粗忽その1 龍の蕾と小さな魔法使い
波打つ藍鼠の巻き毛を三角の布でしっかり包み、幼い女の子が丘を下っている。薄茶色の布には、可愛らしい小鳥が黄色と緑で丁寧に刺繍されている。
ぱっちりとした瞳は、地中海を思わせる水宝玉の色である。くるりと反ったまつ毛もブルーグレーで、子供らしくふっくりとした頬は薄紅色の薄絹を張ったよう。
小さいながらにすっきりとした鼻筋が、生真面目に結ばれた唇へと導く。形の良い唇は、桜桃のように瑞々しい。三角巾から覗く小さな耳は、懸命に歩いている為に上気していた。
「ふーう、やっと森だわ」
丘の麓の野原を越えて、小川の飛び石を渡った先は森である。滑らないように慎重に足を運ぶ。母から習った滑り止めの魔法も使う。渡り切った向こう岸には、もう大木が並んでいた。
「モリバンのサムにおとーけ、モリバンのサムにおとーけ」
藍鼠の巻き毛が、質素な焦茶色のチュニックに跳ねる。初めてのお使いには、とっておきの木靴を履いて行く。
村の子供は裸足が普通だという。領主館で働くこの子は、親切な領主から木靴を支給されている。木靴は歩く度にカタコトと愉快な音を立てるのだ。女の子はそれをたいそう気に入っていた。
「それ、いち、にっ、さん!」
最後の岩を蹴って、柳の根元に着地した。湿った土にはスミレやレンゲが咲いている。女の子の汗ばんだ額を、春風が優しく撫でてゆく。
木靴を履いた女の子は、チョコチョコと速足で深い森へと分け入った。小鳥の呼びかけに答え、蝶々に手を差し伸べながら、花咲く小径を進む。
「まだかなー、まだかなー、まだ見えないなー」
歌うように言いながら、女の子は歩く。
やがて、足取りが重くなった。
「あーあ、疲れちゃったなー」
ぷくんと膨れて、女の子は独り言を言った。辺りを見回せば、休憩にちょうど良さそうな根っこがあるではないか。女の子は、ささっと苔むした根っこに駆け寄ると、ぽすんと座り込んでしまった。
「ふーう」
手の甲で額の汗を拭う。汗で張り付いたインディゴグレイの前髪が、汗と一緒にこめかみの方へと寄せられた。形の良いおでこが、新緑の中でテカリと光る。
「お喉、渇いちゃった!」
小川を離れてかなり経つ。泉や小さな滝もない。きょろきょろと清水を求めて彷徨うアクアマリンは、ひたとひとつの塊に据えられた。
「なんだろ。山菜の芽かな」
うっすらと紫がかった緑色のそれは、蓮の蕾のように尖っている。地面から直に生えていて、葉っぱもなければ茎もない。花びらを絞った蕾と違って、それは鱗を重ねたような不思議な形をしていた。
「うーん、美味しそうな香りー」
鼻を近づけると、新鮮な果物に似た甘い香りがした。幼子の拳ほどもあるその塊に、女の子は思わずガブリと齧りつく。
「ぎゃああー!痛ってぇなぁー!何しやがんだよ、このクソチビ契約者めっ!」
齧った途端に眩い藤色の光が溢れ、叫び声が梢に響く。幼い男の子のような声だった。眩しさに目を瞑った女の子は、パッと口を離す。
「二度とすんなよ!」
怒った声は続けた。女の子はインディゴグレイの眉根を寄せて、不満そうにこう言った。
「クソチビって、ひどい!悪い言葉よね?ケイヤクシャってなに?それも悪い言葉でしょ?」
「はあぁ?何言ってんだクソチビ」
「やめてよ、クソチビって言うの!フリージアだよ!」
フリージアは光に向かって怒鳴り返す。
「そうか、フリージア。俺は森龍のレーグナリッシュヴァルトだ」
光は案外すんなりと、女の子の名前を呼んだ。しかし、光が名乗った名前は、幼いフリージアには複雑過ぎる。
「レー?なに?」
「あーいいよもう。レーで」
「言えるよ!イジワル!もう一回言ってよ」
光は面倒臭そうに鼻を鳴らしたが、それでももう一度名前を教えてくれた。
「俺は、森龍の雨降り森」
「モイリューの、レーグナッシュヴァット?」
「おしい!レーー、グナリッッ、シュ、ヴァルト」
「れー、ぐなりっ、しゅ、ゔぁると」
「そうだ!」
嬉しそうな声が上がると、光はシュルシュルと集まって何かの形を作り始めた。
フリージアは丸い目を更に丸くして、光の動きを見守る。程なく光は、フリージアの顔と同じくらいの大きさになった。光は少し濃くなって、翼を畳んだ龍となる。
「ふわぁ、レーは大きいねぇ」
「なんでぇ、早速レーに逆戻りかよ!ガハハハ」
「きゃあっ!ちょっと!脅かさないでよ」
「ちぇっ、弱っちいチビだぜ」
鱗に包まれた全身は、翼を広げればフリージアよりも大きいのだ。頭は藤色、首から下は黄緑色で、翡翠のような爪が両翼と3本指の足先で煌めいている。美しくはあるのだが、豪快な笑いはフリージアを恐れさせたのだ。
「何よう、嫌な森龍ね」
「プンプンしてると、ほっぺたが弾けちまうぜ」
「ちょんなの、嘘よ!」
フリージアは、お使いの籠から片手を離して頬を抑えた。それを見てレーはまた、ガハハと笑う。
「そういやぁ、フリージア。お前ぇさん、契約者も知らなかったな?」
「知やない。それも悪い言葉じゃないの?それとも名前?」
笑い終わったレーに聞かれて、フリージアも思い出す。
「違ぇよ。森龍の蕾に口付けた魔法使いは、永劫の約束を交わすんだ」
「くち?えご?なに?」
またしてもフリージアには難しい言葉が並べられる。幼い男の子の声なのに。
「うおーっ、面倒臭ぇー!」
「何でしって?」
「要するに、だ。ガブってやったろ、フリージアが、俺を」
「だって、食べ物かと思ったんですもん」
実際レーが蕾のような形をしていた時には、甘く美味しそうな香りを放っていたのだ。
「そりゃまぁ、森龍の蕾は花芽に擬態してるからな。花の蜜に似た香りもするだろうぜ」
レーは不貞腐れてブツブツ言った。
「ほら。わたちのせいじゃないよーだ」
フリージアもむくれて下唇を突き出す。
「あーあ、まったくもう。兎に角だ。フリージアがガブってやったから、俺たちは、この先ずーっと力を合わせて生きてくことになっちまったんだよ」
「えっ、レー、お手伝いしてくれるの?」
レーの説明を聞くと、アクアマリンの瞳がきらきらし始めた。
「まあな。けど、フリージアも俺を助けてくれなきゃなんねぇんだぜ」
「あっ!知ってるよ!それ、お友達だね!」
「んんっ?お友達?どうだろ?そうなのかな?」
レーは翼を畳んだり広げたりしながら考えた。
「よくわかんねー」
「なあんだ、レーにもよくわかんないんだ!」
「あ、いや、契約のことは分かってんだ。お友達ってやつが、よくわかんねぇ」
「んーとね、お友達は、一緒にあしょぶの!」
「遊ぶ?遊ぶってなんだ?」
レーは幼いのに色々知っている。だが、人間の世界で起こるあれこれには、かなり疎いようだった。友達も、遊ぶということも、全く知らないようなのだ。
「レー、変なのー」
「変じゃねぇよ!」
フリージアがケタケタと笑いだす。レーは黄緑色の翼を畳んで、きまり悪そうに俯いた。鱗に覆われた細い尻尾が、くるりと足に巻きつく。
「ところでよ、フリージア」
「なに?」
レーは話題を変えることにした。
「その抱えてるやつぁ、何だよ?」
「ん?これ?」
フリージアは、お届け物に目を落とす。
「ああーっ!忘れてたっ!うっかりさんだ!」
「うおっ、急に大声だすなよ」
「ごめん、レー、わたち、おとーけするの」
「おとーけ?」
レーは首を捻る。
「おとーけ。モリバンさんに、おとーけ、なの!」
「あ、森番とこへ持ってくのか?それ」
「うん、そ!」
「急がなきゃ、日が暮れちゃう!」
フリージアは慌てた。すると、レーはペタンと腹這いになった。
「乗れよ、フリージア」
「ええっ、いいの?」
「いいよ。フリージアは契約者だからな」
「へへっ、ケーヤクシャかぁ!ありがと!」
フリージアは契約者がなんなのか結局のところよく解らない。だが、契約者はレーの背中に乗せてもらえるということは分かった。
「うろこ、柔らかいね」
背中に登ろうとしてフリージアが触ったレーの鱗は、柔らかだった。
「まだ子供だからな。大人になると硬くなんのさ」
「ふうん。柔らかいほうがいいのに」
「柔らかいうちは、怪我しやすいんだ。だから、契約した魔法使いに守って貰うんだよ」
「ワカッタ!レーをまもるね!うんとね、わたち、滑らない魔法でしょ、雨に濡れない魔法でしょ、ちっちゃい火を出す魔法でしょ、あとね、あと、うーんとね」
「まあいい、早く乗れよ。後でゆっくり聞くよ」
「あっ、そうだった!」
フリージアはまたうっかりお使いを忘れて喋りだすところだった。レーに促されて、ようやく背中に登り出す。
「うんしょ、うんしょ」
フリージアは小さな足をジタバタと動かして、なんとかレーに乗ることができた。
「落ちない魔法はあるか?」
「あるよ!」
「じゃあ、それ使え」
「ワカッタ!」
フリージアは落ちない魔法を使った。それを確認したレーが飛び上がる。龍にしては小さな翼をバタバタと羽ばたかせて、地面に積もった落ち葉や小石を巻き上げる。
「時にフリージア、お前ぇさん苗字ってやつはあんのかい?」
「ないよ」
「そうか。そいじゃあ、貴族じゃねぇんだな?」
「うん、違う」
「そうすっと、魔法書にあるすんげぇ魔法は使えねぇのかぁ」
レーは残念そうだ。
「まほーしょ?」
「大昔のすげぇ魔法使いたちが作った、どえれぇ魔法がたくさん載ってる本だよ」
「へえー、そんなのあるんだ。レー、そんなこと、よく知ってるね」
「おう。森龍も山龍も、龍ならみんな知ってるぜ」
どうやら龍たちは、魔法に関わることなら人間の世界についても知っているようだった。
フリージアは領主館の召使い棟で生まれた。豊かな穀倉地帯デュラム領の小高い丘のてっぺんに、青い屋根の館が建っている。3階建ての本館から徒歩で30分程歩いた所に、赤い屋根の別棟がある。
領主一家の側近は、本館に部屋を持っていた。それ以外の人々は皆、ここ2階建ての別棟で暮らしている。デザート担当班の副チーフを父に持ち、護衛魔法団の団員を母として、フリージアは生まれた。
「すごい魔法が載ってるご本かあ。読んでみたいなあ」
「貴族じゃねぇと、読めねぇんだよ。残念だがな」
「ええー、つまんないのー」
苗字を持たない者たちは、そもそも文字が読めないのだ。魔法書は貴重品でもある。
「レー、わたちがそのご本読めるように、お手伝い出来ないの?」
「うーん、今んとこ、無理そうだぜ?」
「やってみてよ」
「まあ、いつかな」
「お約束だからね!」
「う、そうだな。よし、約束だ!」
幼い魔法使いと森龍の子供は、晴れやかな笑顔を交わした。頭上で差し交わされた枝の間からは、明るい陽射しが降っていた。
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続きます