泥棒
たまにはイチャイチャさせましょう。
燐子の心はすっかりと平静に戻っていた。これなら、ミルフィに文句の一つも言われることはないだろうと確信して、宿屋へと踵を返す。だが、自分の部屋に戻る途中で、どう足掻いてもミルフィには小言か嫌味を言われるに違いないと思い直す。
それで、反論の言葉を考えるも、明らかに心配してくれていた彼女に悪いかと更に考え直し、部屋の扉を開けようと取手を握った。
瞬間、異常に気が付いた。
室内から誰かの話し声がする。自分が知る限りミルフィに独り言の癖はない。とすれば、もう一人誰かが部屋の中にいると仮定したほうが自然だ。
扉に耳をくっつけ、中の会話に耳を澄ます。
自分がいた頃はしんとしていた室内に、女性の怒号が轟いている。
「だから、そんなんじゃないんだってば!」ミルフィの声だ。
「えぇ、嘘だよぉ。ああ言うのって、分かる人には一目で分かるんだよぉ?」
聞き覚えのある砂糖菓子みたいな声、こちらはどうやらシュカのもののようだ。
「もう!とにかく早く片付けて!そんで、出てけ!」
「こんなチャンス二度とないよ、本当に要らないの?」どこか楽しげである。「い、要らない…から」
「やっぱり欲しいんじゃぁん。ほら、はい!」
「ちょっと…」
何だ、結局はこちらの部屋に入ってきたのか。
嫌がっていた割には、ミルフィも何だかんだ楽しそうにはしゃいでいる。そう呑気に考えながら、それならばいつまでも盗み聞きするのも憚られるな、と思い扉を開ける。
扉が軋む音を直ぐそこに聞きながら、視線を部屋の中央に向ける。
何をしているのか尋ねようか、あるいは、一先ず戻ったことを知らせようか、と思考を巡らせていたのだが、目の前の光景に燐子は思わず言葉を失い立ち止まった。
「あ、おかえりぃー。じゃあね、お姉さん」
こちらの存在に気が付いたシュカが、適当な言葉でミルフィとの会話を無理やり切り上げると、硬直した燐子の横をにやけ面で通り過ぎた。何か言っていた気もするが、ほとんど自分の頭に入って来なかった。
二人きりになった室内に、やけに耳が痛くなる静寂が広まる。
自分を紅潮した顔で見つめたミルフィが、徐々にその瞳を丸から楕円形に変化させると、牙を剥き出しにして威嚇する獣のような勢いで燐子に言った。
「何をいつまでもジロジロ見てんのよ。ってか、早く扉を閉めて」その声に燐子も正気を取り戻す。「あ、いや、すまん」
目くじらを立てる彼女に背を向けて、扉を閉める。
衣擦れの音が静けさに木霊して、無意識のうちに心臓の鼓動が大きくなる。それを自覚できないままの燐子は、ミルフィが着替えを終えるのを黙って待っていた。
1、2分くらいしてから、ミルフィがぶっきらぼうに「もういいわよ」と呟いた。
未だに怒りを滲ませた物言いだったが、何にでも怒りや苛立ちめいたものを表出させる彼女の癖のようなものだと知っている。
つまり、別に本当に怒っているわけでも、苛立っているわけでもない。
床の木目に視線を落としていた燐子は、彼女の声に従って再び室内に目を向けた。
すっかり普段の服装に戻っていたミルフィだが、先程の光景が網膜に焼き付いたまま離れず、つい彼女から目線を逸らした。
無駄な脂肪のついていない、引き締まった体。
自分やシュカの白さとは違った、日の本の人間の平均に近い肌色。
自分が使ったことのない、こちらの世界の桜色の下着。
いや、そんなことよりも…。
腕を組んでこちらを睨みつけるミルフィの胸元をちらりと一瞥する。
自分よりも、あったな。
何故だろうか、こんなにも敗北の味を感じてしまうのは。
明らかに自分よりも粗暴なミルフィに、そういう部分で負けているというのは、どうにもならないことだと分かっていても少し落ち込む。
…待て、もしや自分が小さいのか?
最初は盗み見るような形で相手を見ていた燐子だったが、いつの間にかまじまじと凝視するような見方になってしまっていた。その無遠慮な視線を察知したミルフィが、口調を強くして咎める。
「変態」
「え?」間抜けな声が出てしまう。「え、じゃないわよ!デリカシーの欠片もないんだから!」
「で、でりかしー…?」
「ああもう!馬鹿でスケベってこと!」
「な、なんということを…」
羞恥で赤くなったミルフィの顔と真正面からぶつかって、それに影響されるように頬が熱くなる。
朱に交われば赤くなる、ということか。少し…いや、だいぶ違うか。
折角夜風に当たって落ち着いた心身が、ミルフィの柔肌を目にしたせいで、また乱れてしまっているようだ。
「信じらんない、ホント…」
ぶつぶつと小言を漏らし、体を隠すように背を向けたミルフィだったが、今度はその手に握られているものに視線が吸い寄せられ、目を凝らす。
白いひらひらとした細長い布。
燐子は確かにそれに見覚えがあった。というよりも、今も自分が身に着けているものではないか。
不審に思いミルフィにそれを尋ねる。
「ミルフィ、その右手に持っているものは何だ」
「え?」え、じゃないだろうという言葉が喉まで出かかる。「あっ!」
彼女は慌てた様子で、素早くその右手に持っていたものを自分の背後に隠した。しかし、隠しきれていないそれが、地面にだらしなく垂れ下がっていて、燐子は人差し指でおずおずと指し示した。
「それは私のサラシだと思うのだが…」
「ち、違うの」
「いや、違わん。私のだ」
ミルフィは、「そういう意味じゃなくて」と付け足すと、蚊の鳴くような声で、「シュカが盗んでたのよ」と囁いた。
まあ、当然何かしらの事情はあるのだろうが、特段それに興味はない。
とにかく、要らないなら返して欲しい。
日の本にいた頃から身に付けていた物は、もうこれと刀だけになってしまっているのだから。
「そもそも、お前が人の物を盗むとは初めから考えていない」
咎める様子のない燐子の低い声音に、ほっとしたようなミルフィは、それでも一向にサラシをこちらへと返却する素振りを見せず、視線を彷徨わせているままである。
何故いつまでも掴んだままなのか、と不審に思った燐子だったが、はっ、とある考えに思い至り、一人得心して頷きを繰り返した。
その様子を訝しんだ瞳で横目に見ていたミルフィが、小さく問いかける。
「何を一人で納得してるのよ」
いや、と呟いてから、燐子はわずかに晴れやかな面持ちになって告げた。
「お前もようやく、サラシの良さに気が付けたのだな」
それならば仕方があるまい。こちらの世界でも作られないこともないだろうから、代えの分は彼女にあげてもいいかもしれない。
日頃の感謝、と表現するとややこそばゆいがその気持ちが適切な気がする。
「大事に使ってくれ」
しかし、燐子の見当違いの優しさに目を細めたミルフィは、「違うわよ、馬鹿!」と声を荒げて手に持っていたサラシを燐子の顔面に投げつけるのであった。
すみません、あまり上手くいきませんでしたね。




