砕け散るキャンディ
二部の主要戦闘シーンはこの節で終わりとなります。
少しでもお楽しみ頂けた方は、ご感想を頂けると幸いです。
もちろん、厳しい意見もお待ちしております!
雲の切れ間から再び顔を覗かせた半月が、朱夏の顔を半分だけ照らし出す。
「残念だけどぉ、燐子ちゃん、私のこと、殺してはくれないみたいだからぁ」燐子の声に反応して、首筋から顔を離す。「お礼はこっちでしてもらうねぇ?」
再び首筋に走る鋭い痛み。今度は少し強めに噛まれたようだ。
いつでも首を締められるようにか、両手は依然として大太刀の上から動いていない。
こうやって、何度も抵抗できない相手を嬲り殺してきたのだろうか。
もう一度顔を上げた朱夏は、興奮したように息を荒くし、熱い吐息を漏らして瞳を潤ませていた。
「は、まるで犬だな」
私などを襲って、どうしてそんなに夢中になれるのだろうか、と変に冷静な部分が顔を覗かせる。
しかし、そうして現実から目を逸らせていたのも束の間で、直後に急接近した朱夏の香りに意識を引き戻された。
近づく、星のようなアイオライトに釘付けになったとき、朱夏の桜色の唇が自分のそれと重なる。
「んんっ…」
空気穴に蓋をされたように息ができなくなって、頭が真っ白になる。いや、鼻から呼吸すればいいのだが、何が何やらでそれもできない。
事態を飲み込めず、目をぱちぱちさせていた燐子の口内にぬるりとした感覚が侵入する。
「ん、んぐっ…!」
反射的に両手に力を込めて、朱夏の顔を遠ざけようする。しかし、彼女は微動だにしない。
渇いた唇が、慣れない他人の唾液で潤う。
息を止めて、そのままされるがままになっていると、多少満足したらしい朱夏が自ら体を離して言った。
「あれ、もしかして初めてだったの?」にんまりと笑う。「うふふ、それなら、ごめんねぇ?」
明らかに自分を煽っているとしか思えない、朱夏の言葉。
反応したら負けだと思い、冷静さを装って鼻を鳴らす。その態度がお気に召さなかったようで、朱夏はさらに挑発するように言葉を続けた。
「燐子ちゃんは、殺されたくないからって、黙ってされるがままになるタイプじゃないよね。抵抗してもいいんだよぉ?」
「ふん、それが貴様の趣味か?」こちらも負けじと反発するように呟きかける。「随分と歪んでいるな」
皮肉のつもりで吐いた言葉だったのだが、朱夏は少し考え込むような素振りを見せた後、「確かにそうなのかもぉ」と場違いにも真剣な態度で得心していた。
「そうだ、燐子ちゃんも言ってよ」朱夏が妙案だと目を光らせる。「『何でもするから命だけは』ってやつ。私、あれ大好きなんだぁ…」
恍惚とした表情で呟いた朱夏の顔を見て、その言葉の意味するところが理解できた燐子は、腸が煮えくり返るような憤りを感じた。
背中に感じる鉄の冷たさが、嘘みたいに一瞬でなくなっていく。
それは確かに、義憤と形容できる怒りだった。
「貴様は、どれだけ人を貶めれば気が済むのだ!」
朱夏はその言葉に、少しだけ驚いたような面持ちをした後、ゆっくりと目を細めて答えた。
「相手が自分に屈服する瞬間を楽しめないなんて、嘘だよ」
「何を、言っている…!」
「私たちは、相手を征服することに生き甲斐を感じている。どんな手段でも良い、権力でも、財力でも!そして私は――」
ぎゅっと喉元が押し潰される。突然息ができなくなって手足をばたつかせるが、ぞっとするくらいの笑みと力で押さえつけられて、全く動けなくなる。
「暴力ッ!私は、これで幸せになれる!り、燐子ちゃん!私の疼きを満たして!」
最早、まともではない。何もかもがイカれている。
同じ人とは思えない、悪鬼羅刹の思想と所業。
――誰かが、斬らねばならん。
彼女が押さえつけている首筋が、どくん、どくんと脈動している。再び無限の暗闇が眼前まで迫るも、不思議と意識はハッキリしている。そのうち、朱夏の手が離れた。
朱夏が、激しく咳き込む燐子の唇に噛み付くように何度も口づけを落とす。
その拍子に唇か、舌か口内か、どこかが切れたようで血の味が口の中いっぱいに広がった。そしてその血液を、砂漠に残った最後の一滴が如く、朱夏が一生懸命に音を立てて吸い取る。
星屑のような輝きを放っていた瞳も、今やもう狂気一色に満たされていて、そこには、どんな光も差し込む隙のない暗闇が蠢いていた。
先程までは、脳味噌が砂糖でできているとしか思えないほど甘い声を出していたのに、ここに来て、唐突に無感情な口調になって朱夏が告げた。
「燐子ちゃんもね、別に何もしなくてもいいんだよ。きちんと、最後の瞬間まで声を出して壊れてさえくれればぁ…」
「…貴様の縮尺だけで、他人の価値を決めるな」ようやく息が整って、何とか強がりを発した。
「そんなに怒らないでよ、燐子ちゃん」
また、朱夏の顔が眼前まで迫る。しかし、今度は接吻はされなかった。
「燐子ちゃんは強くて綺麗だから、ちゃんと心を込めて可愛がってあげる。あんな女たちと同じ扱いなんてしない、燐子ちゃんは、私の大事な大事な、ブラックダイヤなんだから!」
こちらを見下ろす朱夏の顔を見上げる。雲の隙間からかすかに見え隠れする星と月の光が、燐子の激情を一際熱く燃やした。
そのように言われたところで、何も嬉しくなどない。
人をモノ扱いする朱夏と、自分が同じもののはずがない。
彼女を斬るのに、理由を探すのはもうやめるべきだ。
もう一度唇が重なった瞬間、左手で強く朱夏を抱き寄せた。朱夏の瞳が、喜びか驚きかで見開かれた後、またぞわりとした舌の感覚が口内を這い回る。
その隙に、素早く右手を腰に伸ばして、地面と背中の間で平たくなっていた小太刀を抜いた。
多少、体に掛かる負荷が強くなって、息が詰まるような苦しさを覚えたが、構わずに相手の脇腹目掛けて小太刀を突き立てる。
刃が鞘を滑る音を聞いて、本能的に朱夏が身を反らしたことで、小太刀の切っ先が虚空を穿つ。きちんと彼女の体を縫い留められていなかったことが悔やまれる。
だが、向こうが自ら体を離してくれたおかげで、不意を打たずとも両手の自由が効くようになった。
即座に小太刀を捨て、落ちていた太刀を両手で握り直す。それから、未だに馬乗りになったままの朱夏に向け、虫でも追い払うように渾身の薙ぎを繰り出す。
「わわっ!?」慌ててそれを後ろへ下がって躱す朱夏は、焦燥感を滲ませた面をしていた。
朱夏の唾液が入り込んでいるだろう唾を地面に向かって吐き捨てる。少し品がない気はしたものの、こうでもしなければ穢された心地がしてならない。
もう油断はしない。迷いもしない。
結局、こういうときに肝心なものは一つ、殺す気があるかどうかだ。
絶対に許さん。
今更ながらに、自分に与えられた屈辱に怒りを滾らせ、今度は普段通り、八双に構える。
天を穿つように、切っ先は垂直に立てる。
防御主体はやめだ。後の先の取り方は、何も『受け』始動でなくとも問題はない。
距離を取った朱夏は、大太刀をぐるんと縦に回した。遠心力によって風を切った銀閃が、月輪のように煌めく。
「そうそう、燐子ちゃんはそうでなくっちゃ。それでこそ――」
「御託はいいから、さっさと来い」自分でも驚くほど冷たい声が出る。
構えた太刀が、まるで自分の怒りを吸い込んだかのように、頭の中がクリアになる。
いつもこうだった。迷いを切り裂き、心の決まる瞬間は。
「六文銭を忘れるな、三途の川が渡れぬぞ」
「うわぁお、格好良い」ぺろりと、唇を舐めて、「それじゃあお言葉に甘えて」と加えた朱夏が件の構えを取る。
そうそう何度も同じ手が通じると思うな、と心の中で苛立ち混じりに呟く。
真っ直ぐに突っ込んでくる朱夏の剣先から目を逸らさず、ただそのときをじっと待った。
足元を通る魚を見つめる、鷺の如く。
無数にある、かすかな隙の中から、確実に一閃が通る瞬間を吟味する。
その刹那が、必ず来ると信じて。
それまで、ただ、待つ。
朱夏の大太刀の間合いに入る。
切っ先が動き出す。
振り下ろされる、自分の脳天に向けて真っ直ぐ。
たとえ、朱夏のほうが身軽であっても、力が勝っていたとしても。
死と隣合わせの時間と空間に立って待っていた燐子の視覚に、一縷の間隙が光って見えた。
立てていた太刀の切っ先を水平に寝かせながら、真っ直ぐ朱夏とすれ違うように進む。
動体視力と反応速度は、私のほうが一枚上手だ。
その一閃を、すんでのところで、大太刀の根本を使い朱夏が防いだ。
燐子としては、反応されたこと自体に驚きはしたものの、だからといってその先を考えていないわけではなかった。
切り抜け、相手の背後に回ると同時に、全身のバネによって振り向く。
その回転を利用して、太刀を朱夏の背中に振るう。
真っ白な刃が、再び隠れた月の代わりに現れたように、三日月状の弧を描く。
地上に舞い降りてきた月閃光は、振り向く余裕もない少女の背中を綺麗に引き裂き、鮮血を巻き上げた。
声もなく、少女が地に伏す。
白を基調とした片袖のない服が、真っ赤な血で染まった。
純白の刀身を穢すように付着した血液を、少女に背を向けてから血振るいして飛ばし、そのまま左の鞘にゆっくりと仕舞った。
手応えはあった。絶命するような傷ではないだろうが、もうまともには動けまい。
くるりと反転し、朱夏へと目線を向ける。
うつ伏せに倒れたまま、両手で地面を押し上げて何とか起き上がろうと足掻いている朱夏のそばに寄る。
地面に膝を付き、浅い呼吸をしている少女の体を仰向けにして、未だに気に入らないにやけ面を晒している朱夏を見下ろす。
「嬲ろうとはせず、殺しておけば良かったのだ」勝利の高揚感を抑えながら続ける。「私の勝ちだ」
しかし、朱夏は敗北に顔を歪めることなく、愉快そうに笑いながら答えた。
「あぁ…えへへ、気持ちいいなぁ、や、約束通り…殺してくれるんだね、燐子ちゃん」
大好きだよ、ととろけるような声で付け足した朱夏が心底恐ろしいと思う一方、何が彼女をここまで歪ませたのかと、酷く虚しくなった。
子どもをそうさせるのは、大人が作り出した時代だ。
自分で、フォージに偉そうに言ってのけたではないか。
せめて、朱夏の望むように私の手で殺してあげるべきなのだろうか。
…いや、それでは問屋が卸さんだろう。
彼女が嬲り殺しにした魂や、その狂気的な目的のために犠牲になった魂が、それを望むかは分からないが。
「いや」燐子は眉をしかめる。「私の手では殺さん」
朱夏の腕を掴み、引きずっていく。ずるずると体と地面が擦れる音と、大太刀の鞘が擦れる規則的な音。その音が止んだとき、二人は鉄竜炉の大穴の前にいた。
穴の中を覗き込む、高さはざっと四、五メートルほどか、もう少し高いか。
本来ならば、もっと高低差があるのだろうが、幸か不幸か、昨日焼いた骸骨の灰が夥しく積み重なり、表面が天井の穴に近づいてきていた。
「ここからなら、灰が緩衝材になって死なずに済むだろう」
同じように穴を覗き込んでいた朱夏が、燐子のやろうとしていることを察したらしく、慌てた様子で口を開いた。
「ま、待って燐子ちゃん、こんなの酷すぎるよぉ、ね、ちゃんと燐子ちゃんが殺して、お願いだから…」
甘えるような声。
…もう、聞きたくなどない。
「この灰の中には、貴様が殺した女の灰も混ざっている」
彼女は、死んだ後まで朱夏がそばに来ること嫌がるだろうか。
そこまで考えて、燐子は内心鼻を鳴らして自分の思考を嗤った。
死んだ人間が、悲しんだり、怒ったりすることはない。
だから本当は、これから自分が言うことは空っぽの言葉だ。
「い、いや、嫌だよぉ燐子ちゃん。ちゃんと――」
「地獄で彼女に詫びろ」朱夏の言葉を遮る。「きっと、許してはもらえないだろうが」
そこまで告げると、「嫌だ、嫌だ」と泣き喚く朱夏の体を、大穴から鉄竜炉の中に放り込んだ。
想像していたよりも軽い体は、簡単に宙を舞った。
落下していく小さな体。
舞う金糸、揺らぐスカートの裾。
体に続いて落ちていく、涙の粒。
何もかもが、燐子の心に影を落とした。
灰の海に落ちた彼女は、案の定、大した怪我もしていないようだ。だが、どのみち道具も他人の手も無しに、この円筒を登り切ることはできまい。
くるりと踵を返し、まだ大声で何かを叫んでいる朱夏を置き去りにしたまま、大太刀のほうへと戻る。
これは流れ人が死んだ証拠として、明日フォージに見せよう。
もう、少女は死んだ。死んだのだ。
お前が殺したんだ、と誰かの声が聞こえた気がする。
黙れ、分かっている。私が、殺したのだ。
明日の日の出と共に、目覚めの炎を巻き上げる鉄竜炉の火炎が、朱夏の肉体を燃やし尽くす。
それまで、朱夏は怯えて過ごすのだ。
深く暗い夜の闇と砂塵に阻まれ、朱夏の悲鳴は誰にも届かない。
子どもの死に方では、いや、人の死に方ではない。
自分は結局、朱夏の言ったとおり彼女と同じものなのかも知れない。
最後に朱夏へと告げた言葉は、自分自身に向けて言った言葉でもあった。
私が斬ってきた幼子たちは、私を許しはしないだろう。
コツコツコツ、と階段を下りる音と共に、遠雷のように朱夏の悲鳴が聞こえてくる。
さようなら、と呟いたつもりだった。だが、それが声に出ていたのかは分からない。
きっと、兄妹たちを埋めたあの日も、私はそう呟いたのだろう。
教えてくれ、斬り捨てた兄妹たち。
貴方たちも、地の底であんなふうに泣いていたのだろうか。
五章はここまでとなっております。
後は、物語を次なる舞台へと移すための章が始まります。
盛り上がりに欠けるかもしれませんが、
是非、お付き合いください!




