流れ人 参
「ちょ、ちょっと!お祖父ちゃんに何してるのよ!」
驚いて体ごと振り向いた燐子の直ぐそこに、村の入口でミルフィと呼ばれていた女性が、顔を真っ青にして立っていた。
だが、燐子の殺気立った雰囲気に危機感を覚えたのか、手慣れた手付きで腰元のナイフを抜いて、逆手に構え直す。
「ミルフィ、やめんか」
「いいから答えろ!違う世界とはどういう意味だ!」
仲裁に入ったドリトンに怒号を飛ばす燐子に対して、次はミルフィが「ちょっとアンタ!剣を下ろしなさい!」と怒鳴った。
今にも飛びかかってきそうな彼女の存在に今気がついた、と言わんばかりに、燐子は大儀そうに瞳だけ動かして相手を見据えた。
その冷酷さと激情が同居した、目の合った相手に、ある種の畏れを感じさせる眼球に捉えられ、ミルフィは一瞬気圧されたように後ずさった。
だが一瞬で元の勝ち気さを取り戻すと、同じことを次はゆっくりとした口調で警告した。
「口を出すな、女。邪魔立てすれば容赦はしない」
「アンタだって女でしょ。こっちだって、そいつを下ろさないと容赦しないわ」
「…やめておけ、こっちはお前らの口にする冗談には、もうウンザリしているのだ」
「下・ろ・せ」
燐子は、彼女の毅然とした態度と言葉を微動だにしないまま聞いていたかと思うと、一度息をつき、それから間を置いて氷のように冷たい声音で告げた。
「そうか」
少し離れた場所から、ドリトンが何か大声を上げているような気がするが、今の燐子には分厚い空気の膜を一枚隔てた先のものに過ぎず、全く意味を成していない。
漲る殺意にごくりと唾を呑んだミルフィは、さらに一歩後ずさったものの、やはりその目元に力を入れ直し、徹底抗戦の構えを取った。
焼けついた鉄板のような空気が室内に立ち込め、外から流れ込む穏やかな薫風も一瞬で蒸発してしまう。
何という恩知らずだ、貴様の弟を獣の牙から助け出したのは自分だというのに。
燐子は滾る怒りを自覚しながらも、相手の構えに注意を傾けた。
度胸はあるようだが、自分と相手の力量差を計ることもできない未熟者のようだ。
全身の筋肉を弛緩させ、いつでも飛び込める体勢を整える。
何事も『緩』の部分が重要だ。
キレのある動きというのは、無駄のない『緩』があってこそ生み出されるものなのだから。
つまり、あのように全身に力が入りすぎて強張った状態では、まともな受けもできないということだ。
一触即発の空気の中、何の前触れもなく燐子が相手へと強く踏み込んだ。
それは電雷の如き踏み込みで、少なくともミルフィからすれば、突然間合いに飛び込まれたような感覚に陥ってしまうほどの速さであった。
地面に向けられていた刃先が半円の軌道を描くように下から前方に振るわれる。
あまりに的確で、あまりに一瞬で振るわれた刃を、ミルフィは身動き一つできないまま眺めていた。
しかし、その刃先は、彼女の喉元に食いつく前にぴたりと動きを止めた。
初めミルフィはその理由が分からず、目をぱちぱちさせるだけだったのだが、不意に背後から彼女にとって何よりも聞きなれた声が届いて、振り向いた。
「ちょっと、二人とも何してるの?」
ぽかんとした表情で背後に立つ彼の顔を見た刹那、ぶわっと全身から汗が吹き出し、自分が今、殺されるところだったのだと気が付いた。
そうして目だけで死神の鎌を振りかざしていた女を確認する。
すると、彼女はたった今人を殺そうとしていたとは思えないほど淡々とした、まるで機械のような瞳で、こちらを自分と同じように覗いていた。
その人間離れしたおぞましさ、冷徹さに、ミルフィは本能的に喉を震わせた。
「エミリオ、危ないから下がってなさい!」
ミルフィは目の前の人間が、おおよそ自分たちとは同じものとは到底思えなくてそう叫んだのだが、当の本人である燐子はというと、じっと、エミリオのほうを見つめてからため息を吐き、刀を引いた。
自分の喉元に突き付けられていた刃先が離れていくのを、わけも分からず見送ったミルフィの隣をエミリオがすり抜けて行く。
急いでそれを止めようとしたのだが、驚きと恐怖で停止していた体は直ぐには言うことを聞いてはくれず、わずかに指先が彼の背中に触れただけであった。
「燐子さん、何でお姉ちゃんを斬ろうとしたの!」
「うるさかったからだ」
「まさかそんな理由で、本気で斬る気だったの?」
「冗談で刀は振らん」
そう冷たく言い放った燐子を見て、エミリオは何かを考え込むように黙り込んだ。
狭すぎるこの一室において、その沈黙は実際以上に重々しく感じられる。
孫が斬られる直前だったためか、異様に蒼い顔をしていたドリトンは、一先ず燐子が矛を収めてくれたことで。安堵の息を漏らしていた。
それからやけに深く沈みこんでいたエミリオに声をかけようと近寄ったのだが、それよりも早く彼が口を開いた。
「多分、お姉ちゃんがガサツだから、何か燐子さんの気に障ることをしたんだと思うけど、そんなに簡単に人を殺しちゃったら駄目だと思うよ」
至極まともなことを子どもに諭された燐子は、不愉快そうに眉をひそめたのだが、彼の悲愴に染まった幼い顔を見て、思わず目を逸らした。
「斬らなかっただろう」
「それは僕が来たからでしょ」
間髪入れずに指摘されて燐子は言葉に詰まったが、このまま言い負けるのも癪だと考え、苦し紛れに愚痴を零した。
「だが、侮蔑を受けて黙っているというのも、武士の名折れではないか」
それは燐子としては生まれたときから自然と口にしてきた言葉で、世間一般においても知らぬ者はいない言葉のはずだった。
だからこそ、エミリオが前と同じで心底不思議そうに首を傾げて呟いた言葉が、にわかには信じられなかった。
「ぶ、ぶし?何それ」
この村では身分の話も子どもに教えていないのか、と燐子は大人たちの至らなさに嘆きながらドリトンのほうへと視線を投げたのだが、彼はまたも無言を貫いただけであった。
その柔らかくも知性に満ちた顔つきがかえって彼女の不安を駆り立て、藁にも縋る思いで、先ほど斬りかかった相手の顔を見つめた。
「な、何よ」
察しが悪いのか、ミルフィは驚いた顔つきになっただけだ。
「武士だぞ、いや侍と言えば分かるか、それくらいはいかに辺境の村と言えど知っているだろう」
彼女に迫り肩を掴んで揺さぶる。
「し、知らないわよ!」
そう言い返したミルフィに強く突き飛ばされた燐子は、ふらりとよろめき、片手を机の上について俯いた。
もちろんそれは押しのけられた衝撃によるものではなく、彼女が信じている、いや、最早崇拝していると言っても過言ではない概念が、この世から泡沫のように脆く消え去っていたことに戸惑いを覚えたからだった。
そんなまさか、このようなことがあるのか。
侍や武士のいない世界、違う、そうしたものによる誇りや誉がない世界?そのような世の中が認められ得るのか?
どうして誰もその考えに及ばないのだ、どうしてそれ無しで治世が可能になっているというのか。
それともこの世は内乱に満ち満ちているのか、そうに違いない。
そうした身分の者が民衆を導かない世界など、手本となる者がいない世界など、破滅の決まった泥船のようなものではないか。
「侍の、いない、世界」
思わず呟いた言葉に、エミリオが過敏に反応し大声で騒ぎ立てる。
「やっぱり燐子さんは流れ人なんだ!」
煙の見せた夢幻のほうが良かった。
地獄のほうがマシだった。
ここが仮にドリトンの言った『別の世界』なのだとしたら、武士道の芽吹いていない荒涼の大地なのだとしたら…。
がくりと膝が折れ、地面が近くなる。
敗北の狼煙の臭いがどこからか漂ってくる気がしていたが、それはきっと朦朧とする脳髄が燐子に与えた錯覚で、焼け落ちる城の臭いだったのであろう。
そういえば、しばらく寝ていない。
眠れば、全てが醒めるのだろうか。
体に半端に身に着けていた鎧が地面にぶつかり派手な音を立てる。
腰にぶら下げた太刀だけが、床の継ぎ目に引っ掛かり真っすぐと屹立していた。