流れ人 弐
他の家よりも少しだけ大きく見える建物へ導かれる。社のように地面から一段高く建てられたその家は、武家屋敷のように立派なものではないが、それでもこの小さな集落では相当の地位にある人物の家なのだと分かる。
老人に中へと通され、そこで履物を脱ごうかとしたのだが、彼は目を丸くして制止し神妙そうに頷いた。
彼は何か分かったふうな顔つきになったが、燐子は逆に、何もかもが分からないままであった。
玄関を抜け、廊下を渡り縦長の部屋に足を踏み入れると、そこには部屋の半分ほどの面積を占める大きな机が置いてあった。
しかも明らかに自分の知っている机よりも背丈が高く、目の前に数脚並べられている一人用の椅子に座って使うものらしかったのだが、それすらも燐子にとっては理解し難いもので、彼女にしては珍しく自分がどう動いていいのか迷っていた。
そんな戸惑う彼女を柔和な表情で見つめる彼は、自分が先に座って見せてから、「どうぞ、おかけになってください」と聞き取りにくさを考慮してか大きな声で言った。
彼は燐子が何かを警戒するように慎重に椅子を引いて座ったのを見て、ゆっくりと椅子の背もたれに寄り掛かった。
どういう絡繰りか想像もつかないが、窓枠に嵌められた透明の謎の板の向こう側に、外の景色が透けて見える。
風も通さないのに、中に居ながら外の景色を楽しめるとは何とも贅沢品である。
「何とお呼びすればいいでしょうか」
「ああ、そうですね、ドリトンと、お呼びください」
恭しく頭を下げた彼は、窓から入ってくる朝日に横顔を照らされて、その頬に年季のある皺でコントラストをつけた。
「それで、私に聞きたいこととは?」
「まず確認したいのですが、日の本をご存知ですか」
「日の本…?いえ」
「では、何故日の本の言葉を使えるのですか」
「…貴方は、やはり」
「やはり?」とドリトンにオウム返しで問い返すも、彼は目を瞑って黙り込むだけである。
沈黙を守る彼にかすかな苛立ちを覚えて拳に力が入る。
さっきから分からないことばかりが増えていく、これでは埒が明かない、どうにか今の状況を進展させられる話をしたいものだが。
そう考えた燐子は、エミリオが口にしていた言葉を思い出して何となく口にした。
「それでは『流れ人』というのは?」
質問を受けたドリトンは目を丸くして少し考えるような素振りをした後、「エミリオに聞いたのですね」と深刻そうに呟いた。
「知っているのですね、教えて下さい」
ようやくまともな反応が返ってきたことで、思わず座席から腰を浮かす。
「少し落ち着いてからと思ったのですが」
「何を悠長なことを、直ぐに教えて下さい」
「ですが…」
「お願いします、私にはここがどこだかも分からず、困っているのです」
「ええ、まぁ、それは後日にでも――」
「口説い!」
あまりにダラダラと同じやり取りを繰り返されたことで頭にきた燐子は、思い切り机の上を握った拳で叩いた。
「何かを知っているのに、それを語らないとはどういう了見だ!」
今にも刀を抜きたくなる衝動に駆られたが、それをしたところで、自分の状況が好転しないことぐらいは燐子には分かっていた。
最低限の冷静さを保って相手とぶつかるのは彼女の最も得意とすることの一つだった。
さすがのドリトンもこの迫力には圧されてしまったのか、焦ったように何度も頷き、話をしてくれることを約束してくれた。させた、というほうが適切だった気はするが、大した違いはないだろう。
その確約を取り付けた燐子は息を整えながら、ゆっくりと再び椅子に腰を下ろした。
彼は一度咳払いしてから、こちらを上目遣いに覗くと、「心して聞いてください」とこの期に及んでも話すことを躊躇ったため、燐子はじろりとその黒い眼を老人の少し怯えた瞳にぶつけた。
そうすることでようやく話をする覚悟を決めたのか、ようやくドリトンは『流れ人』に関して説明を始めた。
「端的に言えば、違う世界からやって来た人のことです」
「違う、世界?」
燐子には、ぽつりと呟かれた間抜けな声が、よもや自分のものだとは思えず、しっかりと脳を回転させるために頭を振り、はっきりとした口調で同じワードを口にした。
それを聞いたドリトンは一度立ち上がり、窓を開いた。
舞い込む風に目を細める。風に乗って運ばれてきた桃色の花びらを視界の隅で追いかけて、一瞬桜の花びらを思い出したが、やはりそれとは別物のようだった。
真正面で背を向けたドリトンは、そのままの姿勢でしみじみとした口調で説明を続ける。
「こことは違う、世界だと言われています」
「どういう意味ですか、もしや、からかっておられるのですか」」
「とんでもない。ただ、流れ人はみんな口を揃えてこう言うのです」ドリトンは緩慢な動きで振り向くが、その仕草からは思いも寄らないほどの早口で声を発した。
「そんな国は聞いたこともない、違う国の人間がみんな自然に自分の国の言葉を使っている、見たこともない獣が周辺をうろつき、見たこともない花や草木ばかりであると…そして、自分の知り合いがこぞって姿を消していると」
彼の矢継ぎ早の説明を聞き、燐子はゾッとしたものを背筋に感じた。それは何もかも自分がここに来て感じたことだったからだ。
そんな、馬鹿なことがあるはずない。
そう頭で考える自分と、薄々似たようなことを感じていた、と納得しかけている不気味な自分とが現れて、ただでさえ混乱している自身の頭の中をかき乱した。
「世迷い言を、この世は一つだ、それぐらいも分からないと思うのか!」
勢いのままに太刀を抜刀し、切っ先をドリトンに向ける。
彼は多少驚いた顔はしていたものの、今度は怯えることも恐れることもなかった。
まるでこちらの行動を予測していたかのような落ち着きようが、より彼の言ったことの正しさを証明しているように感じて、燐子は舌を打った。
不意に、横たわった静寂を、扉が軋む音が揺れ動かし、誰かが室内に入ってきたことを示した。
しかし、混乱の中でひたすらに思考を回転させていた燐子の耳には入って来ず、結局その人物が二人と同じ部屋に足を踏み入れるまで気が付かなかった。