竜星の流れ人 壱
これで、この物語は一先ずの終わりを迎えます。
少々長いエピローグにはなりますが、
良かったら、見ていって頂けると、嬉しいです。
カランツの村の者たちが、帝国の侵略を食い止めてから一週間足らずが経っていた。
幸い、人々の活躍のお陰で村の中はほとんど被害がなく、また傷を受けた者も数名を除いて他に見当たらなかった。
侵攻を防ぐために建てられた防護柵や門も、そのまま使用が続けられる予定だそうだ。
帝国が攻めて来る可能性がなくなったわけではないことを鑑みれば、当然と言えば当然である。
むしろ村の被害に関しては、騎士団の連中がこぞって大通りを騎馬で踏み荒らしたことのほうが大きそうなものでさえあった。
まあ、彼らのお陰で帝国が撤退したので、文句も言えない。
だが、何よりも大変だったのは、燐子が手当たり次第に斬り倒した帝国兵の遺体の処理だった。
燃やすのも埋めるのも一苦労してしまい、結局、森の奥のほうにまとめて葬る形となった。
いくら敵とはいえ、亡くなった者を手厚く供養してやるのも、人として失ってはならない情けだろう。
夏が遠くに見え始めた残春の風が、かすかに熱を帯びた体を冷やす。
初夏の風、と呼ぶにはまだ幼すぎる、青い匂いだ。
少し薄情過ぎたのかもしれない、と背中を向けた村を振り返り、そこに住まう者たち、それから助けに来てくれた者たちにひっそりと頭を下げる。
一月足らずの短い間だったが、今までの人生で一番長く、濃密な一ヶ月だったことは間違いない。
体を閉じて、開いてとしたせいで、治りかけていた全身の擦り傷がひりひりと疼き、顔をしかめる。
早朝の澄んだ空気を鼻腔に感じながら、背負っていた革袋を肩にかけ直した。
荷物とはいっても、わずかな食料と水、それからサイモンに貰った金貨の余りと、多少の着替え、それから――。
カチャリと、右手で触れた柄が音を立てた。
それから、刃のぼろぼろになった太刀と、役目を全うできなかった小太刀。
また、研いで貰わなければならない。
そのときに、どんな手入れをしたら、あれほどまでに刃こぼれしないのかを聞く必要がある。
まずはアズールだ。それから先は、まだ決めていない。
王国を見て回ってもいいが、色々と今回のことで面倒が残ってしまったし、帝国のほうへ流れてもいいかもしれない。
どうせ、私は流れ者だ。それに、帝国の流れ人とやらにも興味がある。
ふと、左肩を擦った。
全身の擦り傷は、永遠の休暇を逃した痛覚を思い出させるように疼いたが、深く斬られた左肩は、まるで痛まないどころか、傷痕一つ無かった。
意識の途絶えた自分に、王女セレーネは貴重な医薬品を施したらしい。
ミルフィに聞いたところ、みるみるうちに肩の傷は塞がったそうだ。そして、その後の手厚い介抱のお陰で、三日三晩寝込んだ末に自分は一命を取り留めた。
「……死に損なった、などとは言わん」
アズールのほうへと向かう門を下から見上げる。
旅立ちのときだ。
未だ知らないことばかりの世界へ、新しい自分と、今までの自分と共に旅立つ。
本当はドリトンやエミリオ、自分を救ってくれたセレーネ、それから短い間ではあったが、相棒とも言えるほどに行動を共にし、戦ったミルフィに一言伝えたかった。
しかし……王女が『私の親衛隊として、是非、王国に』としつこく頼み込んでくる以上、朝の月のように静かに去らなければならない。
(私はもう、主君を持つつもりはない)
主君を変えるなど、侍の娘として恥ずべき行為なのだ。
どうせミルフィあたりは、ぶつぶつと小言を言って納得しないのだろうが。
その顔を想像して、口元が綻んでしまう。
何も今生の別れというわけではない。
またほとぼりが冷めれば、顔も出せよう。
昨日のうちに移動させていた馬の元へと、足を進める。
草原の中に立つ、小さな木の下。
自分を待っていた愛馬へ足早に近づくと、その鼻を撫でる。
馬もこちらに鼻をこすりつけ、その感情を表現してくる。
「賢いやつだ、大人しく待っていたのだな」ついつい喋りかけてしまうも、馬もまるで返事をするように鼻息を漏らした。「名前も必要だな」
困ったものだ、自分にはそういうセンスが皆無なのだ。
まあ、時間は沢山ある。
こいつと二人世界を旅するというのも、乙なものだ。
木から離れるために、馬の手綱を引こうとするが、思いのほか渋って中々歩き出そうとしない。
「行くぞ、出発だ」しかし、じっと木のほうを見つめて動かない。「名残惜しいのは私も同じだ。だが、私は籠の鳥にはなりたくない」
そう、ここに居ては、自分は飼い殺しされかねない。
「分かってくれ」
少し強く手綱を引くと、馬が一際高く嘶いた。
その声の大きさに肝を冷やして、村の方を振り返るが、一切反応はなく、ほっと安堵する。
しかし、その後こちらの肝を潰す声は、思いがけない方向から響いてきた。
「へぇ、折角一般人から騎士団員になれるのに?」
驚いて声のした木のほうを見やると、一拍置いて木の裏側から、見慣れた赤い頭が顔を覗かせた。
「ミルフィ…?」
彼女の姿を見るや否や、馬は勢いよく手綱を引っ張り返しこちらの手元を離れ、ミルフィの元に擦り寄った。
「あら、私のほうがいいの?」
「お前…」
「そりゃそうよね。燐子が寝てた間、ずっと私がお世話していたんだから」と、皮肉を口にしながら、とても嬉しそうに目を細めて笑ったミルフィは、面食らっている私を一瞥すると、小首を傾げた。
「名前だって決めてるのよ?」馬の鼻を撫でて、優しい声で呼ぶ。「ねぇ、マロン」
そう呼ばれた馬、もといマロンは満足そうに鼻を鳴らして、ミルフィの頬に顔を寄せた。
「いや、待て、お前何をしている?」
「何って、いいでしょう、私の馬にしても」
「お前、騎乗出来ないだろうが。ではなくて、何故ここにいる?」
「失礼ね、お前じゃなくて、ミルフィ、でしょうが」
いつぞやの意趣返しをされて、言葉に詰まる。
正直、彼女がどういうつもりなのかは何となく分かっていた。というよりかは、彼女の深緑の外套に覆われた出で立ちと、その背中に背負っている、小さなバッグと弓矢を見れば、目的は誰の目から見ても一目瞭然だった。
「アンタだって、何でここにいるのよ」少し咎めるような調子だ。「お姫様に、一緒に来るように言われてたと思うんだけど?」
ミルフィのその言葉に対して、燐子は小さく息を漏らし、視線を背ける。
「聞いていたのだろう。私はもう主君を持つつもりはない」
「一生楽できるって聞くわよ、お姫様直属の近衛兵団なんて」
「楽な一生だったとして、それに何の意味がある」
凛とした顔つきで答える燐子に、ミルフィが悪戯っぽく笑った。
「でもお姫様言ってたじゃん、あの力で傷を治すのは、血分けするようなものだって」
そうだ、それなのだ。
その意味の分からないしきたりのせいで、ほぼ強制的に騎士団に入れられそうになり、結果として、こうして夜逃げ同然にカランツの村から去らざるを得ない形になったのだ。
命を救われた代償が自由では、何のために生き延びたか分かったものではない。
「冗談だろう、そんなものに従うつもりはない。というか、騎士団がしっかりとこの村に駐在していなかったことが、そもそもの原因だからな」
「まあ、あのやり方だし…気持ちも、分からないでもない、かも」
「何か言ったか」
ミルフィはそれを耳にすると、愉快そうに笑って、モテるのは辛いね、などとほざいた。
他人事と思って、無責任な発言である。
「で、ミルフィは何している」
彼女がひとしきり私をからかい終わるのを待ってから、腕を組みそう尋ねる。
すると彼女は、馬のほうを撫でつつも、無関心そうに口を開いた。
「別に、いい馬も手に入ったし、折角だから旅にでも出ようかなぁと思ってたとこ。そこに偶々燐子が来ただけ」
「そんな偶然があるか」
平坦なイントネーションでそう呟く。
「ないとも言い切れないでしょう?」
大体、ドリトンやエミリオに関してはどうするのか。ミルフィ無しでは家だって回らなくなるだろう。
そう言い切れるほどに、彼女らの家では、ほとんどの家事をミルフィが行っていたのだ。
しかし、そう問いただしても、彼女は真面目な顔で、気にしなくていいと首を振った。
「二人がね、行って来いって私に言ったのよ」
「何?ドリトン殿とエミリオがか?」信じられないといった様子で目を丸くする。
「家事なんて、村の家政婦を雇えばいいし、エミリオなんか、駐在する騎士団の奴に夢中だもの」ミルフィは肩を竦めて笑った。「ほら、私たちがアズールの詰め所で話した若い騎士よ」
なるほど、あの男か。
短い時間しか会ってはいないが、誠実そうな男だった。
彼ならばこの村のことを任せても大丈夫かもしれない。
だが、と燐子は横目でミルフィを見やると、どうしても煮えきらなくて尋ねた。
「しかし…、何と言って送り出されたのだ?帰る家のあるお前に、何故旅などさせる?」
燐子の問いに意味ありげに微笑んだミルフィは、くるりと背を見せると馬の手綱を引き、草原を湿地の方へと歩き出した。
「さあね、ま、燐子は知らなくてもいいわよ」
「何だ、それは」
「うるさいわね…。で、行くの?行かないの?」
何故か突然怒ったような口調で言う彼女は、腰に手を当てると、急かすように続けた。
「さっさと決める!」
どうやら、しばらくはこの調子のようだ、と燐子は長息を漏らしたのだが、その横顔にはどこか少女然としたあどけなさがあった。




