落ちてきた三日月を見つめて
明日も引き続き更新しますので、
長い目で見守って頂けると幸いです。
シュレトールの夜は、凪いだ湖面のように静かだった。穏やかとは違う、嫌な静けさ。人が息を殺して小さな蝋燭の光を見つめている、そんな姿が想像できる。
明日の朝また坑道入り口に集合しよう、という話でシュカと別れようかと思ったが、結局、泊まっている宿屋は同じだったのでそこまで一緒に行動した。
シュカにも思うところがあるのか、昼間や坑道の中でしていたように騒がしくすることもなく、静かにしていた。彼女の場合の静かな状態とは、落ち着いた調子の鼻歌を歌う程度のものである。
空が曇っているためか、星はまるで見えない。町の至るところにある街灯の光のせいで、かすかに乳白色の雲が確認できるが、それがかえってつまらない。
この町は、時折、雲の切れ間から強い陽の光が差し込むことこそあるものの、晴天という日はほとんどなかった。土地の性質なのか、曇り空ばかりだ。
初夏の夜気に当てられたのか、坑道から出て終始無言だったミルフィが、口を開いて燐子の体調を案じた。しかし、燐子は心配ないと薄闇の向こうを見据えるばかりである。
「お姉さーん!お肉持って来てぇ!」
宿屋へと戻ると、直ぐにシュカが元の調子に戻って元気に食事を注文した。さすがのウェイトレスも押され気味の様子だ。
自分たちもそれに続いて食事を頼む。どうやら今日もステーキのようだ。些か感傷的な気分なので、もう少し軽いものが食べたかったが、自分の都合で変更は頼めない。
先に着席したシュカは、料理よりも先に並べられたフォークとナイフを両手に構えると、行儀悪く机の縁を叩いて鳴らした。
「まだかな、まだかな!」
彼女と同じテーブルに着くかどうか迷ったものの、シュカが陽気な声で二人の名前を呼んだせいで、仕方がなく彼女の前の席に腰を下ろす。
数分ほどして、食卓の上にステーキ三人分が運ばれてきた。いつ嗅いでも食欲を刺激する香りではあるが、今はその匂いさえげっそりとする。
シュカは、食事を始める直前にステーキの乗ったプレートを両手の食器で叩き、くるりと掌で回して少し早い晩飯にありついた。
頂きます、と三人で声を合わせたのを見て、他の客の食事を運んでいたウェイトレスが三人は友達だったのかと尋ねる。少し派手な見た目だが、世話好きそうな気の良い女性だった。
自分とミルフィはまあ友達と言っても問題はないだろうが、菫青石の瞳を煌めかせた彼女だけは明らかに違う。
それにも関わらず、シュカは嬉しそうに微笑むと、その質問に肯定して見せた。ウェイトレスも何故か嬉しそうに頷き、少女の金糸を撫でた。
気持ちよさそうに目を細めるシュカを見て、こういうところは子どものようだ、と年相応の表情を観察する。
ずっと、こんな風にしていてくれればいいものを。
そうして下らない話を続けるシュカを適当にあしらいつつ、食事を済ませる。さすがに借りている部屋は別なので、同じ部屋に泊まりたいと渋る少女を押し出して、帰るべき部屋に帰らせた。
ミルフィは明らかに湿っぽい空気を放つ燐子を横目に捉えた後、自身のベッドに腰かけてため息を吐いた。逆に燐子は立ったまま窓の外に顔を出して、夜の町を眺めていた。
あちらこちらの家で明かりが灯っているが、やはりどこか物悲しい空気感が漂っている。
眠っているのさ、と呟いていたフォージの顔がよぎる。
あの表情と夜の町並みがとても似ているような気がして、意識を切り離すため目を瞑った。
二人は少しの間そうして時間を潰していたのだが、途端に燐子が窓に背を向け、反対の出入り口の扉に近づいた。それを見て手持ち無沙汰にしていたミルフィが声をかける。
「どこに行くの?」
「少し歩いてくる」燐子が足を止めずに呟く。
「大丈夫?」
「何がだ」自分でも白々しいと思う。「何がって…」
困っているミルフィを背後に感じながら、これだけ分かりやすく気落ちしているくせに、何を言っているのかとぼんやりと考えた。
甘えているな。
態度に出す、というのはよっぽど感情を動かされたときか、周囲への影響を考えることのできない、つまり精神的に幼い人間でもない限りは、相手に言葉を使わず何か主張しているのだと思う。
自分は今落ち込んでいるから、放って置いて欲しい。
あるいは心配して欲しい、とか。どうしてほしいかは人によるのだろう。
一ヶ月と少しぐらいしか、まだ彼女と時間を共にしていないのに、ミルフィに対して甘えた態度を取ってしまっている。
こんなこと、元の世界でもほとんどない経験だった。
ミルフィが自分も一緒に行こうかと尋ねたが、それをやんわりと断り、燐子は部屋を出て宿の外へと向かった。
再び繰り出した黒壇の夜の中、彼女の足音だけが響く。
何かを掘っているようだ。
自らの足音を耳にしながら、聞き覚えのあるその音についてそう考えた。
記憶の底をさらう。
地面にぽっかりと空いた、穴。墓穴。
誰のためのものだっただろうか。
自分は、誰のための墓穴を掘ったのだろう。
自分の?いや、違う。家族。
何かを忘れているような気がする。
記憶に蓋をして、自分を守るために、その何かを忘却の彼方に押しやっている。
真っ赤に染まった掌、誰の血だったか。
頬を伝う涙は、誰のために流されたものだったか。
分からない。
思い出したいのに、思い出したくないと心のどこかで忌避している記憶。
気がつけば、シュレトールの町を展望できる高台にまで来ていた。つい数日前ミルフィと共に登った場所だ。その直ぐそばには、鉄竜炉のある鍛冶場が、闇の中に巨大な怪物のようなシルエットを浮かび上がらせていた。
カチャリと鳴った太刀に目をやる。黒い鞘が闇に溶け込んでいる様を見て、燐子は一つため息を吐いた。
そのとき、後方に人の気配を感じて燐子は勢いよく振り返った。
「よく気がついたな。燐子嬢」
声からして、そこにいるのはフォージのようだった。
彼女はほんの少し安心して口を開く。
「暗闇の中、声もかけずに忍び寄らないでほしいものだ」
「はは、悪い」彼は気持ちの込もっていない謝罪を行うと、調査の進捗を聞いてきた。
そこで、探す場所を町中から坑道に変更した話をしていなかったことを思い出して、念のため報告する。
自分たちの姿が無いからといって怠けていると思われるのは、些か心外だったからである。
実は、と話を切り出し最近の活動状況を報告する。すると、そばに寄って来ていたフォージは目を丸くして驚きの声を上げると、どうやって中に入ったのかを尋ねた。
「ああ…」とどう伝えるべきか悩みながら燐子は眉をしかめる。
開けたのはシュカだ。掛かっている鍵をよく分からない道具で開けて、黙って中に忍び込むような真似をした。
あのときは町のためだと考えたから勝手にしても大丈夫かと判断したが、よくよく考えてみれば、坑道から魔物が入り込んでくる可能性があるので、あまり賢明だったとは思えない。
しかし、嘘を吐いてもしょうがないと考えて、結局、真実を語った。
「私たちの財布を盗んだ泥棒がいてな、そいつが協力を申し込んできた」坑道の話もそいつから聞いたと付け足す。
「泥棒?」明らかに疑ったような声を出すフォージ。「そいつ、子どもで、赤い髪だったりしないだろうなぁ?」
「15、6歳ぐらいの女だが、髪の色は金だ」彼は渇いた笑い声を漏らした後、「世も末だな」と呟いた。
「どういう意味だ」
「そんな子どもが、盗みを働かなければならない時代なんだからな」
「そういう時代にするのは、いつだって大人たちだ」
自然と語調が強くなった。何を苛立っているのか自分でも不思議だったものの、フォージは頭の後ろを掻いてバツが悪そうに相槌を打っていた。
「とにかく、坑道に潜るなら気をつけろよ」
「ああ、既に魔物共には襲われたからな。次は万端の準備をして入るさ」
フォージは肩を竦めながら、「それもだが」と呟いて、マッチを擦った。
小さく灯った炎に口を近づけ、何かに着火する。
「何を咥えている?」怪訝そうに問う。
「何って…煙草だろ」今度の驚き方は呆れている感じだ。「それくらいも知らないのか?」
異世界から来たのだから知るわけがないだろう、と言い返したくもなったが、それを口にすると増々話がややこしくなると思ったので口を噤んだ。
ただ、スミスと同じように太刀を見たフォージが、自分の正体に関して薄々勘付いていたとしても不思議ではない。
燐子は無言になって、自分が遮った言葉の続きを催促する。
フォージは十秒ほどの静寂の後に、口から白い煙を吐き出して、もう一度同じ言葉を呟いて語り始めた。
「その子から坑道が使われなくなった理由、聞いたか?」
燐子は小さく首を縦に振る。だが、暗くて見えなかったようなので、声に出して教わったことを伝えた。
「それもあるんだが、坑道の奥、つまり鉱山の深部を根城にしていたえらい強い魔物が、今度はその坑道に棲み着いてしまったからなんだ」
「…そんなに強いのか」
前回湿地で戦った大トカゲを思い出して、ぞわりと背筋が粟立つ。
また、あれほどの敵と戦えるのかもしれない。
命を懸けて行われる、自分という一振りの研磨。
生きている限り、強くなろうと誓ったからこそ、その話は自分の胸を揺り動かした。
小難しいことなど忘れて、熱中できる斬り合いに溺れたかった。
なるべく表情に出さないように、さり気なくその魔物の情報を引き出す。すると、フォージはいくつかの情報を提示してくれた。
人間の背丈の倍以上の大きさを持つこと。
信じ難いことに、剣と盾を使って戦うらしいということ。
ここ何十年と目撃されていないから、死んでいるかもしれないとのこと。しかしながら、それほど大きくなる生物が短命だとは考えにくいとのことだった。
もしかすると、坑道で出くわすかも知れない。
ミルフィやシュカがいる以上、無理に戦うような真似は断じてするつもりはないが、そうせざるを得なくなれば、真剣勝負を行うだけである。
とにかく、見かけたら近づかないようにとだけ釘を刺されるも、燐子は善処すると告げ、確約はしなかった。
別れ際に、いくつか例の流れ人に関しての質問をした。
主に目撃したときはどういう状況だったのかを確認する。判然としない、取るに足らない情報のようにも感じるそれを、燐子は黙って聞いていた。
フォージと別れ、しばらく歩き続けていると、シュレトールの町並みをぐるりと一周したらしく、宿屋の前へと戻ってきていた。
未だに天は厚い雲に覆われていたのだが、波風立っていた燐子の心の水面は、どうにかある程度の落ち着きを取り戻していた。
もう少しだけ夏の夜気に当たっていたい、と考えた燐子は、今朝座っていたベンチに一人腰を下ろした。
それから周囲に人がいないことを念入りに確認すると、ゆっくりと太刀を鞘から抜き放った。
街灯の弱い光を反射して、空から落ちてきたかのように、燐子の目の前で三日月状の刃が輝きを閃かせている。
肩の力を抜いて、同時に肺の空気も抜ききってしまう。
自分の中を空っぽにする、そんなイメージを心に描きながら、刃の先端を目の前の虚空に向ける。
どのみちやるべきこと――いや違うな、何かを解決するため自分にできることは一つだ。
そうだ、一つしかない。
ずっと、そうして来た。
そして、それはこれからも変わらない。
「ただ、斬るのみ」ぼそり、と祈りの言葉のように呟く。
「…今までそうしてきたように。これからも、変わらない」
――たとえ、相手が何者であろうとも。
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