祭りの前
エピローグとなります。
ゆるりとお楽しみ下さい。
この世界で初めて蝉の声を聞いたときは、凄まじい感動に連れられて、掻きむしるような郷愁の念が胸に去来したものだ。
松の木にしがみついて命の灯を叫ぶ蝉が、燐子は嫌いではなかった。
絶命の影が背筋を這い上がり、空を舞うための羽が用を成さなくなって地に伏しても、力の限り叫び続ける。
今思えば、その姿に、父ら侍の姿を投影していたのだろう。
木の窓枠に腰掛けた燐子は、高く、遠くなった青空を見上げていた。果てしない背伸びを続ける入道雲を、名も知らぬ鳥たちが横切った。
日の本と違い、カラッとした暑さだ。過ごしやすいが、どこか物悲しい。
ぽつんとした孤独に目を細めていると、小屋の入り口の扉が開く音が聞こえた。音のしたほうへと視線を移すと、見慣れた赤髪の女性が、見慣れぬ服装に身を包んでいた。
「ちょっと、燐子!まだ着替えてないの!?」
目くじらを立てたのはミルフィだ。
青色の半袖ジャケットを着用した彼女は、腰に手を当てて燐子を睨んだ。重心を片足に寄せた拍子に、短い白のスカートが揺れる。
惜しみなく晒された太ももに、一瞬だけ視線が落ちるも、直ぐにミルフィの咎めるような視線に気付き、燐子は一つため息を吐いた。
「…なあ、本当に私も――」
「はぁ?まだ文句があるの?私はアンタより我慢してるんだから、黙って着替えなさいよ」
そう言ったミルフィは、忌々しそうな顔つきでスカートの裾を握った。皺くちゃになった白の生地が、どこか哀れだ。
確かに、一度口にした言葉を翻すことは、到底感心されたことではないが…、と燐子はミルフィの服装を見返す。
「じ、ジロジロ見る暇があるなら、早く着替えてよ。ローザがもう表に来てるの」
「…承知した」
この上、ローザにまで小言を言われてはたまらない、と燐子は不承不承といった様子で着ていたシャツのボタンを外して、服を素早く着替えた。
そうして燐子は、素早くミルフィと同じ服装に着替えた。厳密には、全く同じではない。
下はミルフィのようなミニスカートではなく、生地の厚いズボンを履いていた。
(アレを履くなど、死んでも御免だ)
あんな色んな意味で頼りない服装で戦うなど、集中できるわけがない。
そもそも、王女親衛隊の紋章が入ったものを身にまとうこと自体、大幅な譲歩の結果なのだ。これ以上、何も譲るものか。
その紋章が刻まれたマントを、バサリと音を立てながら羽織る。これもミルフィと――ついでに言うと、ローザともお揃いだ。
小屋を出ると、建物の直ぐそばにローザが立っていた。「行くぞ」と顔を本城のほうへと向けたローザに従い、足を進める。
不必要とも思えるほどに幅広な廊下を進み、大きな広間に出る。すれ違う使用人たちは、一様に黒と白の給仕服を着ており、燐子たちの顔を見るや、深々と頭を下げていた。
使用人たちの中には、自分たちよりも年若い少女たちも多くおり、不思議なことにミルフィは、そうした少女たちから、笑顔でこっそりと手を振られていた。
どうやら、こちらで過ごした数ヶ月の間に、ミルフィは少女たちと仲を深めていたらしい。実際、その姿はよく城のあちこちで散見されていた。
「ふん」と鼻を鳴らしながら、ミルフィを横目で睨む。珍しく、彼女は気付いていない。
広間の奥の低い階段を上がると、目の前に大きな門が立ちはだかった。城門でもあるまいし、と初めは思ったものだ。
肩越しに振り返ったローザが、緊張を感じさせる声で尋ねる。
「準備はいいか?」
「も、も、もちろんよ…!」
ローザの緊張が伝わったからか、それとも、元々緊張していたからなのか、ミルフィが声を裏返して言った。
「ミルフィが緊張してどうする」と呆れ混じりで呟くと、ミルフィに凄まじい眼光で睨まれたため、大人しく口を閉ざす。
ローザが、門の横に備えてある鐘のようなものを鳴らした。低く、建物中に響き渡りそうな音に、思わず、片目を瞑る。
すると、目の前にあった門が独りでに開き始めた。一瞬、妖術か何かかと驚きに目を見開いたが、よくよく考えれば、中で近衛兵が開けているだけだ。
短い青髪を揺らして、ローザが先頭を行く。門を抜けて直ぐにまた階段があった。そこを上がると、両脇にいくつもの柱が並んだ小さな広間に出た。
今日は、竜王祭開始前の打ち合わせということで、参加する王族連中と、彼らが連れてきている代理の戦士の顔を拝める初めての機会であった。
(どうやら…、既に役者は揃っているらしい)
右斜め前方に凛と立っているセレーネにだけは見覚えがあったが、その他は初めて見る顔だった。
短い金髪を煌めかせ、赤と白の鎧とマントで身を包んでいるのが、おそらくはヘリオス第二王子だろう。
それは、彼の後ろに姦しい女性の取り巻き連中がいることや、自分やミルフィを観察する視線から下劣な印象を感じたことから、何となく想像できる。
なるほど、確かにあの男は王の器ではないらしい。
それから燐子は、ローザに導かれて王女の後ろに回りつつも、セレーネとヘリオスの間に立つ、痩身で眼鏡の男に視線をやった。
あれが第一王子だろうか。いや、王子アストレアは優れた武芸者と聞いた。あの優男からは、戦う者特有の鋭さは感じられない。
だったら、どこに――。
心のどこかで、腕の立つ相手と相まみえることを楽しみにしていた燐子は、ほぼ無意識的にアストレアの姿を探した。
「おい、兄貴はまだかよ」見た目と噂通り、粗野な口調でヘリオスが言った。
「別に、私もヘリオス兄様も、お兄様がいらっしゃらなくても構わないでしょう?」
この一ヶ月ほどで分かったことなのだが、セレーネ王女は、基本的に使用人や親衛隊などの身内には優しげな口調や態度を崩さないが、その他の者たちには冷徹さを隠さないときも多かった。
派閥というものなのだろう。卑劣な態度さえ取らなければ、燐子は別にどうでも良かった。
毅然とした表情でヘリオスを睨みつけたセレーネの横顔を眺めていると、突然、さっき燐子たちが通って来た扉が、音を立てて開いた。
反射的にそちらを振り向く。
自分たちの役割を全うできずに、慌てている二人の近衛兵の間から、痩身の人影が現れた。
照明の光を吸い込み、銀色に瞬く髪。まとったマントの隙間に埋もれているためによく見えないが、肩ほどの長さはあるだろうか。
軽鎧のような防具に身を包んだその人物は、自分に向けられる視線を厭うように目を細めると、一切の躊躇もなく、階段を上がった。
――間違いない、コイツだ。
前述した防具にも、腰に帯びた剣にも、王族に相応しい豪奢さはない。しかしながら、燐子は、その人物が例の第一王子アストレアなのだと直感していた。
非常に中性的な顔立ちをした彼は、ヘリオスとセレーネとで正三角形になるような位置で立ち止まると、一同を興味なさげに睥睨した。
拒絶的とも言える視線だったが、その眼差しがセレーネのところでぴたりと止まったときだけ、得も言われぬ色に染まった。
奇妙な眼光に貫かれ、硬直していたかのように思えたセレーネだったが、ほとんど間を置かずに、ぼそりと口を開いた。
「…本当に、お戻りになられたのですね…」
彼女のほうも、一言では言い表せない感情を込めて、言葉を紡いでいた。
アストレアは妹の言葉に視線を逸らすと、じろり、と痩せた眼鏡の男を睨んだ。
「さっさと始めろ。僕は暇じゃない」
「おいおい、兄貴が遅刻して来たんだろぉ?その言い方はねえぜ」
傍若無人な物言いを弟のヘリオスが咎めるが、アストレアは彼のことなど見えていないかのように、ただ、じっと眼鏡の男を見据えていた。
「…ヘリオス兄様の言う通りです。この国の統治者を目指す者がそんな様子では、お話にならないのではないですか」
セレーネの口調は、先程と同じでツンとした感じだったのだが、冷徹さと言うよりも、どこか不機嫌さのようなものが滲み出ていた。
その言葉が気に障ったのか、アストレアがセレーネのほうへと体を向き直した。
やはり、どこか不思議な面持ちをしている。顔そのものは燐子そっくりに無愛想なのだが、妹たちと同じ灰色の双眸には、相手の心中を静かに図るような様子が感じられる。
不意に、彼が言った。
「王位継承の権利を放棄しろ、セレーネ」
「なっ…」
これには、セレーネ本人だけではなく、その場にいた全員が絶句していた。
最初は、下手な挑発か何かなのかと思ったが、アストレアの目は本気そのものだった。
「な、何を馬鹿なことを仰られるのですか!私は――」
「お前は、支配者となるには弱すぎる」アストレアが、やおら言葉を遮る。「それでは、あの病弱な女の二の舞だ」
「お母様のことを、そんなふうに言うなんて…!」
野次を飛ばすヘリオスや、冷静になるよう二人に提言する眼鏡の男を放って、セレーネが語気を強くし、言葉を重ねた。力がこもり過ぎて、真っ赤になった両手が痛ましい。
「確かに、私はヘリオス兄様や、貴方のように腕は立ちません。ですが、そのための剣は用意してあります」
ここで初めて、セレーネが燐子を振り向いた。一瞬とは言え、この状況だ。その場にいる人間のほとんどが――特に、ヘリオスとアストレアは、無遠慮な視線で燐子を見つめた。
「だから、お前は弱いというんだ」
燐子から視線を外した彼は、途端に弱々しい声になって呟いた。ただ、それも数秒のことで、直ぐに元の無愛想な顔と声になって続ける。
「お前の弱さとは、何も腕前だけのことを言ったんじゃない。それ以前に、心の脆弱さが目に余るんだ」
「私は…!」
「ほら見ろ、こんな言葉で心を乱される。それで、国を背負う重責に耐えられるはずもない」
よほどセレーネのことが気に入らないのか、それともまた他の理由か…。
何にせよ、王女と第一王子の間には、知らされていない確執があるようだ。
悔しさで肩を震わせたセレーネから、バツの悪そうな顔で目を逸らしたアストレアは、「さっさと、どこか権力のある男の元へ嫁入りでもするといい」とセレーネにとっても、そして、燐子にとっても聞き捨てならない言葉を吐き捨てた。
あまりの侮辱に声も出ないのか、セレーネは口をぱくぱくさせながら、顔を真紅に染めてアストレアを睨みつけていた。
その灰色の瞳がうっすらと濡れ出したところで、不意に、今まで黙っていた燐子が口を開いた。
「ぺらぺらとよく喋るものだ」ミルフィすらも、驚きのあまりぎょっとしている中、燐子は薄ら笑いを浮かべる。「それが、お前の言う心の強さか?」
「誰だ、貴様。よそ者が話に割り込むな」
割り込むも何も、そうさせたのはお前たちだ、と心の中でぼやく。
燐子にも、権力者への嫁入りを薦められた経験があった。
跡継ぎを残すという意味で、大事なのは分かる。燐子だって、初めは父の用意した縁談に従った。
ただ、権力というものは往々にして人を腐らせる。少なくとも、彼女が見合った相手は皆そうだった。
燐子は、そうした相手によって、自らの生き方を侮辱された。
今までの自分を、否定された。
殺してやりたいと、心の底から思えたのは、後にも先にも彼らぐらいのものだった。
そうした想いを抑え、半殺しで済ませたのも。
「ふん。ならば、よそ者に醜態を晒すような真似はよすのだな」
「ちょっと、燐子ぉ…」とミルフィが後ろからマントの裾を引くも、適当にあしらう。「少し黙っていろ、ミルフィ」
「貴様、僕を侮辱するのか」ギロリ、とアストレアの眼差しに殺意がこもる。
そんな顔も出来るではないか、と場違いにも感心してしまう。
今直ぐにでも相手を斬り捨てられる…そんな、孤高の戦士の目だったからだろうか。
「どうした、心が乱れておるのではないか?」
痛烈な皮肉に、アストレアが無言で剣の柄に手を伸ばした。
――やる気か。面白い。
燐子もそれに応え、鞘を握り、鯉口を切る。
自分を止めるミルフィの声も、ローザの声も、届かなかった。
それほどまでに、目の前の相手から放たれる殺気が強烈だった。
死合える、と本能的に察する。
命の研磨が、また出来る。
こんなにも早く。
私は、まだ強くなれる。
試したい。
ただ、その一心で、燐子が抜刀しかけたとき、唐突に水を打ったように静かな、だが、どこか有無を言わさぬ凛とした声が聞こえた。
「燐子」声の主は、セレーネだった。「剣を抜けば、死罪ですよ」
そう告げた彼女は、自分にだけ見える角度で、『ありがとう』と口の動きだけで表現した。
それから、一歩前に出ると、ヘリオス、眼鏡の男、最後にアストレアを見据えて、ゆっくりとした丁寧なアクセントで言葉を紡いだ。
「貴方の言う通り、私は弱いのでしょう。しかし、貴方たちのように、己の責任を放棄してしまう者たちよりは遥かにマシです!」
ぴしゃり、と言い放った王女を見て、燐子は口元を綻ばせた。
(これは、出過ぎた真似をしたかもしれぬな)
そのまま、理由も分からずミルフィに踵を踏まれた彼女は、抜きかけていた太刀から、そっと手を離すのであった。
これにて、二部は終わりとなります。
個人的には、尻すぼみな作品になってしまったと思っております。
駄作に付き合わせてしまって、申し訳ないと思う反面、
ここまでお付き合い頂けたこと、
温かい感想を頂けたこと、
ブックマークや評価をして頂けたこと、
それらにとても感謝もしております。
ご要望があれば、きちんと続きを書かせて頂こうと考えておりますので、
是非、ご感想、ご評価頂ければと思います。
皆さん、本当に最後までお付き合い頂きありがとうございました!
それでは、またどこかで。
an-coromochi より




