ると、錆臭い味がじわりと広がった。
連綿と受け継がれてきた双子の女神の血は、色も味も徒人と変わらない。奇妙なものだとつくづく思う。
この身に流るる血の価値は十二分に承知している。しかし燦にとって最も重要なのは、同じ血を分けた異父妹の存在だ。
「わたしを言い訳に使うな、莫迦者め」
香彌はくしゃりと美貌を歪めると、燦の胸に折れ伏した。
「たやすく子を生すだなんて言うな。お産で体を損なったり、命を失ったりすることもあるのに。子どもだって……無事に生まれるとは限らない」
「何か先視したのか?」
「違う。おまえの特別扱いに心底うんざりしているだけ」
燦は天井を見上げ、少しのあいだ思案した。
香彌の背中に両手を回そうとして、右手の甲の傷が目に入った。白銅色の髪を血で汚すかもしれないと気が引けたので左手だけで抱えこむ。
「吾は姉上よりも頑健だから心配はいらないよ」
香彌はむっつりと黙りこんでしまった。
すっかり臍を曲げた異父妹の機嫌をどうやって取ろうかと考えながら、燦は瞼を閉じた。
香彌の頭皮から、汗と、彼女が好んで使っている柑子の香油の匂いがした。華奢な体はあたたかく、腕に抱いていると眠気を催してきた。
まるで童のころに返ったようだ。うとうととまどろむ燦の耳が、恨めしそうなささやきを拾う。
――どうして大人にならなければいけないの……
未来に怯えているようにも聞こえる声に、燦は気づかぬふりをした。
彼女もまた、同じ問いを胸の奥に抱えこんでいたから。