同じ穴の狢
距離を離して息を整えていた朱夏は、自分の肩の傷口から垂れる血液をぼうっと見つめていた。
一体、何を考えているのかと様子を観察していると、突然、朱夏は自分の肩に唇を寄せて赤いエンブレムのような傷口に舌を這わせた。
わざと立てているとしか思えないリップ音を響かせた彼女は、しばらくすると満足したのか顔を離し、ちろりと舌なめずりしてみせた。
「はぁぁ…ふふ、楽しいねぇ、燐子ちゃん」
その眼差しには、初めて会ったときのような好奇の光と、恍惚とした闇が覗いている。
「…ふん」朱夏の言葉に同調しかけた自分を忌々しく思いつつ、鼻を鳴らす。
「あ、そうだ、約束覚えてる?」
「約束?」構えは崩さぬまま問う。「鉄竜炉のコアを見つけられたら、ってやつ」
そういえば何か条件を出していたな、と数日前の記憶を漁る。
確か、一つ目は見逃すことだった。今にして思えば、そんな条件立てる必要もなかったのだ。そもそもこいつの目的は…。
――目的は、何だ?
帝国軍特師団、と名乗った以上、朱夏も王国に不利益をもたらすため、あるいは帝国の利益となるために行動しているのか?例えば、鉄竜炉のコアという竜の遺産を持ち帰ろうというような…。
いや、彼女が盗んだ鉄竜炉のコアは、骸骨を呼び寄せるための囮として使ったようであった。
そうなれば、シュレトールの町を混沌とさせるためだったのか?だが、それならば、わざわざ鉄竜炉を囮に使わずとも良かったはずだ。
どうして、鉄竜炉を再起動させるような真似をしたのか。
「おい」率直な疑問が湧いて、口が自然と動いた。「お前は何故、あんな遠回りな真似をしたのだ。そもそも目的は何だ」
自分の話の途中に割り込まれた朱夏は、少々不満そうな顔になったのだが、直ぐに浅い笑い声を上げると、それについて語りだした。
「最初は、コアを国に持って帰って、私の装備の材料にしようかな、って思ったんだけど…」
「だけど?」燐子は単調に呟く。「もっと面白くて、綺麗なもの、見つけたから」
面白くて、綺麗なもの…?
朱夏の呟きを脳内で反芻していると、途端にぞくりとした感覚が背筋を走った。
自分の目を真っ直ぐに射抜いた菫青石の淡い輝きの中に、狂気の光が乱反射している。
「さっきの条件の話、覚えてる?」
確か、二つ目の条件は、「朱夏に何かお礼をすること」であった。
朱夏はそれを耳にすると、「ぴんぽーん」と呑気な声を上げた。しかし、一瞬のうちに真剣な顔になった。
「言ったでしょ、綺麗なものを集めたり、愛でたり、壊したりするのが大好きだって。だけどね、それ以上に大好きなことがあるの」
自分の脳細胞の一つ一つが、朱夏の内に秘められている邪悪さに対して、警鐘を鳴らしていた。
それに応えるように、姿勢を一段低く身構える。
「それは、何だ」そう尋ねるのが、正しい気がした。「それはね」
朱夏は、おもむろに左手を大太刀の柄から外すと、燐子につけられた傷口に掌を強く押し当てて、その傷口を抉るように指先を動かした。
「う、ぐ…うぅ、ふふふ…!」
痛みに喘ぐように深い吐息を漏らしながら、少女は笑った。
今、自分の目の前で行われている凶行の意味がまるで分からず、燐子は目を白黒させて、その行為の意味を問う。
「な、何をやっている…!?」
だが、彼女はその問いには何も答えないまま言った。
「私が綺麗だと認めた人に、私のことも愛でてもらうこと、それから壊してもらうこと!」
「壊して、もらうだと」つまりそれは、殺してもらうということなのだろう。「そうだよぉ、それが、私の望み」
「…狂っているな」
吐き捨てた燐子の言葉へ、嬉しそうに顔を歪ませて笑う。すると、朱夏はゆっくりと、再び最上段に大太刀を構え直した。
あんなふうに傷口を抉ったら、戦闘に支障をきたす気がするが、今のところ異常は見られない。
「ねぇねぇ、お礼の内容、私が決めてもいいよねぇ?」
燐子が是非を答える前に、朱夏は満面の、だが、どこか腐敗したような笑みを浮かべて小首を傾げた。
「私を、殺してくれる?」
甘い、砂糖菓子のような声だ。
口の中でとろけて、舌で転がしているうちに、消える。
そうして、朱夏は人を殺めるのだろう。
飴を舐めるのと同じ感覚で、舌先で突いて、弄って、殺す。
「殺す、か」
朱夏のことを知れば知るほど、自分にできるたった一つの方法が、この問題を解決する最適解だということを証明してしまう。
それが誰にとって、何にとって、最も適切な解答なのかは分からないが。
「お前が望もうが望むまいが、元よりそのつもりだ」
朱夏は大変満足そうに頷くと、「ありがと」と呟いた。
何がどう、『ありがとう』なのか。甚だ疑問である。
相対したまま、少しずつ距離を近づける。
まだ間合いは遠いが、相手の突進力と破壊力を考えれば、決して安心できる距離ではない。
だが、そうのんびりと様子見を続けるつもりもない。
皆が起きる前に、終わらせてしまいたい。
特に、弟のいるミルフィには気取られたくなかった。
どんな理由であれ、子どもを殺すのだ。私がそうしなければならない必然性など、今の私にはないというのに。
騎士団に全て伝えて、取り調べでもさせたら良かったはずだ。
ならば、何故だろうか。何故、私は朱夏と斬り合うのだ。
同じ日の本の人間としての義務と考えたのか。
強い相手と戦えるからなのか。
無駄な犠牲を出さないためか。
説得できると考えたからなのか。
考えても仕方がないことが、頭の中をぐるぐると回り始める。
元の世界にいた頃は、多少の疑問を感じても、自分を納得させられる理由があった。
国のため、民のため、誇りのため…。
そう称すれば、何となくそれで良い気がしていた。
例え、子どもや兄妹を斬ることになっても。自分の責務だと思えた。
だが、今は違う。
自由と引き換えに、私はそれを失った。
斬ってもいい理由を失った。
殺しに来たものは殺す。それは変わりのないことであるし、悪いことだとは思わないが…。
不意に、朱夏が私に向けて言った言葉が脳裏を巡った。
『燐子ちゃんだって、楽しんでたじゃん』
違う、私は自分の鍛錬が好きなだけで、決して命のやり取りが好きなわけではない。
『笑ってたよ』
違う。
『別にいいじゃん、悪いことじゃないんだし』
自分勝手な御託で、他人の人生を奪い去ることが、か?
『私も同じだから』
私は――。
「同じだね」
唐突に、朱夏がこちらの思考を読んだかのように告げた。
心の中の葛藤が声に出ていたのかと思ったが、彼女の表情から察するにそういうわけではないようだ。
「私たちは同じ穴の狢だよ。自分にとって大事なもののためなら、他人を犠牲にしようが、巻き添えにしようが構わない」
「貴様と一緒にするな」固く目を瞑ってから、かすかに瞳を見開き足元を睨みつける。「私は、貴様のような鬼子では――」
はっ、と顔を上げた直後、朱夏がこちらに向かって直進して来ているのが見えた。
縦一文字に振り下ろされる一閃を反射的に受け止めるも、その重みで体が沈む。
鍔迫り合いのような形になったため、直ぐ正面に朱夏の顔があった。曇天の空の光条にも似た、暗い金髪が整った眉の上で揺れている。
次第に押し込まれそうになった燐子の顔にぐっと自分の顔を近づけて、煽るように朱夏が口を開いた。
「ほぅら、動揺した」軽いとはいえ、体重をかけられたことで燐子の姿勢がのけ反る。「やっぱり図星でしょぉ?」
「ぐっ…!」
自分としたことが、虚を突かれてこのような失態を犯してしまうとは。
力負けしている相手にここまで押し込まれてしまえば、押し返すことは難しくなってしまう。
案の定、朱夏の馬鹿力に耐えられず、後ろに倒されてしまう。
背中から押し倒される形になったが、大太刀を防ぐ両手の力だけは抜かず、何とか完全な敗北には至っていない。
燐子に馬乗りになった姿勢で、大太刀の刃を押し込んでくる朱夏。
気を抜けば、上から斬りつけられかねない。
今の自分にできることは、このまま耐え続けることと、相手が刃を引いて一撃入れようとした、一瞬の隙を縫って反撃を浴びせることだけだ。
決して諦めはしない、という意思の込められた燐子の黒い瞳を見下ろしながら、朱夏が勝ち誇ったように宣言した。
「あは、終わったねぇ」
「ほざけ…!」
どうにか体重の軽い朱夏の体を跳ね上げられないかと足に力を込めるが、かえって上から押さえつける力が強まっただけで、あまり効果は見られなかった。
そのまま一分もしないうちに、真っ白い太刀の峰が自分の喉元に到達し、徐々に呼吸ができなくなっていく。
朦朧とする視界、朱夏の発する鳥の囀りのような歪んだ嬌声に頭がくらくらする。
このまま酸素が供給されなければ、いずれ刀を握る力は失われ、今や霞んでよく見えなくなっている大太刀の銀の刃に首元を掻き切られてしまうだろう。
(まだ頭が回るうちに、対策を講じなければ…!)
そうは思うものの何も浮かばぬまま、暗闇が忍び寄ってくる。
キーン、という耳鳴りが更に大きくなって、段々と感覚が失われていく。
視界は黒に染まり、鼓膜にはつまらない一音だけが残った。
そんな中でも、嗅覚だけは朱夏の甘ったるい香りを拾い続ける。
この匂い、鉄竜炉に染み付いていた匂いと同じだ。
――負けた。
残った最後の思考がその言葉を綴った直後、首にかかっていた圧力が急に無くなった。
今直ぐに酸素を取り入れなければと思う意思に反して、ひたすら咳き込むことをやめられない。
繰り返し行われる咳で、涙と涎が止まらない。きっと、今の自分はかなり情けのない顔になってしまっているだろう。
目だけを上げると、頬を紅潮させた朱夏が、じっとこちらを見下ろしているのが見えた。
まるで、空腹の獣がやっと獲物を捕らえたかのような、期待感と残忍さに満ちた表情であった。
どうして殺さない、と問いかけようと思ったが、まだ息が整えられず、それができなかった。それでも、せめて、精一杯の反抗として強く彼女を睨みつけた。
不意に、燐子の眼差しをじっと見つめていた朱夏の顔が、ぐっと迫ってきた。
距離が近づくにつれて、その甘い匂いが強くなる。
くらくらするような、強烈な甘さ。
ほぼ零距離まで近づいた朱夏の唇から、真っ赤な舌先が顔を出した。
まるで赤色の蛇のようだ。
ちろり、とその先端が自分の口元をなぞる。
口の端に付いていた涎を舐め取った朱夏は、そのまま首筋まで舌を這わせると、おもむろに噛み付いてきた。
「…っ」斬られるのとは違う、形容し難い痛みに、声にならない声が漏れ出る。
本気で噛んでないのは分かる。子犬がするような甘噛みだ。しかし、歯型はついてしまうだろう。
ぞっとするような感覚に一度目を細めた燐子は、自分の身に降りかかっている理解し難い行為を咎めるように、首筋に顔を埋めた朱夏を睨みつける。
「うふふ」
ほんの少しだけ零れた鈴の音に、燐子は今朝の光景を思い出してしまった。
噛み跡だらけの、人の尊厳を無視したかのような女性の遺体。
…こいつ、まさか。
「…私を嬲る気か、貴様」
みなさん、お疲れさまです。
みなさんのちょっとした楽しみになれればと、執筆しておりますが、
一ミリくらいはそうなれているでしょうか?
何はともあれ、ご覧になって頂きありがとうございました!




