流れ人 壱
今回より、本作のヒロインが登場致します。
エミリオが言い、そして自分が予測したとおり、丘を越えれば集落は直ぐそこだった。
丘から村まで下る坂道は想像していた以上に急勾配で、馬にでも乗っていたならまともに下りられなかったであろうというほどであった。
しかも、両脇は河川に挟まれており、大雨でも降ろうものなら、ここら一体が沈むのではないかと不吉な予測が浮かんだ。
少し先の前方に古びた木製の門があって、そこに5,6人の人だかりができていた。驚いたことにそれら皆が異人のようだ。
ここはやはり――いや、今は考えても仕方がない。一先ずエミリオの言った人物に会って、事の真相を尋ねるべきだ。
「何か揉めているようだな」と燐子が淡々と呟くと、慌てた口調でエミリオが「やばい」と零した。
足を止めた彼に何事か理由を尋ねようとする前に、人だかりの方から大きな声が上がって、エミリオの名を呼びながら数人が駆け寄ってくる。
あぁ、心配をかけていたに決まっているか、と瞳を閉じて考えた燐子だったが、直ぐに先程のエミリオの発言に違和感を覚え目蓋を上げた。
村の仲間が心配して駆け寄ってきているというのに、エミリオといえばむしろ逆で後ずさりしてしまっている。
それでは仲間に失礼であると考え、彼女は引っ張ってきた獲物を下ろし、「どうしたのだ、行かぬか」と彼の背中を押した。
先頭に立って近寄ってきた女性が燐子の方を向いて足を止める。
エミリオとは違い、熟した林檎のように赤い髪を後ろで三編みに結んでおり、目も彼と違う臙脂色の目をした、いかにも勝ち気そうな女だった。
こちらの存在に明確な戸惑いを見せた彼女だったが、頷いたのかと思うくらいで頭を下げると、直ぐさまエミリオの方に近寄って行った。
「あー、ごめん、お姉ちゃん」
エミリオは謝罪を口にして、申し訳無さそうに頭の後ろを掻いた。
しかし女性は、その謝罪の言葉はちっとも聞こえていなかったかのように唐突にエミリオの頬を平手打ちした。
近くに何本も川があるせいか、水分を潤沢に含んだ空気に渇いた音が木霊する。
叩かれた彼はぶつぶつと愚痴を零していたが、今度は反対側の頬を打たれたことで大人しくなった。
「どうして勝手に森に入ったの」
「ごめんなさい」
「ごめんじゃなくて、アタシは理由を聞いてるの」
燐子はそのやり取りを聞いて仰天した。
どうして彼女も日の本の言葉を使うのだ、そんなにも異人の間に誰かが教え広めたのであろうか、いや、だとしても異人同士の会話で母国の言葉を使わないのは奇妙である。
これはいよいよ自分の認識を改める必要があるのかもしれない。
腰に手を当て、上から相手を見下ろす彼女は、想像した通りの気の強さでエミリオを叱りつけていた。
彼はその問いを受けて反省半分といった様子で口を開く。
「僕だって、少しは村の役に立ちたくて」
「結局、みんなに迷惑をかけてるじゃない!」と二人のやり取りを少し離れたところから見ていた村人たちを指差して怒鳴りつける。
「でも、食料だって…」
なけなしの反抗心をかき集めた一言だったが、それもまた彼女の有無を言わさぬ迫力に負けて、尻すぼみになって消えた。
口出しする問題ではなさそうだ、と腕を組み、その様子をつぶさに観察していた燐子だったが、残った村人たちに声をかけられてその佇まいを直した。
「旅のお方」
ここでも言葉は変わらずか。
色々と聞きたいことはあったが、彼らが信頼に足る人物かどうかもまだ疑わしい。
燐子は今のところは黙って話を聞くことに決めたのだが、その老人が「私の孫が世話になりました」と口にしたことで、思わず声を発してしまった。
「貴方が…」
集まっていた人々はほとんどが年のいった男性ばかりだったが、その中でも特に腰の曲がった老齢の男性が、しゃがれた声で不思議そうに返事をした。
「私が、どうかされましたか?」
「エミリオが、貴方であれば色々なことにお詳しいのだと言っておりました」
老人は謙虚な笑みを浮かべながらそれを否定したが、構わず燐子は続ける。
「まず、ここはどこですか?」
彼は深く頷き、「ここは、カランツの村です」と答え、次に燐子がどこから来たのかを訪ねたものの、それに関して燐子はあえて何も答えなかった。
カランツなどという地名に全く聞き覚えがなかった燐子は、頭の中で、もう何度かその言葉を反芻させていたのだが、結局その言葉に繋がるものは、先程目にした美しい水脈に囲まれた集落だけだった。
エミリオは未だに説教から抜け出すことができていないようで、ひたすらに女性から叱りを受け続けている様子である。
言葉の節々に厳しいながらも思いやり感じさせる彼女であったが、多少その口調に品の無さを覚える。
まあ育ちの良い者と悪い者の小さな差なのであろうと、燐子は直ぐに受け入れた。
燐子のそんな目線を追ったのか、老人は二人の姿を優しい目をして見つめたまま口を開いたのだが、その瞳があまりにも穏やかで静けさに満ちていたので、確かにこれはエミリオとの血の繋がりを感じるなと一人納得する。
「弟が黙って森に行ったことで、ミルフィも酷く不安だったのです。どうか、無礼な態度をお許しください」
「いえ、お気になさらず。無礼など受けてはおりません」
二人が姉弟だと聞いて、燐子は思わずそちらを振り返り、その顔をまじまじと見つめた。
すると、彼らはまだ言い争い、というよりも一方的な糾弾を続けていた。
冷静になるどころか増々女性の言動は刺々しくなり、身振り手振りも一層激しくなっている。
ミルフィ、というのがあの女性の名前らしい。背丈は165センチ無いぐらいで、年齢は二十歳頃か、それより少し若いか、とりあえず自分と変わらないぐらいのようだ。
黒いズボンに白いシャツ、その上に茶色のショールを羽織っている。
「だから、心配いらないんだって」
「心配いらない?心配いらないって?」
長過ぎる説教にさすがに嫌気が差してきたらしい彼は、苦虫でも噛み潰したような声で、再び細やかな反抗をしてみせた。
だが、それを耳にしたミルフィは顔を真っ赤にして、燐子が引きずって来た獣を指差した。
「アレのどこが心配いらないのよ!」
そう言うと頭に拳骨を食らわせたミルフィを見て、燐子は鼻を鳴らしながら「随分と仲が良いのですね」と皮肉を漏らした。
それから彼女らを放っておいて、燐子は案内されるがまま老人と二人で村の中に入って行った。
すれ違う人々の誰もが異人ばかりで、まるで自分のほうが異邦人と化したかのようだ。
そう、まるで、私のほうが…。
大通りと呼んでよいのか分からない規模の真っ直ぐ伸びた道を進みながら、燐子は様々な場所へと視線を向けた。
街行く人々、露店で売られている見慣れない食べ物、見るからに建築様式の違う建物…。
何もかもが私を弾き出そうと必死になっている、そんな気がした。