第一話「血塗れの花は現世に芽吹く」
2015年12月26日、土曜日。
今日、この児童自立支援施設での生活は終わる。
私、早乙女純玲は洗面所で顔を洗い、歯を磨き、着替え、用意された朝食を食べるため居間の椅子に腰掛ける。
用意されていたのは簡素なトーストとコーヒーである。オーダー通りだ。
「監視役、今日も図書館に行きたい」
私は、自身の食事を監視する黒スーツの男に話しかける。
男の名前は、知らない。興味もない。
一度名前を告げてもらった気もするが、興味がないので忘れた。
私が要望を告げる時だけ、監視役、と呼ぶ。それで十分名に値する。
「確認しますので少々お待ちください」
監視役と呼ばれた男は、そう言って携帯電話をポケットから取り出し電話をするため居間を後にする。
ここは犯罪などの不良行為に走る児童を収監し、指導を以て自立を支援する施設である。
しかし、5歳という幼さで殺人を犯した私の扱いは恐らく一般のそれとは少し違う。
施設は私のためだけに用意された特設のもの。
加えて施設に関わる大抵の大人が怯えている、私の機嫌を損ねないように立ち回っている。
食事として提供される献立は指定できたり、図書館への外出なども、施設への収監意義を逸脱しない範囲であれば、大抵の要望が通る。そして未成年の少女に対して誰も敬語も忘れない。これでは犯罪者というよりお嬢様だ。
そして今日も、いつもの休日の通り図書館への外出許可を申し出た。
「純玲さん、問題ありません。車の準備をしますが、いつ頃外出されますか」
監視役の男が携帯を仕舞いながら居間へ戻ってくる。
「朝食を食べたらすぐ」
「承知しました」
そう告げ短いやりとりを終える。
監視役に怪しまれている様子はない。
またいつもの図書館だ、と言わんばかりの無表情である。
朝食を食べ終え、重厚な門前に停められた銀色のセダンの後部座席に乗り込む。
今日図書館に向かう理由は知識習得の為ではないが、怪しまれてはいけないので先週借りておいた化学教本を開き目を通すフリをする。
監視役とは、二人きりの状況でも雑談をしたりすることはない。
終始無言だ。
約1時間車に揺られ、最寄の県立図書館に到着する。
私が収監されている施設はどこの県だか分からない山奥にあるため、最寄の施設に行くにしてもこのように車を走らせて数時間は覚悟しなければならない。身ひとつでの脱出は困難なわけだ。
昔から技術書が好きだった私は、いつも図書館についてすぐ二階の書物を読み漁っていた。
現在午前10時。企ている計画の実行は12時を予定しているので、それまではいつも通り本に没頭する。
今日は物理教本を選択した。
監視役は、私が無言で本に没頭している片時も目を離さない。
暇そうな仕事だ。
本に没頭している間に、12時の鐘が鳴る。決行の時間がやってきた。
「監視役、トイレ」
「承知しました」
私は読んでいた物理教本を返却用の棚に戻し、同階の手洗い場に向かう。
勿論、その移動の間も監視役の目は外れないが、私は腐った犯罪者でも女。男である監視役の人間は扉の奥まで入ってこない。
そこを、今回の脱出の決行場所に選んだ。
手洗い場の扉を開け中に入る。
監視役は扉の前で軽く会釈し、ゆっくりと閉まってゆく扉越しに目線が絶たれる。
ガチャリ、と扉が閉まる音と同時に私は手洗い場の奥へと行き、外開きの窓を開ける。
図書館の外は見渡すかぎり広大な森と山が続いている。人が行き来するような道路も施設も見当たらないため他者の目につくことはないだろう。
下を覗くと、階下では5人の男が大きな布を囲んで談笑していた。
今監視の目はないとはいえ、私と監視役を遮るのは遮音性の低い扉一枚。
階下の男に声をかけると監視役に気付かれる恐れがあるため、私はあらかじめ決めておいたコンタクト方法として服のボタンをひとつちぎり、窓から放り投げる。
不自然なボタンの落下に気づいた男が一人、信じられないという様な顔でこちらを見上げた。
それに気づいた他の男たちも、順番にこちらを見上げる。
談笑の声は徐々に止み、「ほんとだったのか」「マジかよ」といった声が聞こえる。
私はこちらを見上げる男たちに向かって頭上で大きな丸を作る。
計画実行、今から飛び降りる、の合図だ。
4人の男たちは地面に敷いていた布を持ち上げ、四方に引っ張ることで上方からの力を吸収できるようにする。
そして残りの1人が、こちらに向けて大きく丸を作る。
計画続行、準備完了、の合図だ。
私は窓枠に足をかけ、足から斜めに階下に落ちれるよう脳内でシミュレーションをしつつ体制を整え、狙いを定めて飛び降りる。
ぼふっ、と広げられた布に包まれるように落下し、若干ではあるが背中を地面に打ち付ける。
外傷や痣ができるような衝撃ではない。
着地後すぐさま布で包まれた私は、男たちに担がれるようにして図書館を後にし、車に運び込まれた。
「おい女、大丈夫か」
そう声をかけられ被せられた布を払いのけられる。
どうやら私はバンに運び込まれたらしい。
図書館から飛び降りてから1分も経っていないが、もう車を発進させている手際の良さに感心する。
「大丈夫、協力どうも」
「礼はいらないぜ、その身体で払ってくれるんだろう?」
身長180cm、体重は100kgもありそうな巨漢が返事をする。
この男たちは、ダークウェブ上で知り合った脱出の協力者だ。
施設からの脱出を手伝ってくれるよう依頼した。
しかし施設暮らしの私に金銭などを持ち合わせているわけがないため、今回は私の身体を差し出す、ということで協力してもらったのだ。
「それにしても本当に現れるとはな、加えてこんな上玉だったとは」
「こんな嘘誰がつくの、それに素性を明かす意味、ある?」
今回この男たちには私の素性を何も明かしていない。
訳あってお金を持っていない、図書館からの脱出に力を貸してほしい、成功した暁には女の身体を差し出す、それだけの内容しか伝えていない。
身元を調べ上げられて、情報が流れることを懸念してのことだ。
「冷たいこと言うなよ、少しぐらいお話したっていいじゃねぇか」
「何のために。この身体を好きにするので十分でしょう」
「いやいや、お前という人間を知れば知るほど堪能しがいがあるってもんだからよ」
男の性欲というのは、よくよくわからない。
私なんてつまらない人間を知って何に興奮するというのだろう。
「…女、10年前に親殺した娘だろ?」
男が静かに口を開く。
正直驚いた。
どこから情報が漏れたのだろう。
いや、コンタクトをとったPCの情報が漏れていれば、森の中の不自然な位置情報からのアクセス、建物の施工日、関連する直近の出来事ということからある程度人物を絞り込めたのかも知れない。
「なんだ、知ってるの。じゃあ何も話すことはないね」
「いやいや、事件としては知ってるけどよ、なんでそんなことしたのかとか、お前という人間を教えてくれよ、東京まではまだまだ時間がかかる」
そんなことを聞かれても、答えようがない。
「…鬱陶しかったから」
「それだけの理由で親殺したのか?」
「文句ある?」
「いや別に、イカれてんなと思っただけだよ」
癪に障る発言だった。
私が私のために行動した結果をイカれてると言ってのけたのだ。
「は?うざ、殺していい?」
「悪い悪い、ただこんな場所で暴れたら殺されるのはお前さんだぜ?」
他の4人の男に目を配る。
確かに、この男を除いても私より遥かに体格のいい男たちを相手に戦える自信はない。
施設にいる頃から肉体作りと武術の習得には励んでいたが、何より実践経験に乏しい。
「そうね、弁えておく」
「意外と懸命だな、とても親殺すような短期な女には見えねぇ」
「一々上から目線なのがうざい、同類のクズのくせに」
「ははっ、言うねぇ」
一々癪に障る連中だが、事が済むまでは大人しくしていよう。
全て終わったら、全員殺してやる。
「女、名前は?」
「どうせ知ってるんでしょ」
「まあな、純玲」
「キモ」
記憶の中で他者と話したのは親と施設の人間を除いて初めてだったが、世の中には中々不快な人間が多そうなことを今悟った。
「俺は、そうだな。"D"って読んでくれ」
「あっそ」
この場限りの関係の人間に興味はない。
というか他人に対して生まれつきそこまで興味がない。
親だった人間に対しても、未だに興味はない。名前すらもう忘れた。
「面と身体は女優顔負けのルックスしてるくせに、中身がクズすぎるぜこいつ」
車内に男たちの笑い声が響く。
もう話すのも面倒だが、男は興味が尽きんとばかりに話しかけてくる。
「純玲さんよ、親殺すことに対して恐怖とかなかったのか?」
「恐怖って、何?」
「そりゃ、殺したら誰が育ててくれんだろうとか、警察とか、世間の目とか」
「全部他力本願ね、私は私のやりたいようにするから、そんなこと考えた事ない」
「なるほど、お前は自己中心主義の極みな訳だ」
「そう思うならそうなんじゃない、どう思ってくれても構わないけど」
適当に流したが、そう、私は自己中心的だ。
これほど私にしっくり当てはまる言葉はない。
私は私という命である以上、私のために生きるべきだ。
なぜ人間は社会性という言葉で自己を締め付けるのか、施設にいる間どんな文献を漁っても理解できなかった。
そんな生きづらさを味わい続けながら、誰かの奴隷として生きるくらいなら、私は自己中心的である方が私を保てるのだ。
「そうだ、忘れるといけねぇ、ご所望だったスマホとちょっとした金、渡しておくぜ」
男は思い出した様に、ポケットから取り出した黒色のスマートフォンと5枚の壱万円札を私に差し出す。
私が脱出の手助けと一緒に頼んだものだ。
スマートフォンは、カメラの出っ張りが特徴的で、プラスチックの筐体が安っぽい無骨なデザインのもの。
ズボンのポケットに忍ばせていた針をスマートフォン側面の穴に差し、SIMスロットを開くとそこには30日間使用できる期間限定のSIMカードが刺さっていた。要望通りだ。しかし。
「なにこのスマホ、ダサすぎ、15の女って分かっててこれ選んだの?」
「うるせぇ。こっちだって無限に金が湧いてくるわけじゃねんだ。別にデザインの指定は無かったろ、我慢しろ」
「そんなセンスしてるから、こうして女買ってるわけね、可哀想」
男の目の奥から光が消える。
「なあ兄貴、コイツちょっと生意気すぎやしねえか?ヤッた後殺しちまおうぜ」
「やめとけ、今頃施設の人間が血眼になってそいつ探してるはずだ、それに、位置情報やSOSを発信するような端末を持ってないとも限らねぇ」
兄貴と呼ばれた運転している男が応答する。
私が施設の人間であるということは、やはりバレているようだ。
応答を受けた男は舌打ちをして、改めて私に向き直る。
「俺はお前と違って短期だからよ、言葉遣いには気をつけてくれよ?うっかり手が滑って殺しちまうかもしれねぇ」
「あっそ、殺したきゃ殺せば」
また男は舌打ちをする。
男もまた人間なのだ。目の前の人間が気に入らなきゃ殺せばいい。
クズでありながら、殺しを実行には移さない。なんとも中途半端な人間だ。
よっぽど私という人間が気に食わなくなったのか、これ以降、男が私に話しかけることはなく、東京までの数時間、車内は終始無言のまま目的地に着くこととなった。
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2015年12月26日、土曜日、22時17分。
東京、新宿、某ホテル内。
目的地に着くと同時に身体で支払いを済ませ、晴れて自由の身となった。
しかし移動中の車内で生意気な態度を取りすぎたことが神経を逆撫でしたのか、かなり乱暴に扱われた。
押さえつけられた手足には痣が残り、股からはとめどなく血が溢れ、本来とは違う用途で備え付けのサニタリー用品を使用することとなった。
殺してやろうかと思ったが、行為の過程で思ったよりも体力を消耗しており、とてもじゃないが屈強な複数の男相手に喧嘩を挑める状態ではなかった。
減るものでもない身体を差し出すだけでお金がもらえるのならと考えていたが、これは続けられるものではない。
体力的にも、精神的にも。若干潔癖症の気がある私にとって、この行為はメンタルを追い詰める。
何か別の方法で明日以降生きていくためのお金を稼ぐ必要がある。
幸いにも、行為に使用した部屋は宿泊料金を前払いで払ってくれていたようで、今晩は寝床に困らない。
ベッドは体液と血に濡れ、とても快適とは呼べる環境ではないのでソファで寝る事になるのだが。
純玲は明日以降の生き方に思考を張り巡らせながら、残されたホテルの部屋で一人、眠りについた。
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2015年12月27日、日曜日、11時32分。
私はよっぽど熟睡していたようで、正午前、チェックアウトの時間が迫っていることを伝えるホテルフロントからの内線で目を覚ました。
昨日の男らから若干の金は貰っているが、結局今日以降生きていくための金の稼ぎ方はまとまらなかった。
一旦行動を開始するため、簡単にシャワーを浴び、昨日の服を着て身支度を済ませる。
「延長料金が発生しておりますので、お支払いをお願いします」
部屋を後にしフロントに降りると、ホテルの女がこちらに話しかけてきた。
「金ならないよ、諦めな」
「いえ、そういう訳には...警察呼びますよ」
どうやら施設の外側では、何をするにも金が発生するらしい。
資本主義を痛感し、警察という厄介な単語を出されたので殺すかどうかの選択肢が頭をよぎる。
延長料金を払う程度の金はあるが、いざという時のためになるべく使わなくてよいよう事を運びたい。
「めんどくさ、殺していい?」
思わず口走ってしまった。同時に右手が女の首元へ向かう。
しかし同じタイミングでフロントの奥からでてきた偉そうな男が、私の前に割って入る。
「いえ、お客様、お金がないということでしたら、延長料金は結構です。本日はご宿泊いただきありがとうございました」
割って入った偉そうな男が早口に私を引き剥がそうとする。
邪険に扱われていることに少しムカつきながらも、金はいらないと言われれば相手にする必要もない。
「どうも」
それだけ残して私はホテルを後にした。
ホテルから一歩でた新宿の外の空気はとても不味く、排ガスや油の匂いが酷かった。
都会に出れば何かと利便性に欠くことはないと踏んでここまで車を出してもらったが、外れだったかもしれない。
木々に囲まれた施設での暮らしが、如何に健康的なものだったかを思い知らされる。
しかしまずは食事だ。
昨日の朝施設で朝食を摂ってから、何も食べていない。
私は施設のPCでネットサーフィンをしている時見かけたハンバーガーという食べ物が気になっていたので、近くに見えた黄色く丸みを帯びたMの字の看板目掛けて歩みを進める。
チーズバーガーやフィレオ?といった様々な種類のハンバーガーが売っていたが、まずは一番無難であると思われるハンバーガーを注文した。
お昼時だからか人が多く、強奪するには目立ちそうだったのでここではおとなしく料金を支払った。
ポテトとドリンクがセットになったもので、料金は400円。残り49,600円。
感想としては、いたって見た目通りの味だった。ほとんどパンとケチャップの味だった。
予想を裏切る簡素な味に肩透かしを食らったが、意外にもポテトとコーラが美味しかった。
ポテトは施設でも食べたことがあるのだが、ここのポテトはなんだか癖になる。
Lサイズにしておけばよかったと、空になった入れ物を見て少し後悔する。
コーラという飲み物は初めて飲んだが、独特な味わいが非常に美味しい。
このシュワシュワした喉を刺す飲み心地はコーラ特有のものなのだろうか。爽快感があって非常に好みだ。
食事を終え、余ったコーラを飲みながら昨日受け取ったスマートフォンでこれからの生活についてメモを取る。
今回の食事が400円。これから毎日3食同じものを食べるとして1日1,200円。宿泊は今回泊まったホテルで1泊5,800円と書いてあったか。
そうすると1日生きるのに必要なお金は7,000円。最低限の生活をしたとして手持ちの金では1週間もすれば底をついてしまうだろう。やはり何か別の手段で早急に金を稼がなければいけない。
さて、どうやって金を稼ごうか。
売春は昨夜の一件で向いていないことが分かった。
あんなことを続けていれば毎回死人を出しかねない。
殺しに躊躇いは無いが、また施設送りにされるような事は避けたいし、処理が面倒そうである。
となれば働く?否、一日何時間も拘束されて質素な生活を送るなどあり得ない。だったら働かずに学ぶことができ、自由な時間も確保されている施設に戻ったほうがマシだ。
「お姉さん、暇?」
ふと、背後から男に声を掛けられるが無視をする。
「聞こえてるでしょ?暇だったらちょっとお話しない?」
肩を叩かれながらしつこく話しかけられるが、乗せられた手を強めに払う。
「うるさい、話がしたいなら金出しな」
「お、いいね。これでいい?」
私の返答に即答で、男は私の前に壱万円札を置いた。
見ず知らずの女と話すためだけに、本当に金を出されたことに不気味さを感じたが、いざとなれば男1人くらいは確実に殺せる。
懸念が払拭され話を受けようと顔を振り向かせると、胡散臭いセンター分けのスーツに身を纏った青年が立っていた。身長は180cmもないくらいだろうか。
「うわ、間近で見るとすごい美人さんだ」
振り向いた私の顔を見て、男はそう独り言を漏らした。
「あっそ、座りなよ」
「じゃあ遠慮なく」
男は私の向かいに座る。
小綺麗にまとまった、なんともいけ好かない男だ。
「言っとくけど、手出したら殺すからね」
「ありゃ、身体は売ってくれないんだ。まぁいいよ、ちょっと話そう」
応答はしつつも、目線はスマートフォンに落としたまま。
この壱万円は、あくまで話をするためだけの金なのだから。
「君、東京の人間じゃないでしょ」
「どうしてそう思うの?」
「服装、化粧っ気の無さを見ればわかる」
そういわれてふと、周りの人間を見渡す。
確かに、周辺の人間は何かのテーマに沿ってコーディネートをしているかのような統一感がある上に、アクセサリーなどをつけていて煌びやかに見えた。
対して施設で供給されていた服を着ている私はかなり地味な部類で、よくも悪くも周囲の人の雰囲気から浮いている。
人とのコミュニケーションが極端に枯渇していた環境で育ってきた私にとって、コーディネートなど全く眼中になかった。
男に舐められているようで、少し苛立ちを覚える。
「でも着ている服は一流だ。だから、田舎から出てきたばかりの立ちんぼかと思ってね」
「失礼にも程があるね。私を怒らせにきたの?」
昨日の協力者といい、施設からの脱出後ムカつく奴らとしか会話していない気がする。
しかしこの服、上等なものだったのか。
「ごめんごめん、言葉選びを間違えた」
そう言って男は顔の前で手を合わせ、詫びる様子を見せる。
「それで、何の用?手短にお願い」
「ああ。じゃあ本題に入ろう、今日一日僕に付き合ってよ」
「嫌、めんどくさい」
「金ならある」
そう言って男はジャケットのポケットから二つ折りにされた数十枚の壱万円札を机の上に置いた。
一瞬見ただけでは、何枚あるかわからない。おそらく20枚程。
金がないことを見透かされていることにまた苛立ちを覚えるが、これだけもらえるならまあ、付き合うのも悪くはない。
「羽振りがいいんだね。それだけあるなら、まあ付き合ってもいいけど」
「やった!じゃあよろしく」
そう言って男は右手を私の前に差し出す。
握手の要求だろうか。しかし別に頼まれていないので無視すると、しばらくして手を引っ込めた。
「じゃあまずは何したい?」
「どうして私に聞くの?私があなたに付き合うんじゃないの?」
「あれ、パパ活ってそういうものじゃないの?」
「なにそれ」
男は不思議そうに首をかしげながら言葉を続ける。
「僕は、かわいい子にもっとかわいく、幸せになってほしいと思って、こうしてお金をあげたり、何かを買い与えたりしてるの。今日付き合って、って言ったのは、その活動の一環。パパ活っていうのはそういうこと」
「なにそれ気持ち悪い。手出したら殺すって言ったよね?」
「手は出さないよ」
「じゃあ何を見返りにそんなことしてるの?」
「強いていえば、その子の喜ぶ顔とか、そんなかわいい子を隣に連れているというステータスかな」
「ふーん、やっぱり気持ち悪い」
「ひどいなぁ」
金を持つ男の思想というのはよくわからないが、嘘を吐いている様子はない。
本当にそんな見返りでよいのなら、これを機にこの男を利用できるだけ利用しておくのも悪くはない。
「わかった、じゃあまずは服が欲しい」
「いいね、一番似合う服を繕おう」
「あとは美味しいごはん、施設で食べられなかったような豪華で美味しいご飯がたべたい」
「そうか、君は施設上がりなんだね。世界で一番おいしいものを食べに行こう」
うっかり口を滑らせてしまったが、男は養護施設か何かと勘違いしているようだ。
そしてまた下に見られるような発言だったが、私のしたい事に付き合ってくれるというので少し気分がいい。気に留めることはなかった。
「他には?」
「いったんはこれで」
「わかった、じゃあ直ぐにでも出発しよう。僕は板谷茂。君は?」
「早乙女純玲」
「え?」
男は一瞬目を見開く。
「その名前、どこかで」と口が動いたように見えた。
この男も、私を知っているのだろうか。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。純玲ちゃんだね、今日はよろしく」
そう告げて私たちはハンバーガー屋を後にして、近くに停めてあった男の車に乗り込んだ。
跳ね馬のエンブレムが特徴的な、真っ赤なスポーツカーの助手席に座り、新宿を発った。
「この車、幾らくらいするの?」
「5000万くらいかな」
「ふーん。高い割にうるさくて人も荷物も乗らなそう。変わった趣味してるんだね」
「車に興味がないと確かにとそう思われるかもね。感応的だといってほしいよ」
「ごめんね、私世間知らずだから」
施設にいたころ外出に使用していたセダンの車とは似ても似つかない。
あの車の方がよっぽど実用的に見えたが、これが金を持つ者の自己顕示だとでもいうのだろうか。
「この車は、世間的にはどういう目で見られるの?」
「そうだな、金持ちだとか、目立ちたがりだとか、近寄り難い車って思われてると思うな」
「舐められないってこと?」
「そうとも取れるね」
「ふーん」
道中は、そんな会話をしていた。
外界に出てからというもの、舐められることに苛立ちを募らせていたためだ。
舐められない振舞いやアイテムを身に着けたいが、施設育ちの私にはその基準が分からないため、癪だがこの男を参考にしてみたいと思ったのだ。
「純玲ちゃんは、好きなブランドとかある?」
「別に、というかどんなブランドがあるのかとか知らない」
「わかった、じゃあ僕のセンスで服を選んでもいいかな」
「いいよ、任せる。舐められない服がいい」
「純玲ちゃんはそこに強くこだわるね」
銀座で車を停め、いくつかのブランドのお店に立ち寄った。
「純玲ちゃんは艶のある長い黒髪と細く鍛えられた身体、整った目鼻立ちが強みだと思うから、それらを生かせる服装がいいと思うな」
そう言って男は、上下黒の革のセットアップと、細く高いヒールをチョイスして試着してみるよう促した。
店員に案内されカーテン一枚で遮られた個室で私は着替えを始める。
「おお、やっぱりよく似合ってる。純玲ちゃんはどう?気に入った?」
着替えを終えてカーテンを開けると、輝かしい目で男が私を見る。
「なんか悔しいけど、結構気に入ってる。あなたの車みたいに目立ちすぎないけど、力強さを感じる」
「純玲ちゃんの顔とスタイルを阻害せず、引き立てるようコーディネートしてみたんだ。力強く見えるのは、純玲ちゃん自身の魅力だね」
試着室内の鏡に向き直り、改めて自分の服装を観察する。
服に派手な装飾は無いが、深みのある革の光沢が、目立たないながらも力強さを演出している。
細く引き締まったウエストが、メリハリのある身体のラインを強調させているところもいい。
外界に来てから周りの人間と比較して思ったが、私はこれほどまでに整った身体をしていたのかと感心する。
「ヒールも履いてみてよ」
その言葉に従い、ヒールに足を通す。
つま先の下にも高さがあるピンヒール。10cmは身長が伸びそうだ。
ヒールを履くと鏡越しには長かった足がより一層強調された、人形のような頭身の人間が立っていた。
「いいね、これなら舐められない。でもヒールって初めてだから、歩きなれない」
この細いヒールで歩こうとすると、足をくじいてしまいそうでどうも目線が下向きになり、膝を伸ばしきれない。
鏡に映るヒールに慣れない私の歩き姿は、誰が見ても滑稽だった。
「確かに足元が不安になるけど、純玲ちゃんはしっかり筋肉がついてるからくじいたりすることはないと思うよ。足元を意識するんじゃなくて、背筋を伸ばして、目線を遠くにやることを意識して」
言われた通りにして歩いてみると、確かに足を前に出した時きちんと膝が伸びきることがわかった。
鏡に映る堂々とした立ち振る舞いは、誰にも舐められないと確信できる。
「気に入った。これ、このまま着て行ってもいい?」
「もちろん、気に入ると思って会計はすましておいたから、タグだけ切ってもらおう」
男のセンスと手際の良さに感服する。
すぐさま店員が私に駆け寄り、迅速にタグを切っていく。
店員が回収していったタグの一つが一瞬視界に入ったが、その額は8から始まる6桁の数字だった。
「こんなにスマートにショッピングデートができるのに、今日会ったばかりの女を買う必要なんてなかったんじゃないの?」
「そんなことどうでもいいくらいに純玲ちゃんに一目ぼれしたんだ、あと、人がいるところでそういう下品なこと言っちゃいけない。今は僕が君のスポンサーなんだから、僕を立てなくちゃ」
「下品なことをしてるって自覚があるのね」
男は少し口元を綻ばせ、口の前で人差し指を立てる。
金はあるのに品がない、変な人だと思った。
「アクセサリーやバッグも見に行こうか」
「ほしいとおもったところ」
アクセサリーはプラチナにダイヤの装飾が施された指輪とネックレスを買ってもらった。
バッグはセットアップに似合う黒の革のトート。
ようやく、周囲の人間と張り合える身なりが整ってきたが、まだ足りないものがある。
「もう一つやりたいことができた。化粧を覚えたい」
「そう言うと思って、化粧品店のアドバイザーを予約しておいたよ。僕に化粧の知識はないからね、たっぷり手ほどきを受けるといい」
何から何まで段取りの良い男だ。
化粧品店で、私は基礎化粧品からメイクアップ道具の使い方まで一通りの手ほどきを受けた。
私の顔で化粧のやり方を実践してもらったが、店員が「かわいい」「綺麗」「素敵」を連呼するので、肝心の化粧道具の使い方を聞き出すのにかなり時間がかかった。
隣で座っていた男も、途中から眠りだす始末である。
「見違えたね。化粧をしていなくても他をよせつけない美しさだったけど、これは宇宙一だよ」
「口が上手。でも惚れた女が横でどんどん可愛くなっていったのに、眠りだすってどういうこと?」
「僕は好物は最後にとっておくタイプなんだ」
「言い訳も上手」
「それで、欲しいものは決まったかい?」
「全部」
「相変わらずだね。店員さん、試供中に使った全ての品をいただくね」
程なくして会計が終わり、紙袋3つにぎっしり詰まった化粧品を手にした。
施設では手に入らなかったものが何でも手に入る、夢のような時間だった。
「さて、僕がここでしてあげたかったことはこれで全部だけど、純玲ちゃんは他に気になるところはある?」
「特に、もう十分満足した」
「そっか、じゃあ最後にご飯にしようか」
「忘れてた」
私たちは車に荷物を置き、寿司屋に足を運んだ。
すっかり日は落ち、街には仕事を終えたであろうスーツ姿のサラリーマンが多く見受けられるようになっている。
「本当はフレンチに連れて行きたかったんだけど、僕の行きつけはドレスコードが厳しくてね」
「私の服の趣味が悪かったって言いたいの?」
「まさか、分かってないのはフレンチの方さ。こんな素敵な女性を服装で判断するような店、こっちから願い下げだ、って思ってね」
「よく回る口だこと」
そんな軽口をたたきながら、カウンターに腰を下ろす。
苦手な食べ物やアレルギーを聞かれたが、特にないと答えた。
苦手な食べ物はないし、アレルギーに関してはあるのかすらわからない。食事は全て施設が管理していたからだ。
初めて食べた寿司は、美味しかった。米に刺身を乗せているだけに見えるが、そのどちらも想像できるような味より数段とうま味、甘味が強かった。
また米と刺身、相反する素材でありながら調和の取れた口当たりをしており、見た目以上に驚きのある食べ物だった。
「単純な食べ物なのに、たくさんの技術が詰まってるのを感じる料理ね」
「純玲ちゃんのそういった感性は本当に鋭いね。確かに、今言った通り寿司は奥が深いんだ」
寿司屋を後にしようと店を出た時、丁度店前を通行していた人にぶつかった。
厚みのあるダウンにマフラー、帽子に身を包んだ怪しげな男だった。
若干の苛つきを覚えたが、ぶつかった男は「すみません」と一言残して足早に去って行ったため、特に気にすることはなかった。
「純玲ちゃん大丈夫かい?」
後ろから今日一日を共にした男が駆け寄る。
「東京って変な人が多いのね」
「ただでさえ人が多いからね、変な人も確かに多いかも」
「全員殺したくなっちゃう」
男はその言葉に少し黙り込み、しばらくしてまた口を開く。
「純玲ちゃん、人を殺したこと、あるよね?」
「あるよ」
「そっか、うん、そんな気はしてた」
そう言って男はまた黙り込む。
何かを考えるようにして、頭を捻ったり手遊びをしたりして、怯えた様に口を開いた。
「純玲ちゃんが嫌じゃなかったら、その話を詳しく聞きたいんだけど、だめかな」
「別に隠すつもりはないし、そっちこそ嫌じゃないならいいよ」
「ありがとう」
そんな会話をして私たちは車に乗り込み、走り出した。
この男、何を聞き出したいのだろう。
特に隠すつもりは無かったが、別れ際の今殺人なんてネガティブな話題をわざわざ持ち出す意味がわからない。
「デリケートなお願いをしたんだ。少し待っていて、追加のお金を準備するよ」
「もう十分すぎるくらい貰ったけど。貰えるなら貰っておくね」
そう言って男はコンビニの前でハザードランプを焚き車を出る。
程なくして厚みのある封筒を手に持って車に戻ってきた。
「おまたせ、じゃあどこで話そうか」
「どこでも」
「じゃあ夜も遅いしホテルでいいかい?」
「約束忘れた訳じゃないなら」
「わかった」
連れてこられたホテルは、昨日泊まった内装だけは一丁前のボロホテルではなく、重厚感のある暗い雰囲気が特徴的なホテルだった。
男がチェックインを済ましている間待合室を利用していたが、ここでは無料でドリンクを頼み放題らしい。昼に飲んだコーラもあった。
ソファも昨日寝床にしたものよりもふかふかで気持ちがいい。そして何より乾いた起毛の肌触りに清潔さを感じる。
「お待たせ、じゃあ部屋に行こうか」
男がチェックインの手続きを終え、待合室に入ってきた。
「ここでも十分くつろげそうね」
「部屋はもっと豪華だよ」
そう言われるがまま男に着いていき、最上階までエレベーターに身を預ける。
通された部屋は、奥の壁が一面ガラスになっており、東京のネオンが見渡せる。
小さな光が高密度にキラキラ輝くその風景はまるで銀河や星雲を構成する星々のようで、とても芸術的だった。
ベッドは二つ、おそらく手は出さないと考えていいのだろう。
「素敵」
「そうだろう。君のために用意したんだ」
今日一日、終始よく回る口だった。
それは今日最後となるこの場所でも変わらない。
「さ、話を聞いてもいいかな」
そういって彼は片方のベッドに腰を下ろす。
私は横のテーブルに備えられた椅子に座った。
「何から聞きたい?」
「そうだな、まずは誰を殺してしまったのか、かな」
「両親」
「いつ頃?」
「10年前」
「そうか、10年前に両親を。。。よっぽど辛いことがあったんだね」
「いや、別に」
ちょっと鬱陶しいなと思って殺しただけなのだ。
そんなしんみりと感情移入されても戸惑いを隠せない。
辛いなんて考えたこともない。
施設での生活も、不満はあったが別に満足していた。
「純玲ちゃんが、誰に対しても敵意を剥き出してしまうのは、その出来事が原因なのかな」
「さあ。生まれつきだと思うけど」
「辛い出来事だっただろうからね、そう思うのも無理もない」
この男、何やら様子がおかしい。
私の心の隙を探している様だ。
同情という餌を撒き、私を釣ろうとしている。
「純玲ちゃんは、もうその出来事に整理をつけることができたのかい?」
「終わった過去はどうしようもないでしょ。整理って何を整理するの」
「そう割り切っているんだね」
男は徐に立ち上がり、私の前に立つ。
そして、男は私の背中に腕を回した。
「うぐっ」
手が背中に触れた瞬間、私は男の鳩尾に拳を一撃叩き込んだ。
「何してるの?手出したら殺すって言ったよね」
「いや、すまない。もしかしたら、純玲ちゃんは愛とは何たるかをしらないんじゃないかと思ってね、思わず抱きしめたくなったんだ」
「あっそ、別に理由はどうでもいいけど、次触ったら本当に殺すからね」
「軽率な行動だったよ、すまない」
男は胸を痛そうにさすりながら、元居たベッドの定位置に戻る。
そして隣においていたカバンから、先ほどコンビニで入手していた封筒と、財布から1枚のカードを取り出し、私に差し出した。
「ここに現金200万、限度額2000万のクレジットカードがある。現金はすぐ用意できたのがこれだけだが、もっと欲しければ明日以降用意できる。クレジットカードの暗証番号はxxxxだ」
今の私にとって、とんでもない大金が差し出された。
クレジットカードは買い物などに使えるものだろう、2000万以内の買い物になら自由に使えるということを意味しているのだと思われる。
しかし、この大金に何の見返りを求めると言うのだろう。
「見返りは?」
「君という存在、僕の恋人に、ゆくゆくは妻になってほしい」
「身体は売らないっていったよね?」
「あぁ、僕がこうして君を買っている間は、体は売らなくていい、いつか君を心まで僕のものにする、その日まで」
「こんなつまらない女に本当に惚れちゃったの」
「本気だ」
今、男は私を「僕のものにする」と言った。
残念だ、今日一日行動を共にして、彼なら傍に置いていてもいいと思ったのに、最後の最後で禁忌肢を選択するなんて。
私は立ち上がり、男が現金とカードを差し出した手首を掴む。
掴んだ手首を内側に捻ると、封筒とカードが床に落ちる。
痛がり背中を向けた男をベッドに押し倒し、うつ伏せの状態に馬乗りになる。
背中に回した手首に捻るよう力を込めて、動けないように痛みを与え続ける。
「残念。口を滑らせたね」
「急に乱暴だね」
「あなたが結局身体目当てだったっていうのは分かった。まあそれは薄々気づいていたからいいとして、『僕のものにする』って言ったのがよくなかったね」
「どうしてか、理由を聞いてもいいかな」
「私はね、私が一番かわいいの。私以外の誰がどうなろうがどうでもいいの。だから私は誰かのものになんて絶対にならない。さっきは同情してくれていたみたいだけど、私のこと、何にも分かってないのね」
「親を殺したことも、本当に何とも思っていないのか」
「ええ、名前だって覚えてないわ」
「ははっ、醜いアヒルの子かと思ったら、ただの怪物だったのか」
「そういうこと、ねぇ、ひとつだけ聞いていい?」
「なんだい」
「こんなつまらない女1人にどうしてそこまでしようと思ったの?」
「お前本当に気づいていないのか?そんな面をしていればあちこちで男に声をかけられただろう」
「私、昨日まで他人と関わってこなかったから気づかなかった、私ってそんなに綺麗なのね。ありがとうとは言っておくわ」
「礼には及ばない」
男は押さえつけられたままの手首を痛そうにしたまま、ギブアップと言わんばかりに自由な方の手でベッドを数回叩く。
「それだけ私を買ってくれるなら、そのお金は受け取ってあげる」
「じゃあ、話は受けてくれるんだね」
「いや、引き受けるのはそのお金とカードだけ、あなたのものになる気はないから、ここで殺すわ、惚れられたんじゃ目障りだもの」
殺す、と言った瞬間、男の横顔が引き攣る。
「はあ?僕を殺す?世間知らずのクソガキが、一生後悔するぞ」
「そうかもね、でも関わってしまった以上、殺さない方が後悔しそうだわ」
男の手首に込める力を徐々に強くする。
耳障りな歯軋り音が大きくなる。
「化け物め、絶対殺す、屈辱と後悔の渦中で痛ぶりながら殺してやる!」
「はは、いいね楽しそう!私にも見せてよ!」
掴んでいた男の手首を、容赦なく捻り上げた。
関節が外れる鈍い音が響き、男は悲鳴をあげる。
「未成年のか細い女に痛めつけられて屈辱?変な女に関わって後悔?使い物にならなくなった腕は痛い?」
「殺す!絶対殺してやる!」
「素敵!剥がれたメッキがとっても素敵!」
手を離し、立ち上がって男に行動の自由を与える。
一日中澄ました顔をしていていけ好かない人間だったが、本性とのギャップはとても面白く、死を目前にどんな行動を取るのか気になってしまった。
男はぶらりと垂れ下がる使い物にならなくなった右手を重そうに持ち上げながら、ゆっくり起き上がりこちらに向き直る。
「その身体、使い物にならなくして死ぬまでおもちゃとして使ってやる。大人舐めたこと後悔しろよ」
「いいね楽しくなっちゃう!そんな言葉を吐いて負けてしまったら、あなたは一体どんな懺悔を口にするの?」
「生意気な口から使えなくしてやるよ!」
男はおぼつかない足取りで距離を詰め、利き手とは逆の拳を振り上げる。
「こんな時でも上からなのね」
力なく垂れる男の右手側に潜り込み拳を避ける。
振り向いた男の腹に蹴りを入れると、男は私の座っていた椅子に倒れ込む。
項垂れる男のネクタイの結び目とシャツの間に指を潜らせ、素早くネクタイを引き抜く。
続く男の足蹴りを体を捻らせ躱わし、素早く男の背後に回りネクタイを首に撒き、椅子の背もたれ越しに体重をかけた。
「さあ、もう死ぬまで時間がないよ、どうする?もっと足掻いて!」
男はおそらく「殺す」と連呼している。
首が締まっているので、うまく発声できないようだ。
左手でネクタイを退けようと首を引っ掻き、足をバタバタさせて、何とかこの窮地を脱しようと足掻く姿は、実に滑稽で面白い。
「どうするの、本当に死んじゃうよ!もう終わりなの?まだ若そうなのに、今日会ったばかりのこんな女に殺されてつまんない人生だったね!」
ネクタイにかける体重を徐々に増やしていく。
ばたつかせる手足は次第に弱々しい動きとなり、10分もした頃にはぴくりとも動かなくなった。
私はネクタイを手放し、男の手首に指をあて脈が止まっていることを確認する。
死を確認できたところで、止めどなく溢れるアドレナリンの快楽に浸るためベッドに横たわる。
両親を殺した当時のことも、この快感だけは忘れられなかった。
動悸と浅い呼吸に脳が麻痺する、心地よい瞬間であった。
しばらく余韻に浸ったところで、床に落ちた封筒とクレジットカードを拾い上げる。
これだけの現金とカードがあれば、しばらく生活には困らない。私はそれらをジャケットの内ポケットにしまった。
できればこのままここに泊まっていきたかったが、死体と相部屋する趣味は無いのでホテルは出ることにする。
今日買ってもらった化粧品の紙袋とトートバッグを抱え、オートロックの部屋のドアを開けた先には、見覚えのある雰囲気の人間が立っていた。
厚いダウンにマフラーと帽子、身長はヒールを履いた私とさほど変わらない男だ。
思いがけない来訪者にお互い無言の状態で、どこで見かけた人間か思い出そうとしていたが、私の背後の部屋には死体があることを思い出した。
「連れの男は」
死体のことを思い出すのと同時に男が口を開く。
連れの男が死んでいることがバレれば明らかな容疑者となってしまう状況に手段を選べなくなり、私は思わず自由な方の手で男の腹に拳を突きつける。
「痛っ」
そう声を出したのは、私の方だった。
この男、腹に鉄板か何か仕込んでいる。
闘うことを見越した装備の危険な人物を前に、武器を持たない私は何を考えるまでもなく抱えていた荷物を捨て、その場から走り出した。
しかしヒールという履き物は走りづらく、うまく速度を上げることができずすぐさま男に追い付かれ、手首を掴まれる。
そのまま顔から壁に押し付けられ、身動きが取れなくなった。
「離せ!」
「五月蝿い!連れの男はどうした!」
どうやら聞き入ってもらえそうにない様子だ。
しかしこの男、闘うことを見越した装備であの部屋の前に立っていた。
訳アリである可能性に賭けて素直に吐いてみることにする。
「殺した、あなたも目的は一緒だったんでしょう」
「一緒だが…そうか殺してしまったか…」
男はそうは言ったが、私を抑えるつける手は離してはくれなかった。
体制が悪く男の様子は伺えないが、何かを悩んでいるような沈黙が続く。
だが程なくして、男は電話を始めたようだ。
「事件です、おそらく殺人、はい。場所は東京都...」
どうやら、電話の相手は警察みたいだ。
どうしても避けたかった組織との接触が急に現実になり、私は焦る。
ヒールの先で男のつま先を思い切り踏み抜いてみるが、靴にも鉄板が仕込まれているようで。甲高い金属音が響き反撃は虚しく終わった。
寧ろヒールの踵が腱に食い込み、私の方がダメージを負う。何もかもが裏目に出た。
武器も持ち合わせておらず、動きを拘束されている状況で抵抗する術は尽きたように思えた。
「すぐ警察が来る、もう少し待っておけばよかったものを、短期な女だ」
「目的は一緒なのにどうして」
「こういうのは専門家の仕事なんだよ、一般人が手を下したとなれば見過ごせるわけないだろ」
私は警察が到着するまで同じ姿勢で拘束されたまま、身柄を引き渡された。
施設脱走より約30時間、短い外界での暮らしであったが、知らないものに囲まれた刺激ある時間は楽しかった。
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2015年12月31日、木曜日。
勾留から6日目。あれから私は取り調べ室と拘置所を行ったり来たりする生活を続けている。
施設にいた頃よりもずっと狭い世界。外の空気が吸えず息が詰まる毎日だ。
今日は依頼していた国選弁護人が面会に来る日らしい。
疑いようのない立派な容疑者をどうやって弁護してくれるのか見ものである。
正午過ぎ、弁護人との面会に臨む。
会話用に穴が空けられたアクリル板越しに現れた男は、ボサボサの髪にサイズ感の合っていないダボダボのヨレたスーツに身を包んだ、猫背髭面のなんとも清潔感のない男だった。
「こんなべっぴんたぁ、美人局にひっかかって殺されるのもしゃあねえなぁ」
顔を合わせて開口一番美人局とは、やはり男というのはどいつもこいつも失礼を生業としているらしい。
「頼りない上に失礼な弁護人」
「失礼なのはお互い様じゃねえか」
そう告げ弁護人とされる男は椅子に座る。
「早乙女純玲、ちょうど今日が誕生日で15歳か、成人の男殺すなんて、若えのに度胸あるなぁ」
「褒め言葉として受け取っておくわ。手を出されそうだったから殺しただけ、美人局のつもりはない」
「未成年に手を出そうとした男なんざ死んで当然だな、よくやったよお前は」
かなり思想の強い言葉に同席する警官が弁護人を睨む。
「あら、まともな感性してるのね。そんな男初めて」
「美人局に煽てられてもねぇ」
そう言って弁護人はカバンからホッチキス留めの紙束をとりだし、ペラペラと捲り出す。
「お前、あれだろ、10年前に親殺した娘」
「そう。なんだか私有名人みたいね、みんな私のこと知ってる」
「そりゃそうさ、実名報道こそされちゃいねえが、当時ネット上ではお祭り騒ぎだったんだ。名前が出回るまでそう時間もかかっちゃいねえ」
インターネットは施設にいる時もアクセスできたが、私の名前を検索しても何もヒットしなかった。
あれは施設の人間によって通信内容を選別されていたためだったのかと、今悟った。
「それで、先週の土曜日に収監されていた児童自立支援施設を脱走、翌日夜には逮捕に勾留、ってもうちょっと頭使って行動できなかったのか」
「頭より先に体が動くタイプなの」
「バカだねぇ」
「五月蝿い」
男はどうしたもんかと言わんばかりに頭を掻きむしる。
「それで?私は施設に逆戻り、って感じなのかしら」
「施設にいた頃は勤勉って聞いてたが、お前さん相当バカらしいな」
「何が言いたいの?」
「未成年は全員ああいう施設で更生されるわけじゃねぇ。14歳になった時点で前科持ちの犯罪者になることだってあるんだよ、特にお前みたいな凶悪犯罪者はな」
施設にいた頃は、理学にばかり没頭していた。
その分野に限っていえば勤勉だったかもしれないが、確かに私は法律に疎かった。
今聞かされた事実にドクンと心臓が跳ねる。
「ちょっとまって、じゃあ私は」
「このままだったら、間違いなく牢屋行きだな、大人しく施設にいれば狭い世界ながらも自由な暮らしができたものを。牢屋じゃあの場所のようにはいかねえぞ」
想定していた最悪の事態を上回った。
外界でどんな事が起ころうとも、未成年故に施設以上の不自由さは無いと踏んでいたのだ。
無知は大罪、といった言葉があったが、その意味を今ひどく痛感する。
「お前さん、施設での生活は来年、つっても明日がもう来年か、の3月までだったんだろう?10年も施設にいてどうしてあとちょっとの3ヶ月我慢できなかったんだ」
「もうすぐ出れる、って思ったら我慢できなくなっただけ」
「…それだけか?」
「それだけ」
はああああああ、となんとも大きなため息をついて弁護人は項垂れる。
「こりゃ牢屋に入っても一生外には出られなそうだな」
「同意見」
弁護人は言葉を続けることなく、私の目を見つめ始めた。
10秒ほど見つめあったところで、弁護人は目を逸らさずに机を2回軽く叩く。
合図を受け取ったかのように、同席していた警官が退席した。
「…何?」
私の心を見透かす様な目でじっと見つめられるのが不快で、たまらず聞いた。
「どうして目を逸らさない」
「逆にどこに目をやればいいの」
「普通の人間なら、人を殺した罪悪感とか後ろめたさで目を逸らすんだがな。15歳で3人も人殺しておいて、純粋なんだな」
「罪悪感とかよくわからないけど、別に殺したことについてはなんとも思ってない」
「恐怖とか不安は」
「ない」
このやりとりを続ける途中も、終始お互いに目を見つめていた。
「すげぇ度胸してんのな。目がぴくりとも動かねえ、気に入った」
「どうも」
本心で漏れたであろう言葉に少し嬉しさを覚える。
「お前、殺しは好きでやってんのか」
「好きでやってはいないけど、それ自体は結構好き」
弁護人はようやく目線を落として、顔の横で人差し指と中指を立て2を表現した。
「お前にこれからの選択肢を2つやる。1つは俺が弁護人として今回の件を法的に決着つけるか、もう1つは俺に買われて自由と大金を手にするか」
「後者が気になるんだけど、説明してくれる?」
「詳しいことはここでは説明できない。が、まあ俺の元で働くってことだ。仕事のペースは月1、2回ってところだな。それ以外は自由に行動してもらって構わねぇし、金はどんなに使ったって余るほどくれてやる」
「そんな好待遇、仕事の内容が余計気になるわ」
「言えることは、お前にとって悪くない仕事、ってことだけだ」
「それを呑んだら、私の今回の殺人の件はどうなるの?」
「チャラにしてやる。明日から正月だもんで、釈放には3日4日かかるだろうが、お咎め無しでここから出してやる」
「私がもといた施設は?」
「もちろんもう関わることはないようにしよう」
「だったらそんなの、飲むしかないじゃない」
思うところは大いにある。そんな提案をする男の素性が計り知れない。
それに仕事の内容が何より気になるが、今聞いた話が本当なら自由な時間が確保される分悪くない条件だ。
前者の提案を受け入れても、事態が好転する兆しは見えない。
消去法で、後者を飲むしかなかった。
「だろうな、じゃあそういう事で話を進めておこう」
弁護人は見つめていた紙束をカバンに戻した。
立ち上がり、部屋を後にしようと背を向けた時、思い出した様に弁護人が最後の一言を残していく。
「あ、言っとくが俺を裏切ったら秒で首が飛ぶって肝に銘じとけ。釈放の日また迎えに来るから、逃げんじゃねえぞ」
釈放されたら適当に頃合いを見て殺すか逃げるかしようと思っていたが、見透かされていたらしい。
デメリットの話を聞いておくのを忘れていた。
# おまけ
とんでもない美女だった。
その美貌を持ってして、どうして売春を行なっているのか理解できないくらいの美女だった。
そんな女が昨日、5人の大柄な男と共にうちのホテルにやってきた。
女の美貌に気を取られ、2人分の料金で6人を部屋に通しそうになったくらいの美女だった。
その時は、男5人と圧倒的美貌の女1人、部屋の中ではどんなことが行われているのだろうかなどと下衆な思考を張り巡らせていたが、翌朝その女の目つきを見て、関わってはいけない人間だと確信した。
いつ殺人を犯してもおかしくないほど、殺意に溢れた目だったのだ。
全てを飲み込む様な漆黒の瞳に見つめられているアルバイトの大学生を見て、一瞬もう殺されてしまったのかと思ったくらいに。
「鈴木さん、やばそうな客だったら、相手にせず帰しちゃっていいからね」
間一髪といわんばかりの凍りついた空間を脱したフロントで、アルバイトの子にそう指導する。
「はい...二言目には本気で殺されるかと思いました...」
平静を装っていたかのように見えたが、かなり怯えていたようで、彼女の目にはじんわり涙が浮かんでいる。
「仕事は大丈夫だから、ちょっと裏で休んでおきなさい」
「すみません店長、そうさせてもらいます」
そう言って彼女は裏の部屋へと入っていく。
あの女は、絶対に関わってはいけない人間だった。
次話、2024年12月20日以降投稿予定。
予約投稿が完了次第、この日時を更新します。