未知の世界は直ぐそこに
馬の背に乗ったまま、燐子は遠く続く街道の先を見つめていた。
カランツからアズールへ至る道に比べると、天と地ほどの差もある整備のされ具合に、本当にカランツは田舎だったのだなと思い知った。
次の町に移動するにしても、この調子なら森に入ることも、湿地を横断することも必要なさそうだ。
高く昇る白い雲を見上げ、その隙間から零れてくる陽光に目を細める。
気温はまだそんなに高くはないものの、確かに夏の匂いが直ぐそこまで迫ってきているようだった。
この世界にも、梅雨はあるのだろうか。
まだ一度も雨を見ていないが、さすがに雨が降らないということはないだろう。
「ラッキーだったわね、捕まらなくて」
背中越しにミルフィが安心した声で呟くのが聞こえ、首だけで彼女のほうを振り向く。
濃い赤色の髪が、風に吹かれ揺らめいている。
そうして視界に入ったおさげに、自分が付けていた夜緑色の髪紐が見える。勿体ないことをしたかもしれないとも思ったが、まあミルフィと一緒にいる間は問題ないか、と自分で納得した。
「まあ、そうだな」ミルフィの質問に一拍遅れて反応する。「興味深い話も聞けた」
狂気じみた犯行を繰り返す流れ人。
男か女か確定はしていないらしいが、自分は男によるものだと考えていた。というか、やはり女が、女を、というのが少し想像しづらかったのだ。
「あぁ、女同士ってやつ?」
「ち、違う」
考えていたことを見透かされたような感じがして、思わず噛んでしまう。
普段の燐子からは想像もできない慌て方に、ミルフィはいよいよ意地の悪い表情をして尋ねる。
「なぁに?別に隠すことないじゃない」
「うるさいぞ。ミルフィ、お前私をからかいたいだけだろう」
「ごめん、ごめん。だってさ、燐子面白かったんだもん。『世界は広いな』って、まだ旅は始まってないんだけどって感じ」気取った感じのない素直な笑い声が響く。
自分でも考えていたことを指摘されて、ますます恥ずかしくなって顔が熱くなる。
そういう態度がお気に召したのか、ミルフィは少し身を乗り出してあれやこれやと燐子に質問した。
やれ恋愛経験はないのか、友達とそういう話はしなかったのか、元の世界では同性愛はなかったのか、と唐突に饒舌になったミルフィに圧倒されながら、沈黙を貫いたのだが、あらぬ疑いをかけられそうだったので、渋々質問に答える。
「色恋沙汰に縁はなかったし、友達もいない」
「嘘だぁ、そんな女の子いないでしょ」その指摘にどうしてか虚しい気持ちになる。「しょうがないだろう…本当なのだから」
「…本当に友達いなかったの?」太陽が雲に遮られるように、急に気遣ったミルフィへ口を尖らせて返す。「悪かったな」
「じゃあ、女の子同士の恋愛は?」
「知るか!」
意図して答えなかった箇所を突かれて、赤面しながら怒鳴るように返す。
「私は、剣と戦に全てを捧げてきたのだ。そういう浮ついた話に興味などない!」
燐子の声に驚いたのか、草むらから小鳥たちが飛び去って行く。どこにこんな数が隠れていたのかと不思議になるほどの数だ。
不規則に散っていく鳥の影が陽光を遮蔽し、ほんの数秒だけ辺りが暗くなるが、直ぐに元の日当たりの良さが戻って来た。
ほぼ平坦と言ってもいい街道だったものの、燐子の動揺が伝わったのか、馬の動きが乱れ上下に激しく揺れる。その拍子に、ミルフィが小さな悲鳴を上げて燐子の背中にしがみついた。
直前までしていた話が話だったので、彼女の柔らかい体の感触に必要以上に反応してしまう。
「ちょ、ちょっと待て、どうした!」
しまった、と思っても既に遅く、ミルフィは燐子の慌てふためきようを見て、一瞬目を丸くしたが、すぐに揶揄するような微笑を浮かべた。
何か弁解しなければと必死になって口を開くも、自分でも支離滅裂なことを言っていると自覚があったので、一層顔に熱が集まる。
これはもう、正直に話してしまったほうが賢明なようだ。
「こ、こういう色恋沙汰の話は苦手なのだ。どういう、その、顔をすれば良いかも分からないし、何を言えばいいかも…」
何とか落ち着きを取り戻そうと、しきりに前髪を片手で払う。
思いの丈を正直に口にした結果、ミルフィは少し困ったような表情をして、穏やかな口調であやすように言った。
「なぁんだ、私が可愛くてビックリしちゃったわけじゃないのね」
冗談だと分かっていても、体が熱くなって変な汗が出る。何なら、涙も出るんじゃないかと思うぐらいに気が動転してしまっている。
本当にペースが狂うので、こうなれば相手の情に訴えるしかない。
燐子は馬の速度を緩めて、ほとんど歩くような勢いまで落とすと、半身にミルフィを振り返って呟くように言った。
「頼むから、もう勘弁してくれ」ミルフィは真っ赤になった顔が珍しいのか、ぽかんと口を開けている。「恥ずかしくて死にそうだ」
これ以上恥を晒せない。燐子は素早く真正面へ向き直って口を閉ざした。
どうせ今頃、後ろで笑いを堪えているに違いないミルフィを想像しながら、さっさと忘れてしまおうと考えていたところに、勢いよく背中に硬いものが当たる感覚がして声を出した。
「痛っ、おい、何だ」今度は冷静に返せた。
その後も何回か、自分の頭をハンマーのようにしてこちらの背中に叩きつけたミルフィは、燐子が何を言っても無反応なまま俯いていた。
一体何なのだろうかと、前を向いたまま眉をひそめていると、ふと太陽が大きな雲に遮られた。
その影に反射的に天を仰いだ燐子は、その影の持ち主を見て、最初は自分の目の錯覚だと考えた。だが、燐子の視線を目で追ったミルフィが声を上げたことで、それが現実だと分かった。
深い虚のような漆黒の体躯に、その両脇に広がる皮膜のついた翼。
長く伸びた尻尾は、何百本もの針金を束ねたように銀に光っていた。
直ぐにその影の主は上空へと飛翔したため、実際のサイズは判然としなかったが、鳥なんてものじゃなかった。
この間のトカゲほどの大きさはなかったものの、その存在感たるや、トカゲなどは比肩できないものであった。
あまりの衝撃に唖然として、燐子はついさっきまでの奇妙な浮遊感のことなど忘れてしまっていた。
次第に小さくなっていくその姿を目で追ったまま、しばらくぼうっとしていると、馬が急激に角度を変えたので、二人はあわや振り落とされるところであった。
街道を逸れ、一旦馬の足を止めて、もう米粒ほどの大きさに変わってしまった黒い星を凝視する。
「今のは、何だ」ようやくまともに喋れるくらい落ち着いた燐子が呟く。「飛んでいたぞ」
自分でも、見れば分かるかと呆れてしまうくらいに凡庸な感想しか口にできなかったが、あれは間違いなく普通の生き物ではなかった。
燐子の独り言のような問いかけに、ミルフィが寝ぼけているかのように答える。
「ド、ドラゴンよ」
「どどらごん?」
初めて聞く単語を間の抜けた声で繰り返すと、彼女は少し苛立ったように声量を上げた。ただ、これは別に怒っているわけではないのだと、最近学んだ。
「ド・ラ・ゴ・ン」
「どらごん?」
「聞いたこともないの?あ、もしかして竜って言ったら伝わるのかしら」
リュー、龍、と脳内が一テンポ遅れて文字を漢字に変換する。それと同時に、頭の中に墨で描き出された龍の絵が浮かび上がり、なるほどと一瞬思ったが、直ぐにまた疑問が湧いた。
自分の知っている龍はもっと蛇みたいな生き物なのだが、と伝えるとミルフィは、「じゃあ違うわね」と少し残念そうに答えた。
しかし、細部こそ違えども、それに近い何かを感じるのも確かだ。
だがそうなると、更なる疑問が浮かび上がる。
「そもそも、私の知る龍は伝説上の生き物だ」
「そうなの?でも現に見たでしょ、今」
見たのは見たが、あれが龍なのかは分からなかった。
馬の手綱を引いて、元の街道沿いに戻りながら話を続ける。馬も多少不服そうだが、言うことは聞いてくれている。
ミルフィは額の汗を拭う仕草をすると、深く息を吐きだした。まだ汗をかくほどの気温ではないのだが、気持ちは分かった。
あのような魔物が真上を飛んでいたのだ、緊張して冷や汗をかいても不思議ではない。
それからミルフィは、胸いっぱいに新鮮な草原の風を吸い込むと鞍の後ろに手をついて言った。
「いや、燐子にはああ言っておいてなんだけど、まさか生で見られるなんて考えたこともなかったわ」どこか嬉しそうに瞳を輝かせている。犬のようだ。「ドラゴンって、世界に数えるほどしかいないのよ?この旅に、とんでもない箔が付いたわね」
そうなのか、と感心しそうになったものの、よくよく考えてみれば当たり前のことだとも思えた。
「あんなのが空に沢山飛んでいたら、人間が住めたものではないしな」
遠目で見ただけでも分かった。
あのドラゴンとかいう存在は、明らかに他の生き物とは一線を画している。
件の大トカゲのときも、とても人の手には負えないと思ったものだが、結局は何とかなった。存外、やろうと思えばできないことはないのかもしれないとも感じたものだが、今回のことでその考えは塗り替えられてしまった。
まず戦うという発想が浮かばないな、と燐子は乾いた笑いを零したのだが、彼女の発言に対してミルフィが呆れたように訂正を加えた。
「あのね、何か勘違いしてるみたいだけど、ドラゴンは人を襲ったりしないのよ」
少し半身になって反応する。「何、あの図体でか?」
「ドラゴンってね、すっごく頭が良いの。きっと人間なんかよりもずっとね」
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