始まり
昔から何を食べても満腹にならなかった。
どんな量でも高級な料理でも、挙句の果てに虫を食らってみても、空腹は収まらなかった。
両親には気味悪がられ、捨てられた。
「すぐに帰ってくるから」
そう言われて二年がたっても両親は帰ってこなかった。食べ物のごみであふれかえった自宅を近所の人が通報しなければ、施設にも行けなかったのかもしれない。
不思議と、悲しくはなかった。
思えばその時から僕の頭にあったのは、たった一つの思いだけだったのかもしれない。
満腹になりたい。
ただそれだけだった。一度でいいから、腹いっぱいまで飯を食べてみたかった。
どうせ空腹だからと思って、施設ではほとんど飯を食べなかった。それなのにぐんぐんと伸びる身長に、施設の先生も仲間も不気味さを覚えているのが自分でも分かった。
「ちょっとくらい食べなよ、大喜くん」
この施設の中でいちばんやさしくて、一番変なのは水口先生だと気づいたのは、とうとう誰も話しかけてこなくなってきたのに、心配そうな表情で話しかけてきた時だった。
飯は食べない。ほとんどしゃべらず、表情も変えない。なのに身長は施設の中で一番高かった僕に話しかけてくるなんておかしいと自分ながらに思ったからだ。
先生の笑顔を見ていると、どうしてか不思議な気持ちになった。
彼女が美人であるということもあるのかもしれないが、それ以上に恐らく、何かが先生にはあった。
そんな水口先生がいきなりいなくなったのは、僕が中学三年に上がった年の五月だった。
本当に急に居なくなって、何も聞かされていなかったから僕は驚いた。
一度、施設の所長に居場所を聞いてみたことがある。
所長は僕がしゃべったことに驚いていた。
「あ、ああ。水口先生は、諸事情あっておやめになられたんだ。詳しいことは私も知らない」
本当に知らないのかはわからないが、とにかく僕が水口先生の居場所を知る手段はなくなった。
別にそれによって何か問題が起きるわけではなかったが、もうこれから僕に話しかけてくる人がいないのだ思うと、少し寂しいような気がした。
そんな僕にいま、人が訪ねてきたらしい。
「大喜くん、お客さん」
所長に言われて、驚きはしなかった。驚くというより戸惑っていた。今まで僕を訪ねてきた人など、一人もいなかったのだ。
全くもって見当がつかなかったが、応接室で待っていた男を、僕は全く知らなかった。
無精ひげを生やして髪はボサボサ、いかにもだらしないその男は鋭い目を光らせて偉そうに応接室の椅子に座っていた。
「すみません。出て行ってくれますか?」
そう言って所長を部屋から追い出すと、男は二人で話がしたかった、といった。
僕は聞いた。
「何の用ですか?」
男はまっすぐ僕を見つめていった。
「お前、満腹に興味はあるか?」
―――満腹。
その響きに思わず僕は目を見開いた。
「……知っているんですか?僕のこと」
「満腹に興味はあるか?」
僕の言葉を無視して、男は繰り返しいった。
「……はい」
僕は素直に言った。
「ついてこい」
男は立ちながらそう言うと、応接室の扉を開けた。
僕はその背中を追った。
「ちょっと、こいつ借りますね」
男は所長に言った。
所長は、はいと言って頭を下げた。
施設に入ってから、学校以外にどこか行こうとするのは思えば初めてだった。まぁ学校にも、大して行かなかったのだが。
「どこに行くんですか?」
聞くと、男は立ち止まった。
「どこというよりは、お前の覚悟の問題だ」
振り向いてまっすぐ見つめてきた男に対して、僕はどういう表情をすればいいのか分からなかった。
「覚悟?」
「満腹になる、覚悟だよ」
僕には男の言葉の意味が理解できなかった。満腹になる覚悟って、いったい何なんだ?
「できてるか?」
「……はい」
ずっと望んでいたことだ。覚悟も何もない。
「それならいい」
そう言って、男は路地裏に入っていった。そして僕も入ってきたことを確認すると、どこにしまっていたのか何やら白いもやのようなものを取り出して、食え、といった。
僕は男の顔を見たが、早くしろとでも言わんばかりの顔だったので、もやを受け取り、一口に飲み込んだ。
―――何だ、これ…
僕は周りを見渡した。見慣れた風景がそこにはあった。
―――施設だ。戻ってきたのか?
イマイチ状況を飲み込めないでいると、施設の廊下を、水口先生が歩いていた。
「水口先生!」
僕は確かにそう言ったのだが、僕の声は水口先生に届いていないようで、先生は僕の前を素通りしていった。
―――見えてないのか?僕が。
他の人ならともかく、水口先生が僕を無視するとは思えなかった。いや、そう思いたかったのかもしれない。とにかくこの時の僕は、僕が目に見えない存在なのだと思っていた。
―――これは先生の記憶なのか?
僕はそう考えたが、決定的な証拠は何もなかった。
先生に引っ張られるように先生の向かう方向へ、自分の意志に関係なく僕は向かっていた。
先生は職員室に入っていった。扉は閉められてしまったが、僕は扉を通り抜けることができた。
「ちょっと水口先生ー。いつも言ってますけど、大喜には構わなくていいんですからね。飯も食わないし、ろくにしゃべりもしない。要するに気味悪いだけですから、あいつ。あんな奴には構わなくていいんです」
けだるげな、迷惑そうな声を発したのは所長だった。
僕はそんな所長を見たことがなかった。
水口先生は萎縮しているようで、小さく見えた。
「で、でも、彼にだってきちんと思いがあって、考えがあるんです。放っておくなんてことはできません」
勇気をもって発した水口先生の言葉に、呆れたように所長は近づいて、自らの手を、水口先生の下半身へと回した。
「そんないい子ぶらなくても大丈夫ですよ。あいつはね、何かしでかすわけでもない。けど学校は行かないし、何かするわけでもない。そんな奴にかまっている暇があるならほかの子の面倒も見てやってください」
水口先生は俯いて黙った。そこで僕の視界がはじけた。
「別れたい?」
場面が変わって、ここはどうやら水口先生の家のようだ。水口先生の目の前には、背の高い男が立っていた。
「別れるってどういうこと?」
水口先生が、男に近づいていった。
僕の存在がまだ見えないようだ。
男はめんどくさそうな顔で先生から離れようとした。
「やってられないんだよ、もう。最近はずっと暗いし、最初の頃みたいに一緒にいて楽しくないんだ。出て行ってくれないか」
「出て行ってくれって……明日からどこに住めばいいの?仕事も、養うって言ってくれたんだからやめて、実家もないんだよ、私」
「どうにかしてくれ。もう一緒にいられないんだ。ごめん」
「…それって浮気しているから?」
水口先生の言葉に、男は表情を変えた。
「知ってたからね、だいぶ前から。それでも我慢してきたのに、こんなこと言うなんて……」
「とにかく、出て行ってくれ」
男は無理やり、水口先生をマンションから追い出した。
大雨の降る中、水口先生はフードをかぶって、ふらふらと当てもなく歩いた。
そして僕の視界がまた、弾け飛んだ。
場所がまた入れ替わった。そこは駅のホームのようだった。
水口先生は、ホームの最前列で電車を待っていた。先生はどっと疲れがたまったような表情をしていた。電光掲示板には、先週の日付が書かれていた。
その時、水口先生がふらっと倒れて、駅の線路内に転落した。
「先生!」
僕は叫んだ。先生が僕の方を向いた。
「大喜くん…?なんでここに―――?」
その時、今僕は実体を持っているのだと気づいた。
僕は線路内に飛び込んだ。
「先生、掴まって!」
僕は手を伸ばした。先生が僕の手をつかむ。電車が走ってくる音が、ホームの人々の悲鳴とともに聞こえてくる。
先生を引っ張って手繰り寄せる。
僕は先生を先にホームに上がらせてから、ホームに上がった。
そのほんの数秒後、電車が駅を通り過ぎていった。
周りを人に囲まれながら、先生が僕に向かっていった。
「ごめんなさい、大喜くん。こんな目に遭わせちゃって」
そう言いながら、先生がだんだん、薄くなっていくのが僕には見えた。
―――なんで、なんで―――?
そう思いながら、僕にはどうすることもできなかった。
―――やめてよ、先生。ついさっき、先生の何が不思議なのか、わかったところだったんだ。先生が不思議だったんじゃないんだ。僕が、僕が、こんな気味の悪い人間に話しかけて、笑顔をくれる先生のことが、好きだったんだ。
声にならない思いを抱えながら、僕は先生を抱えた。
どんどん、先生が消えていく。どんどん、どんどん。
そしてすべてが消えそうになった時、先生は一滴涙を流した。
「ありがとう大喜くん。所長さんたちは大喜くんを物みたいに言うけど、私は知ってるよ。大貴君がこれ以上ないくらい、優しいってこと。頑張って、大喜くん。大喜くんにしかできないことがきっとある。大喜くんは人を助けれれる子だもの。大喜くんは、先生の自慢の子だよ」
そう言って、水口先生は消え、僕の視界が、もう一度弾けた。
「思ったより早かったな」
男はそう言った。僕は地面にひざをついて、肩で息をしていた。
「残念ながら、水口由香はあのまま死んだ。ストレスによる過労で倒れて、電車にひかれて死んだらしい。お前が見てきたのは、水口由香の魂の記憶だ。そしてお前が、彼女の魂をすくって成仏させたんだ。もうわかるな?お前が喰らうのは、人の魂そのものだ。だから、普通の食べ物じゃ満腹になることなんて一生ねぇんだ。どうだ、人生初めての満腹の感想は?」
男に聞かれて、僕は初めて気づいた。これが満腹というものなんだと。気づいて初めて、何ていいものだと思った。これぞ追い求めていたものだと、僕は思った。だがなぜか、溢れてくるのは涙だった。
僕は自分を責めていた。
―――僕のせいで、先生は疲れ切ってしまっていた。毎日近くにいたのに、気づけなかった。何もかも、僕のせいだというのに。
僕の様子を見て男は言った。
「ソウルイーター。それがお前の職業だ。悲しいことばかりだ、この仕事は。だが人間の最期を救うことができるのは、お前しか、『魂の喰人』しかできないことだ。やりたくないなら、今ここで見たこと、したことすべて忘れて、施設に帰れ」
その時僕の脳裏に、さっきの先生の言葉がよみがえった。
―――大喜くんにしかできないことがきっとある―――
先生は僕を許してくれていた。僕のことを優しいといってくれた。自慢の子だといってくれた。
僕も先生の、『自慢の子』でありたい。先生が僕にしてくれた分、人に優しくなれるようになりたい。
今僕は、心からそう思った。
そして僕は、心の中で先生向かって言った。
―――先生、きっとこれが、『僕にしかできないこと』です―――
気づくと、明るかった空は夕焼け色に染まっていた。
僕は涙を止めて立ち、男の目をまっすぐ見た。
「やらせて、ください。ソウルイーター」
僕の言葉に男は言った。
「いいだろう。お前に、魂の喰らい方を教えてやる」
僕にしかできない、最期の救済。それが僕の、これからの仕事だ。
―――先生、ずっと大好きです。だからずっと、見ていて下さい―――
夕焼け空を見上げたその瞬間、僕の新たな人生が始まった。
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