不完全で、臆病な
六章スタートです。
そろそろ終わりが近いですが、
よろしければ、最後までお付き合い下さい。
今回はミルフィ視点です。
遠く、何かが吠えるような低い音でミルフィは目が覚めた。
普段は何もなくとも日の出と共に起きるような体質であるため、何かに起こされるという経験は、彼女にとって新鮮だった。
両腕の節々が痛み、思わず顔をしかめる。やはりというか何というか、筋肉痛だ。
寝台の隣に置いてある、折り畳まれた鋼鉄のロングボウが鈍色に輝くのを目にして、小さく息を漏らす。
それにしても一体何が、と思って、隣のベッドで眠る燐子を起こさないように身を起こして立ち上がり、窓の外を覗く。
「わぁ…!」
ミルフィは、その両目に映った景色を見て、思わず小さな感動の声を漏らした。
紅蓮の蛇のような火柱が曇天を貫いている。そこで、昨日フォージが話していた内容を思い出した。
鉄竜炉は生き物のように深夜に眠り、日の出と共に勝手に動き出して、夜明けの一報を知らせるように火柱を上げるのだ。
朝日に引けを取らない輝きを放つ火炎を見て、この町で暮らす人間にとっては、この炎こそが真の太陽なのかもしれないとしみじみ思い耽る。
燐子も起こしてあげたほうが喜ぶだろうか。別に彼女も寝起きが悪いわけではないので、叩き起こしたところで文句は言わないだろう。
ミルフィは何度か逡巡した後、起こしてやることにした。
「燐子、起きて。良いものが見られるわよ」
自分が寝ていた隣のベッドに近寄る。珍しく布団を被って寝ているのだな、とその盛り上がっている部分に手を置くと、想像していたよりも厚みの無い感触が掌から伝わって来て、目を丸くした。
勢いよく布団を剥がすと、そこはもぬけの殻だった。
やっぱり誰もいない。もしかすると、早起きして鉄竜炉の火柱を見に行ったのではないか。不思議な物や景色が好きな彼女のことだ、別におかしな話ではない。
普段は怜悧で、感情を極端に動かすことのない燐子だからこそ、その予想が的中していたとしたら、少し可愛らしい。
さっと自分も外に出る支度をして、廊下へと続くドアへ向かう。
支度の途中に、二度ほど両腕の痛みで呻き声を上げてしまったが、折角なので、その痛みの原因となったロングボウも担いでいくことにした。
向かいの部屋の扉が半開きになっているのが目に入り、ついムッとした表情をしてしまう。
確か、あの部屋はシュカが泊まっていた部屋である。何かと燐子を気に入っているようだったシュカのことだから、もしかすると、燐子が部屋を後にしたのに合わせてついて行ったのかもしれない。
頭の隅のほう、特に、いつも余計なことを考えている部分が稼働し、二人が仲睦まじく火柱を見上げている場面が描き出される。
「もぅ、面白くないなぁ…」
燐子は意外と馬鹿なので、直ぐに色仕掛けに引っかかりそうで心配だ。
何が心配なのかは、自分でもはっきりとは分からない。とにかく不愉快なのだ。
最悪の場合、燐子の尻を蹴り上げることになるかもしれないが、それは浮ついた彼女が悪いのだ。
数秒前とは打って変わって、不機嫌そのものといった顔つきになって下へ向かったミルフィであったが、宿屋の出入り口を跨いで、右か左どちらの道から行こうかと視線を巡らせた瞬間、ぎょっとして息を詰まらせた。
目を閉じて、俯いたまま、ぴくりとも動かない燐子がそこにいた。
まるで、眠ったまま死んでいるようだと不安になったが、ミルフィが近くに寄るなり、燐子は直ぐに、大儀そうに目蓋を上げた。
「何をしてるのよ、こんなところで…」雰囲気の通り、気怠そうに燐子はぼそぼそとその声に反応した。「ミルフィ、か」
ミルフィか、ではない。もっと言わなければならないことが沢山あるだろう。
頬は擦り傷で赤くなっており、腕のところは切ったのか、シャツが破れて周りは血で滲んでいた。
一番心配させるのは、その首元である。
強い力で締めあげられたと分かる、不気味な色の痕がまざまざとその白い首元に残っていた。
彼女のトレードマークのポニーテールも、今の燐子の様子を反映したように力なく萎びており、見ていて痛々しいほどに憔悴していた。
はっと、彼女の隣に立てかけてある大きな刀に目が行った。
鈍色に朝日を反射しているそれは、ほんの少しだけ錆のような血が付着していた。
抜き身のまま置いてある武器は、燐子がいつも使っている刀と少しだけ似ているが、サイズ感が違っていた。
もしや、これが彼女の言っていた、『大太刀』とかいう武器なのではないだろうか。
――だとしたら、まさか。
「どういうこと」燐子は答えない。
「それ、例の流れ人が使ってるって言ってた大太刀?」ずっと地面を見つめている燐子に、思わず語気が荒くなる。「返事しなさいよ!」
「すまん」と素直に謝罪の言葉を口にした燐子へ、そんな言葉が聞きたいのではないと詰め寄る。
近づけばその首を絞められた痕が、いっそう残酷に見えて、襟首に伸ばしかけた手が止まる。
唇も切っているようで、かすかに赤く腫れ上がっているし、よくよく見てみれば、首周りの青痣の辺りには二箇所ほど歯型がついている。
燐子がこんなにも傷を受ける相手だったことに驚愕しながらも、そんな敵と戦うというときに、自分を残して一人で行ったことがどうにもやるせなかった。
「そんなに私は頼りない?」ぼそっと零した声が、自分のものとは思えないほど弱々しく響いた。「相棒って言ってくれたのは、嘘なの?」
二人の旅だって、言ってくれたのに。
「私たちの、旅じゃなかったの…?」
ようやく俯いていた視線が上がり、正面に立っていたミルフィの瞳とぶつかった。しかし、その眼差しにはいつもの凛とした気高さは宿っておらず、相当に疲弊しているようだった。
それを見て、ミルフィはぎゅっと両の拳を強く握りしめた。
その手の中に、自分を苛むものを捕まえているかのように、容赦なく、ひたすらに。
やっと近づけたと思ったのに。
何でそんな大事なときに、頼ってくれないのだ。
「ミルフィは私の相棒で、これは二人の旅だ」掠れた声で燐子が告げる。
ならば何故、とこちらが尋ねる前に、燐子は風に揺れる枯葉の如く首を振ったかと思うと、話を続けた。
「私の我儘なのだ、許してくれ」
燐子の懇願するような瞳と声に、もうそれ以上、何も聞けなくなってしまう。
それはきっと、許してくれという言葉の前に、何も語らない自分を、という文言が付いているように思えたからだ。
こんなにも弱々しい彼女は、今まで一度しか見たことがない。
今の彼女の表情は、初めて二人でアズールに向かう道中で、燐子が夕焼けを見つめながら浮かべたものとそっくりだった。
今にも泣き出しそうに見えるのに、決して涙を流さない。
泣かないことが強さではない、と語ったのは燐子のほうなのに。
ミルフィは、理由を告げようともしない燐子の頭を強引に抱き寄せた。
いつもなら、自分も彼女も激しく動揺するはずの行為にも関わらず、互いに沈黙を守っていた。
何も語らないこと、語らせないことが、果たして本当の優しさなのだろうか?
どれだけ傷ついていても、苦しんでいても、その傷が目に見えなければ、その苦悩と苦痛の深さは窺えない。
本当は話してほしかった。何がそんなに燐子を苦しめているのか。
本当は話してくれと言いたかった。自分が全部受け止めるから。
それなのに、それができない私も彼女も、きっと不完全で臆病な人間なのだろう。
お読み頂き、ありがとうございます。
聞かなかったこと、言わなかったこと…後悔しなければいいですが。
まぁ、人間、選ばなかったほうのことを忘れられないものですからね。




