噂を聞きたい人はいますか?
さあ、お待ちかね。
劇薬エッセイの時間だよ。
私が聞いた噂の中で、今でも忘れられない話を書くね。
*
夏休みの終わり、少年野球のチームでのこと。
あるお母さんが私に言った。
「ねえ、怖い話していい?」
「なんですか、楽しそうな顔して。またコーチの話ですか?」
チームのコーチは、地域の人から一目置かれる存在で、少年野球の取り組みにも熱心だった。
だけど、誰しも欠点はあるもので……
「またどっかの保護者さんに手を出したんですか?」
コーチは女癖が悪かった。それは限られた人だけが知る秘密だった。
表向きは爽やかで子どもたちに慕われる、厳しくて有能なコーチ。
その一方で、野球チームの母親たちと、こっそり私的な連絡を取る男性。
「毎度のことながら、そんなクズ男がなんでモテるのか、私にはよく分かりません」
「これがねぇ、野球してるときは格好良く見えるんだわ」
「へぇ、そういうものですか」
そのお母さん——Mさんもアプローチされていた。だけど靡かないのが、彼女のすごいところ。持ち前の経験値の高さで、コーチの誘いを右から左に流し、ドロドロの不倫模様を俯瞰して楽しんでいた。
「で、今度は誰なんですか」
「Tさんの話はしたっけ?」
「えっと、前に聞いたときは……子どもも旦那も放っておいて、コーチの家に入り浸ってるってとこまで」
口に出してみると中々エグい。
「そこまでしといて結局、捨てられたんだって」
「えっ!」
「でも未練タラタラで、いまだに連絡来るらしい」
「うわぁ〜……恋する女コワ……」
Tさんは二十歳で子どもを産んだ。年齢ゆえの大変さもあったと思う。遊び足りなかったのか、何か満たされないものがあったのか。
これは筆者の勝手な推測である。
「次は誰ですか?」
「それがさぁ……」
Mさんは苦笑してスマホを操作する。
「コーチとやり取りしてたら、こんなスクショ送られて来て」
それはLINEのトークだった。
ホテルに行くだのなんだの、浮かれたやり取りが書いてあった。
「この人さ、あたしの友だちなの」
「マジすか」
「しかもさぁ、あたしと一緒になってTさんの噂して『ないよねぇ〜』って言ってたんだよ」
「ん? どういうことですか」
「こいつは、自分もコーチと繋がってるのを隠してたの。そんであたしの前では何食わぬ顔でTさんの悪口言ってたんだよ」
「うわ……しかもそのスクショを、コーチ自身がMさんに送ってきた、っていうことですか」
「そう。もう誰も信じられんわ」
Mさんは笑っていたが、私はドン引きだった。
ここに出て来る登場人物は、その当時、私以外の全員が既婚者で、小学生の子どもを育てていた。
外から見ればまことに《幸せで平凡な暮らし》をしているはずの人々が、なぜか、二股三股上等の不倫劇を繰り広げているのである。
この後、Tさんの子どもは性格が激変した。
それまではとても聞き分けの良い、学年の皆を引っ張っていくような存在だったのに、周りに当たり散らして物を壊すようになった。
コーチは女だけでなく、お金にもだらしなかったようで、詐欺でお金を騙し取ろうとしたところ、現行犯で逮捕された。
彼には十歳の娘がいたけれど、家族ともども引っ越していった。
これらの出来事は全て実話だ。
私とMさんの会話については、時系列がわかりやすいよう多少の脚色を加えたが、ほとんど当時の会話そのままである。
ここで怖いのは、コーチと関係を持った母親たちのその後である。
彼女たちはコーチが逮捕のち拘留されてから、顔を見にも行かなかった。
もちろん家族の手前、会いに行けないことは明白ではある。
しかし、あの浮かれたトーク画面と、現実の冷淡さの、この落差はどうか。
そうして自分の不義を隠したまま、今も、普通の平凡な母親の顔で、地域に住まいしている。
*
こんな古句がある。
みな人の心の底の奥の院
探してみれば本尊は鬼
奥の院とは、家の中でもっとも中央にある部屋だ。
思い浮かべてみてほしい。
貴方は今、立派な造りの日本家屋の前に立っている。
このような立派な家に招かれて光栄だと、心密かに喜んでいるかもしれない。
門扉から入ると、丁寧に剪定された松の木があり、落ち葉のひとつもない石畳から表玄関に入る。立派な上り框に案内され、拭き清められた板敷の廊下を渡る。
そして案内された部屋は、障子が貼ったばかりのように真新しく、畳も青々と輝く和室である。
そんな静謐な場所で、貴方は正座をする。
この家を訪問して最初に挨拶する場所だ。当然、もっとも尊ぶべきものがあるはずだと、貴方は辺りを見回す。
先祖の遺影、もしくは位牌、または神棚か、仏壇か。
しかし表れたのは、醜悪な人喰い鬼だった。
貴方は突然のことに為すすべなく、鬼の餌食となる。
自分が喰われる音を聞きながら、立派に見えていた家の容は、自分を誘い込むための擬態だったと知る。
つまりはそういう歌である。
外がどのように整って見えようとも、内を覗いてみると鬼が住んでいる。
しかも恐ろしいことに、句の初めに「みな人の」とある。
私も、貴方も、他の人も。
この中に入らない人はいないのだ。
人類共通、昔も今も変わらない姿が、「本尊は鬼」だと歌われている。
本当に怖いのは、人間の本性である。
人は皆、心に鬼を飼っている。