狂気の月夜
今日は、死ぬには丁度いい日だ。
インディアンの諺ですが、そんなふうに生きられる方を、
私は心から尊敬します。
燐子たちも、そういうふうに生きているのでしょうか。
今夜は、美しい夜だった。
シュレトールに来てから初めての月夜。数時間前まで上がっていた鉄竜炉の火柱のおかげで、雲は頻繁に切れ間を作っている。
鉄竜炉は、月が高く昇り、宵が深まると同時に眠るように停止し、陽が昇ると共に眠りから覚めるように火柱を放つらしい。
まるで、本当に生きているようだ。
窓の向こうに透けて見える静かな町並みは、青白い月光を吸い込むことはなく、ただ、ぼんやりと黒い影の中で横たわっている。
規則正しいミルフィの寝息に耳を澄ませて、彼女が確かに眠っていることを確認する。それからしっかりとシャツのボタンを留めて、靴を履いてベッドから下りる。
小太刀と、二本の太刀を腰に佩く。
黒の太刀と小太刀を右側に、白の太刀は左側に。
これ以上、武具による重量の増加は無理だな、と軽く飛んでみて燐子は思った。
その跳躍の音でかすかにミルフィが身じろぎしたが、どうやら深い眠りの中らしく起きる様子は一向にない。
彼女の顔を覗き込む。とても安らかな顔をして床に就いていた。
一人で黙って行動する私を、ミルフィは責めるだろうか?…ああ、責めるだろう。しかし、この件に関しては私が決着をつけるべきだ。
「行ってくる」空気を震わせられたか怪しいほどの声量で、燐子がミルフィに告げる。
忍び足で部屋を出て、階段を下りる。それから真っ直ぐ宿の外に向かい、夏の夜気が充満する大通りに出る。人の気配はない。
それもそうだ、もう日付が変わってだいぶ経つ。それに、今の町の状況を考えたらよっぽどの理由がない限り、こんな時間に出歩くような真似はしないだろう。
もちろん、私にはその『よっぽどな理由』がある。
ざっ、ざっ、と砂を抉りながら歩く足音。
穴を掘るような、音。
誰かの墓穴を掘っている。
零れる涙が、赤茶けた土の上に雫となって落ち、一瞬で砂の中に消える。
瞳を閉じて、その揺らぐ過去の影とざわめきを記憶の彼方に押し戻す。
今宵が月夜なのは、神がこれから行うことを沈黙のままに肯定しているからなのだろうか。
今朝、ミルフィやシュレトールの町民が祈っていた神が?
どうでもいいことを考えている。
私にとって神とは、誰かの信じている都合の良い偶像に過ぎない。
もちろん、それは私が恵まれた身分に生まれたからだということも分かっている。
明日を生きる糧すら確かではない貧しい人々が、死後の安らぎを与えてくれる存在に縋って生きたとしても、何ら不思議な話ではない。
父も信心深い人間ではなかったものの、私の教育係だった人間たちはそれを詳しく教えた。
徳がどうこう、極楽浄土がどうこう。
幼い頃の私には分からないことばかりであった。
そのうち、そうしたものの一切合切を斬り捨てて、私はひたすらに戦場を求め始めた。
階段を、足音を響かせながら上がっていく。
闇を切り裂くように高く、空へ近づいていく。
高く、高く。
そうして辿り着いた場所から、シュレトールの町を見下ろす。
寂しい土地だ。砂と、土、灰色の壁、それから鉄。そんなものしか、ここにはない。
鉄竜炉が弾き出していた火炎以外には、明るく輝くものはなかった。残りのものは鈍色の光だけの場所。
ふと、左手の甲に焼き付いた火傷の痕へ視線を落とす。
骸骨との、いや、こちらに来て命がけの戦いになったときは、おそらくだが、これの力が私を生かした。
何とも形容し難い形をした、火傷の痕、というより紋章というべきなのか。
これに関しても、全くもって分からないことばかりだ。だが、今回ばかりは、あまり使いたくない。
自分の予測が正しければ、これは日の本の剣士としての戦いになる。
この世界ではなく、私たちの流儀に則るべきだ。
そうして感傷に浸っていた燐子の耳に、後方から、先程も空虚な夜を震わせた音が聞こえてくる。
誰かが階段を上って来ている。
やがて、姿を見せた人物を見て、記憶の蓋が再び開く。
そうだ、一切合切を削り落としてきた。
父と、剣と、戦以外の全てを。
どうして、忘れていたんだろう。
私が削り落としてきた兄妹たち。
戦場で死に怯えていた少年少女たち。
涙の雫と共に埋めた亡骸。
この世に神がいるならば、私が死後導かれるのは地獄に決まっている。
血を分けた兄妹の魂も、戦わなければならなかった幼い魂も、そこにはいない。いてはならない。
一つ、息を吐き出す。
「もう、隠す気もないと見える」
その人物は燐子の言葉を聞いて、隙間風のような声を漏らしたかと思うと、背中に背負った大太刀をカチャリと鳴らしながら、燐子の前を通り過ぎ、遥か遠くを見据えた。
「ここはほんとぉに何もないね」
彼女はまるで自分の話など聞こえなかったかのように、呑気につまらない夜景の感想を述べていた。
それからスカートのポケットから折り畳まれた紙を取り出して、ひらひらと自分の目の前で扇ぐように動かして呟いた。
「こんなものを送ってきておいて、燐子ちゃんが気づいてないわけないじゃん」
指の隙間からすり抜けるように、紙が空を舞う。
あれは今朝、自分が彼女に送りつけた果たし状だ。今回の事件に関することで呼び出しをかけた。
彼女はくるりと半回転してこちらに向き直ると、獣のように軽くしなやかな足取りで自分の直ぐ目の前までやって来た。
一瞬、警戒で体を硬くしたが全くもって殺意や敵意を感じさせない顔つきに、ほんの少し肩の力が抜ける。
こいつは、不意打ちで相手を倒して喜ぶような人間ではない。
ぐっと体をこちらに寄せて、彼女が尋ねる。
「ねぇ、どっから気づいてたの?」
「目撃情報と年齢が合う人間は、この町にそう多くはない」
「でも、他にもいたでしょ」試すような瞳だ。「全く察知できないくらい気配を殺せるのは、お前くらいだった」
「ふぅん、でも赤髪じゃないよ?私」
「赤く染まった髪は、ただ返り血に濡れていただけだ」
意識して声が単調になるよう努める。視線も、決して逸しはしない。
彼女はくすりと笑うと、小刻みに相槌を打った。
二人のそばに空いた穴の底では、眠りに就いた鉄竜炉の残り火が死にかけの命のようにチカチカと明滅していた。その光景は、口を開けたまま微睡んでいる怪物のようだった。
幻想的な月光が彼女の頬に差すことで、その真っ白い肌と歪な笑みが浮き彫りになる。
彼女の背を向ける動きにつられるように、スカートが同心円状の軌跡を描き、傘のように開く。
「五行思想では、夏の配色として朱色が挙げられる」カチリ、と右手の親指で鍔を押し上げ、鯉口を切る。「朱夏、お前の名前は日の本の人間のものだ」
左手で黒の太刀を引き抜き、その切っ先を真っ直ぐシュカに、いや朱夏に向けた。
彼女はそれを聞くと、両手の掌を繰り返し重ねて打ち鳴らし、パチパチと乾いた音を立てた。
一見すると小馬鹿にしたような態度も、全ての確証を得た後では、どこか不気味でおぞましい。
「すごいすごぉい」朱夏は両手を天に向けた。雨の受け皿にでもするかのように。「だけどぉ、半分正解」
「…半分?」
てっきりほぼ完全に事態を把握したと思っていた燐子だったため、その言葉は少し意外だった。
「どういうことだ」眉をしかめて、その意図を問う。それに対し朱夏は、小首を傾げて告げる。
「私と戦って生きていられたら教えてあげるよ」
「大した自信だな」
ふふ、と笑いを漏らした朱夏は突然真面目腐った顔をしたかと思うと、背負った大太刀の柄に小さな手を伸ばした。
未だ、その小柄な体躯でどのようにしてあの大太刀を振るうのか、想像もつかなかった。
独特の金属音を掻き鳴らしながら、朱夏の身の丈の一.五倍以上はあると思われる細身の長い太刀を取り出す。
決して軽いものではないだろうに、軽々と片手で振り上げ、自らの頭上で一回転させる。
それから目を閉じて長息を吐いたかと思うと、大太刀を自らの背後に隠すように下げ、こちらに半身を向けた。
――…脇構えか。
大太刀の長さが上手く把握できない。これでは身躱し切りの精度が著しく下がってしまう。
燐子の口元には、気が付けば笑みが浮かんでいた。
久しぶりに日の本の剣術と対面した。
帝国や騎士団の剣術は、あまり洗練されていないように感じる、というか無骨なものが多かった。
あのジルバーさえも、これといった構えを取っていなかった。もちろん、彼の豪胆な性格から考えてみれば、そういったものに縛られない類の剣士であった可能性もある。
「先に、聞きたいことがある」静かに目を瞑る。「なぁに?」
その声に、できるだけ早くしてね、といった響きが含まれているのを感じる。その要望に応えるよう間髪入れずに話を続ける。
「何故、あのように惨たらしい殺し方をした」
ぴくりと、朱夏の整った眉毛が微動した。
「どうして女性を嬲りものにして殺す?自らの欲望を満たすためか」
ふつふつと、自身の中に抑え込んでいた憤りと嘆きが込み上げてくる。天に向けて構えた太刀がその感情を受け止めたように、ギラリと輝く。
「お前に!日の本の剣士としての誇りはないのか!?」
目を開き、まだ間合いの遠くでじっとしている朱夏を睨みつける。彼女は目をくるりと回すと、苦笑いのようなものを浮かべた。少なくとも燐子にはそう見えた。
質問の意味が分かっているのか、いないのか。ハッキリとしない曖昧な反応に、燐子は更に言葉を強くした。
「何故、お前は戦うのだ。その幼さで戦う理由は何だ?そうしなければ生きられなかったのか?」
朱夏は苦笑したまま答えない。
「お前は…っ、何故殺す!?」
侍なのか、武士なのか。
それとも、私と同じでただの剣士なのか。
それは定かではない。だが、彼女にだって理由があるはずだ。
彼女は言った。私と朱夏は似ているのだと。
「答えろ!」
だが、どんな問いかけをしても朱夏は何も答えなかった。
しばらく無言のまま睨み合っていた二人だったが、その沈黙に耐えきれなくなった燐子がもう一度、口を開く。
「何故――」
「なぜ、なぜ、なぜぇ?」
唐突に声を出した朱夏だったが、その表情は明らかに今までのものと違っていた。
好奇の光で輝いていた菫青石は苛立ちで染まり、桜色に色づいていた小さな唇は、禍々しい感情で三日月状に変形している。
その表情には、今と同じ狂気の月夜が広がっていた。
翼を広げるように両手を左右に開いた朱夏の態度は、どれだけ楽観的に考えても、こちらを揶揄しているようにしか思えない。
「あぁ、もうそればっかり!いいよぉ別に、むだむだむーだ!」
「貴様…ッ!」
話せば分かると思っていた。
同じ、日の本の人間なのだから。
だが、違った。
「理由なんてどうでもいいでしょぉ?いいから早く始めようよ!」
「どうでもいいだと?」眼尻をきつくする。「理由のない殺生を認めるのか」
「もぅ、理由があればいいの?」
「無意味な殺生など、日の本の剣士のすることではない」
「はぁ、日の本の剣士ねぇ?」朱夏は小さくため息を吐くと、ほんの少し構えを緩めて言った。「はいはい、分かった、分かった。私はね」
そこで言葉を区切ると、片手を大太刀から外してポケットに手を突っ込んだ。一体何をしているのかと観察していると、朱夏はいつかと同じようにポケットから宝石を放り投げた。
散らばる色とりどりの宝石たち。だが、どの輝きも月の光に相殺されて、味気のないものになってしまっている。
「綺麗なものが大好きなの。キラキラ光る宝石も、色とりどりのキャンディも、綺麗なお姉さんも、私が綺麗だと感じるものは全部好き」
「今、貴様の好みなどはどうでもいい!質問に答えろ!」
「燐子ちゃん、人の話は最後まで聞かなくちゃ。私は綺麗なものを集めたり、愛でたりするのも大好きだけど――」
急に、朱夏は足元に散らばった宝石を踏み潰した。どうやら宝石ではなく、キャンディだったようだ。
粉々に砕け散った飴の破片を、足首を回転させてさらに細かく磨り潰す。
「それ以上に、綺麗なものを壊すことのほうが、だぁい好きなの」
アイオライトの瞳を限界まで見開いた彼女は、出会った頃に見せていた微笑みとは、180度別の種類の笑みを口元に浮かべて宣言した。
何と禍々しい笑みなのだろうか。
そして、何と自分勝手な話なのだろうか。
生きとし生けるものを、戦意のない者を、そんなにも自分本位な理屈で殺めるなど…認めていいはずがない。
「外道が…!」
「はい、もうお喋りはおしまぁい」
そうして再び両手を大太刀に添えて、戦闘態勢を整える朱夏。その表情からは、既に一切の余計なものは削ぎ落とされてしまっていた。
残るものは、狂気。
朱夏と向き合ったまま、二人で円を描くようにゆっくりと回る。
本当は、迷っていた。
彼女が怪しいと踏んだときから、あんな子どもを手にかけていいのかと。
かつて、自分が殺してきた兄妹や子どもたちのように、戦わなければならない少年少女など、今のこの世界には存在するはずがないと思ったからだ。
守るべき国も民もない。
血の呪縛に囚われて、誰かと殺し合う理由もない、今の自分にとっては。
しかし、全てが甘かった。
この世には、こんなにも邪悪に満ちた人間がいたのだ。
ぴたりと、同じタイミングで足を止める。
最早、日の本も異世界も関係ない。
「お前のような人間を、生かしておくわけにはいかない」
全ての誇り高き剣士を代表して、この下劣極まりない鬼子を斬るのだ。
「おいでよぉ、まずは小手調べといこうじゃん」
朱夏にとっては、どこまでも己が充足を満たすことの延長線上なのか、狂気に満ちた笑みは消えずに残っていた。
ルナティック・キャンディ編の佳境となるこの一戦。
どうかお楽しみください!




