さよなら、世界
自分の空っぽの肉体に、天使の羽根が降り注いでいる。
どうやら、死の淵にある自分を迎えに来たようだ。
だが、まだ天使にも、死神にも用はない。
後少しだけ、待っていろ。
「どこへ行く」
喉から出た声は、とてもではないが自分のものとは信じ難いくらい嗄れていたのだが、背中を向けて自分から遠ざかっていくジルバーが動きを止めてこちらを振り向いたことで、自分が出した声だと確信できた。
「まだ、決着はついていない…!」
「おいおい、本当に侍ってのは化け物だな」
ジルバーは心底愉快そうな声を出した。
「だが、折角拾えた命だ、大事にしろ。続きはまた今度だな、燐子」
「ま、て…!」
再びジルバーが背中を向けて、歩き出し、馬に跨った。
次?次など、来るか。
今ここで、決着をつけなければ、
私は、また、
剣士として、死に損なうではないか…!
ジルバーに続き、兵士たちが我先にと丘の上目掛けて一目散に逃げ出していく。
その姿を、鼻を鳴らして眺めていた彼は、忌々しそうに「腰抜け共が」と呟いた。
「燐子、しっかり傷を治してくれよ、次は互いに万全の状態でやろう」
それだけを言い残して、こちらの話など聞こうとする様子もなく、ジルバーは馬を走らせて遠ざかって行く。
そして、時を同じくしてカランツの村の門が開き、何十人もの騎士が遥か彼方になった帝国兵の後を追った。
だが、森の中に入られたら騎馬で追いかけるのは難しいだろうし、きっとあの男が殿を務めるのだろう。
そうなった場合は、並大抵の兵士では歯が立たず、追討戦のはずがこちらも痛手を負うといった下らない結果になってしまう。
ふらりとまた全身の力が抜けて、後ろに倒れ込んだのだが、あわや後頭部を地面で打つといったところで、誰かに優しく受け止められ、そのまま膝の上に寝かされた。
「燐子、しっかりして、燐子!」
「ミルフィか」頭に当たる柔らかい膝の間隔が心地良い。「あれだけでかい口を叩いておいて、負けた…。情けないな」
「そんなこと無い、燐子はこの村の英雄よ」
「はは、英雄か…、ぐっ!」
無理に笑ったら、左肩が痛んだ。
「燐子…!お願い、死なないで」
侍にはなれませんでしたが、英雄にはなれました、なんて言ったら、父上はどんな顔をするだろうか。
すまん、と一言謝りたかったものの、もう声を出すのも億劫だった。
何とか彼女を安心させるために微笑んだつもりだったが、ミルフィの顔が悲壮に染まったのを見るに、どうやら失敗したらしい。
既に泣いた後なのだろう、ミルフィの赤い目からぽたぽたと雫が垂れてくる。
こうして健気な村娘然とした表情を見せるミルフィが、何だかとても可愛らしい。
柔らかそうな唇が震えていて、目が離せない。
とても魅惑的だった。
自分でも馬鹿なことを考えているなと思う。
怒って、泣いて、笑って…。
相変わらず忙しい女だ。
一緒に泣きたかったが、それが自分にはできない。
きっととても簡単で、誰にでも出来る当たり前のことだ。
なのに、私にはそれができない。
それが悔しくて、情けなくて、でも私らしいとも思えた。
人の気持ちなんて、どうせ戦馬鹿の私には分からない。
「燐子さん」嘘みたいに綺麗な声が脳髄を震わせる。「――で、宜しかったでしょうか?」
誰かがゆっくりと近寄って来るのが、空気の振動で分かった。
体の感覚は正常さを失って鈍くなる一方なのに、そうした細かいセンサーだけが、普段以上に敏感に稼働しているのが不思議だった。
聞き覚えのある声だ。
気怠さを押し切って、瞳をしっかりと開き、声のしたほうへと視線を移す。
すると、そこには意外な顔があり、驚きのあまり口を開いたのだが、やはり上手く声が出なかった。
確かセレーネとかいったか、この国の王女だったはずだ。
「この数を、本当に一人で…」
彼女の背後に立っていた従者が、信じられないといった様子で呟き、周囲を見渡している。
それを黙って睨みつけていたミルフィは、途端に声を震わせて大声を上げたのだが、その声音には、呆れと嘆き、そして何よりも色濃く怒りが滲んでいた。
「アンタたちが、いつまで経っても来ないから、燐子がこんなことになった…!」
際限なく溢れて来る涙。
彼女の顔が歪む。
「全部、アンタたち騎士団と。王族の怠慢よ」
そんなことを言っても大丈夫なのかと、不安になっていると、案の定、従者の女が声を荒げて剣を抜いた。
何を言っているかよく聞き取れなかったが、権力を妄信している人間の言うことなど、大体想像がつく。
剣先を向けられたミルフィは、決して怯える様子もなく、むしろ一層反抗心を燃やして、従者を睨みつけた。
「殺したきゃ殺しなさい、この役立たず!」
「貴様!」
やがて、それらを静かに見つめていたセレーネが従者の行動を厳しく咎めて、重々しく口を開いた。
「今は、傷の手当てを」セレーネが両膝をついて、自分の直ぐそばにしゃがみ込んだ。「誹りは、後ほど受けます」
有難いことだが、どうせ無駄なことだと燐子自身分かっていた。
無数の人間を斬って来た彼女だからこそ、人がどうなったら死ぬのか知っていた。
急所を突かれても死ぬし、血を流し過ぎても死ぬ。
それを理解しているらしいミルフィが、震える声で叩きつけるように言った。
「だったら早く燐子を助けてよ!」
泣くな、と伝えたかったが、また失敗した。
それにもう、微笑んで見せることも出来そうにない。
「燐子さん、勝手をしますが、どうかお赦しを」
自分の眼前に誰かの影が迫った。
不明瞭で曖昧な世界の境界。
また一つ、違う世界との境界を越えかけていることが自分でも分かる。
三途の川なんてもの無いじゃないか、とおかしくなる。
それとも、この後に見られるのだろうか。
朦朧としていた視界が、激しく明滅する。
消えかけている蝋燭の火みたいに、
点いたり、消えたり、揺れて。
従者の女がまた何か喚いているのが聞こえるが、それはもうほとんど自分にとって意味を成さない、空気の振動に過ぎなかった。
先程とは違った寒さが全身を包む。
ここは、暗く、寒い。
自分をこの世に繋ぎとめていた痛覚が、とうとう働くのを止めた。
まあ、二十年近く働いてきたんだ。そろそろこの体にも暇を与えてやらねばなるまい。
今までご苦労であった。
大義であったぞ。




